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山内 豊熈(やまうち とよてる)は、江戸時代後期の大名土佐藩の第13代藩主。

 
山内豊熈
時代 江戸時代後期
生誕 文化12年2月29日1815年4月8日
死没 嘉永元年7月10日1848年8月8日
改名 政太郎、晟太郎(幼名)→ 豊熈
別名 直寿
諡号 君戴、三鏡、鏡斎、芳洲
戒名 養徳院後鏡視倹
墓所 高知県高知市天神町 真如寺
官位 従四位下対馬守土佐守、侍従
土佐藩
氏族 山内氏
父母 父:山内豊資 母:美芳院(大賀宗文の娘)
兄弟 豊熈豊惇豊矩豊範、従、貞、悦、嘉年
正室:候姫島津斉興の娘)
側室:平岡権助の娘
酒井忠恕(酒井忠発嫡男)室、綱姫(浅野長勲室)、稲葉観通
養子:豊惇

生涯編集

文化12年(1815年)2月29日、第12代藩主・山内豊資の長男として生まれる。天保14年(1843年)3月7日、父の隠居により跡を継ぐ。幼時より聡明で知られ、佐藤一斎に師事した。

藩政改革を自ら行ない、西洋砲術を導入し、文武を奨励し、倹約令による藩財政再建、さらに馬淵嘉平など身分にとらわれない有能な人材の登用などを行なっている。

馬渕嘉平は豊熈からの信任が厚く、藩財政の収支の見直し、専売制の強化、問屋制からの脱却による寄生的な藩財政体質の改善など、旧体制からの脱却と新体制の確立を目指した。このため、馬渕らは「おこぜ組」と呼ばれて保守派から異端視されたが、豊熈は嘉平を支持した。ところが、馬渕が当時異学視されていた心学を学んでいたことを保守派から糾弾されたため、豊熈はやむなく馬渕を処罰せざるを得なくなった。また、豊熈も嘉永元年(1848年)の参勤交代江戸に出た直後の7月10日に34歳で死去したため、藩政改革は結果的に失敗に終わった。

跡を弟で養嗣子の豊惇が継いだ。