山口 西成(やまぐち の にしなり)は、平安時代初期から前期にかけての貴族儒学者備後介山口佐美麻呂の曾孫とする系図がある[1]官位従五位下紀伊介

 
山口西成
時代 平安時代初期 - 平安時代前期
生誕 延暦21年(802年
死没 貞観6年1月17日864年2月27日
官位 従五位下紀伊介
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 山口氏(山口忌寸
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経歴 編集

右京出身。幼少時は読書を怠り、射術を好んで習得した。成人するに及んで心を改めて大学で学び、春秋に通暁しているとして名を挙げ、加えて『毛詩』『周易』にも通じた[2]文章得業生に補せられたのち、奉試に及第して大宰博士に任ぜられ、承和年間の初頭に大学直講に転じた。

仁明朝末の嘉祥元年(848年)12月に渤海国王使が来朝したが、翌嘉祥2年(849年)2月に西成は仮に大学権大允を称して、少内記県犬養貞守とともに存問兼領客使を任せられ、渤海国王使を引導して加賀国を経て4月末に平安京に入京させた。まもなく助教に転じる。文徳朝にて仁寿3年(853年従五位下斉衡3年(856年)従五位下・大和介天安2年(858年)紀伊介に叙任された。なお、紀伊介の任期終了後の貞観5年(863年)に紀伊守・並山王が期限を過ぎても西成の放還与不状を報告しなかったことから、王は公廨の没収処分を受けている[3]

貞観6年(864年1月17日卒去享年63。最終官位散位従五位下。

官歴 編集

六国史』による。

脚注 編集

  1. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻10,倭漢氏 弟腹
  2. ^ 『日本三代実録』貞観6年正月17日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観5年2月15日条

参考文献 編集