山吉 長久(やまよし ながひさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武士。後世史料にのみ三条城主として登場する。

 
山吉長久
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応2年(1289年[1]
死没 正平10年/文和4年(1355年[1]
別名 池長久、通称:孫次郎
官位 伊予守
氏族 山吉氏
父母 父:池成明、母:池伊豆守清久
正室:長尾景能
長尾定時室、長尾景晴正室、長盛
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生涯 編集

『山吉家家譜』[2]では山吉定明(池成明)の子で、池清久の外孫とされる。

『北越雑記』には、三条城主・池伊豆守長久は元亨元年(1321年)に家督を継ぎ、足利尊氏に味方して、義兄弟の長尾景為景恒らと共に、南朝方の村山一族と戦ったと記されている[3]が、同時代史料では長久の名は確認できない[4]

江戸時代後期に成立したとされる「法華宗総本山本成寺縁起」や山吉系譜によれば、父・定明が建立した青蓮華寺[5]に寺領を寄進したという。

脚注 編集

  1. ^ a b 『山吉家家譜』による
  2. ^ 江戸時代に成立した山吉氏の系譜の一つ。しかし、山吉豊守以前の山吉家の系譜はいずれも信用できないとする学説も存在する。参照『三条市史 上巻』134-136頁。
  3. ^ 大日本史料6編16冊709頁
  4. ^ 同時代史料では、新田義貞の討幕軍に池一族と思われる池七郎成清が参陣しており(「大河戸隆行軍注状」『鎌倉遺文』32647号)、『太平記』にも大井田式部大輔らと共に尊氏軍と戦った新田勢のなかに池氏の名が認められる。その後の南北朝の対立にも、池氏は小国氏河内氏風間氏らと共に南朝方として、色部氏加地氏などと戦っている(『新潟県史資料編』1515、1935号)が、観応の擾乱期には北朝方となり、村山信義や風間氏らと戦っている(『新潟県史資料編』1719号)。
  5. ^ 新潟県三条市にある法華宗陣門流総本山