山内 久司(やまうち ひさし、1931年昭和6年〉11月9日 - 2014年平成26年〉8月13日[1])は、テレビプロデューサー朝日放送制作顧問。朝日放送ドラマ部門チーフプロデューサー担当を務めた他、松田 司の名義でドラマの脚本も執筆した[2]

来歴・人物 編集

大阪市西区出身。京都大学文学部文学科卒業。1955年4月、朝日放送に入社。同期に植草貞夫澤田隆治槇洋介がいる。1960年代には脚本家佐々木守とのコンビによる『お荷物小荷物』を始めとする一連の“脱ドラマ”を、1970年代前半から1980年代にかけては必殺シリーズを世に送り出した。その後は制作部長、制作局長、取締役制作局長、取締役常務、代表取締役専務を経て、2001年に役員退任後は常任顧問を経て、同社の経営に顧問として携わった。花園大学客員教授も務めていた。

山内の手法と体裁とイズムはかつての部下であった依田正和、福永喜夫、東浦陸夫、森山浩一、辰野悦央、奥田哲雄内片輝らに受け継がれた。

山内は入社から数年間、ラジオ番組の制作や演出を担当していたが、1965年にテレビの制作局に異動になった途端、上司から連続ドラマの制作を手掛けてくれと懇願された。

当時の朝日放送は『近鉄金曜劇場』『東芝日曜劇場』(TBS系)といった単発ドラマを数多く手掛けていたが、テレビ界は既に単発物から連続物が主流になる過渡期にあり、VTRの重要性が高まっていたこともあってか、連続ものの制作が殆ど皆無であった朝日放送は人材が明らかに不足していた。そこでラジオのプロデューサーをしていた山内に声が掛かったが、テレビドラマ制作のデビュー作となった『天まであがれ』は主役を予定していながら突如、引退した桑野みゆきの後任を巡り、彼女が所属していた松竹の制作本部長との激しい口論の末、制作本部長に白旗を上げさせることとなった[3]

若手の藤田尚子を起用して、無事に制作に漕ぎ着けた『天まであがれ』は山内にとっては満足のいかない結果であった。これを契機に連続ドラマに関する研究を始め、数多くの大ヒット作を生み出し、後に「テレビドラマの神様」と呼ばれることになる。これらの経験が、「ベテラン俳優をきちんと使えば結果がついてくる」という持論の源となる。

番組制作についてはそれらの姿勢や個人的な見解を示している。それはテレビ番組上でも変わりはなく、歯に衣を着せぬ辛辣な姿勢は崩さなかった。『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)のゲスト出演時は『パネルクイズ アタック25』について、「変わり映えのしないセットを使い回し、一般視聴者は出演料がなく、安価な賞金や商品で済ませられるから コストが掛からない。それらがスポンサーにも都合が良いため、結果として長寿番組になっている」と発言した。放送後は読売テレビに「番組内容を鑑みない、拝金主義の成れの果て」といった趣旨の批判意見が視聴者から殺到した。

朝日放送の経営から退いた後も同社顧問として、他局の番組に出演するなど各メディアで幅広く活躍していたが、2014年8月13日に死去した[1]。満82歳没。

死去後は山内本人の強い意思により公表されず、その死が公表されたのは死去から約4ヶ月後の同年12月8日であった[1]

主な作品 編集

制作 編集

プロデューサー 編集

劇場映画 編集

出演番組 編集

著書 編集

単著 編集

  • 『必殺!テレビ仕事人』朝日新聞社、1987年6月25日。ISBN 978-4022556912NDLJP:12275927 
  • タイムトリップ「江戸川柳」(1997年1月、PHP研究所ISBN 978-4569554747

共著 編集

  • 山田誠二『必殺シリーズを創った男―カルト時代劇の仕掛人、大いに語る(映画秘宝SPECIAL)』(1997年12月、洋泉社ISBN 978-4896912937

雑誌連載コラム 編集

作詞作品 編集

※いずれも「中西冬樹(なかにし ふゆき)」名義である。

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 「必殺」生みの親・山内久司氏が死去 日刊スポーツ (2014年12月9日)2021年12月25日閲覧
  2. ^ 映画秘宝』2022年2月号、p.71。櫻井洋三による証言
  3. ^ この一件がきっかけで山内と松竹との間に繋がりが出来、後の「必殺シリーズ」等の制作に大いに役立つことになった。
  4. ^ 作品によってはプロデューサーと表記されているものもある。
  5. ^ 途中から、河野雅人プロデューサーに交代

関連人物・項目 編集

外部リンク 編集