山岳派
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山岳派(さんがくは、フランス語: Montagnards[1][2][9]; Montagnard[4], モンタニャール[4])とは、元々は党員が立法議会の最も高い位置の議席に座ったことでその名が付けられた[9] フランス革命期の政治党派で[1]、革命期最大の政治結社であったジャコバン派を母体とする[12]。後にロベスピエールらを中心とする国民公会における左翼勢力となり[2]、ジロンド派追放後は公安委員会を柱とする恐怖政治を行い[4]独裁的権力を掌握するも分派の対立[1]やロベスピエールの失脚によって解体、衰退していった[2]。

概要編集
山岳派は最も急進的な党派であり、ジロンド派と対立した。「山岳派」の呼称は立法議会の会期中に初めて用いられ、1793年に一般化した。マクシミリアン・ロベスピエールに率いられて、山岳派は1793年に恐怖政治を引き起こした。1793年の夏には、山岳派とジロンド派と呼ばれる二つの小会派が国民公会を二分していた。山岳派は主に中間階級出身者で構成されたが、パリの選挙区を代表した。それゆえ山岳派は都市の意向に敏感で、労働者階級サン・キュロットの要求に強く反応した[13]。山岳派は殆どパリ以外の都市や町の人々の日々の生活や欲求を理解していなかった。田舎の土地改革を企図したが、殆どは実行に移されず、フランスの田舎の欲求よりも都市の貧者の欲求に一般的に焦点を当てた。山岳派はパリに最善であることがフランス全土に最善であるとの信念で活動した[14]。
ジロンド派は立法議会時代に作られた穏健派の党派であった[15]。山岳派における過激な代議士に対する反対派であった。ジロンド派はルイ16世の処刑を避けようと欲し、民衆の投票で法律を覆せる憲法を支持していた[15]。提案された憲法のこの注記がフランスの農村部が山岳派の主要な選挙区であるパリの利益になる法律に反して投票できるために山岳派はジロンド派をパリに対して陰謀を企んでいると攻撃した。しかし議会の本当の対立は、山岳派とジロンド派の間で起こったものではなく、山岳派の少数派の好戦的なふるまいと議会の残りの会派の間で起こったものであった[16]。
山岳派は全体としては党派としてまとまっておらず、自身が異なる党派を代表することになるマクシミリアン・ロベスピエールやジョルジュ・ダントン、ジャック・ルネ・エベールのような指導者を当てにした[17]。ダントンが山岳派の穏健派を(同志はダントン主義者として知られることになる)率いた一方で、記者のエベールは、急進的な憂国の山岳派として(エベールの信奉者はエベール主義者として知られることになった)同志を得た[18]。この分裂にも関わらず、サントノーレ通りで行われた毎夜の集会は、山岳派にとっての一種の党員集会とみなすことができる[19]。1793年6月、山岳派は急進的なサン・キュロットの支援を得て議会の穏健なジロンド派の大半を成功裏に追放した[20]。
この政変に続いてエロールセキュエル率いる山岳派は、速やか新憲法に関する立憲作業を開始し8日後に完成させた[21]。公安委員会は6月10日に議会に憲法を報告し、最終草案が6月24日に可決された。この手続きが急速に進められたのは、山岳派の著名な党員であるロベスピエールが6月10日に「良き市民が憲法を要求した」、そして「山岳派の仕事であるこの憲法が、愛国的な代議士からの回答となるだろう」と発表したためである[22]。しかしこの憲法は実際には施行されることはなかった[23]。後にロベスピエールが「革命を擁護する」ために自分と公安委員会に独裁権を与えたことで、この1793年憲法は放棄された[24]。
歴史編集
起源編集
明示する線は早くから混沌とさせていた為に山岳派の考えを正確に示すのは困難である。元々山岳派はジャコバン派の最上段の列に座る人々であり、広い意味で一般向けに政治論争をする集団を形成していた[25]。山岳派は1793年より前は急進的な政治決議に関与することで知られたが、政治団体の輪郭は、事件への反応の中で移行する常に発展する現実を表していた。ジャン=バプティスト・ロベール・リンデやジャンボン・サンタンドレのような自称著名な山岳派指導者は、初期のジロンド派の提案に引き込まれ、暫くして多くの穏健派は(反急進派さえも)、国の内外の脅威を考慮して急進的な試みに押しやる必要を感じた[26]。山岳派の理想と力が十分に固まるのは、大逆罪の立場で山岳派を纏める1792年12月のルイ16世の裁判の後のことに過ぎなかった。
興隆と恐怖編集
山岳派の興隆は、ジロンド派の凋落と符合する。ジロンド派は1791年6月20日にフランスを脱出しようとした後のルイ16世と行う行動の修正を躊躇した。ジロンド派の一部は、国王を表看板として使えると信じた。ジロンド派が躊躇する一方で、山岳派は1792年12月-1793年1月の裁判で一致した立場を取り、国王の処刑に賛成した[27]。
勝利に乗っかり山岳派はジロンド派の信用を貶めようと努めた。嘗て嘘つきや革命の敵と告発するジロンド派に用いられた手段を用いた[28]。山岳派への支援を得ながらニコラ・ヘンツが相続の制限を提案した立法委員会も形成した。ジロンド派はその後ジャコバン派から禁止され1793年5月31日-6月2日の国民公会から排除された。抵抗の目論見は、全て弾圧された。その際マクシミリアン・ロベスピエールは公安委員会を利用することで山岳派に対する権力を確かなものにし続けた[29]。
山岳派の政策編集
企画した土地の再分配政策を通じて山岳派は農村部の貧民への支援を示した。1793年8月、山岳派は農業改革で合意した法律の一部を草案化し、特に「収穫の損失や改良に向けた補償、保有の永続に続く賃貸借の免除」を要請した[30]。このことは南西部の物納小作人の不安と戦う一環であった。この草案は決して法律に盛り込まれなかったが、徹底的な改革は、農村部の貧民と都市の貧民の双方にとって支援の基礎を満足させる山岳派の需要の自覚を示唆している[30]。
貧者の支援を狙った別の政策に1793年に山岳派により行われた価格統制があった。全面限界法令と呼ぶこの法律は、アンラジェとして知られる山岳派内部の先導者集団に指示された。フランス国内を通じて価格と賃金を固定した[18]。同時に商品が乏しくなった為にパンの価格は上昇し、コロー・デルボワやビョー=ヴァレンヌによる先導で「日々の必需品」の貯蔵を禁じる法律が1793年に施行された[31]。穀物の貯蔵は、死刑で処罰される犯罪となった[32]。
山岳派により執行された他の経済政策にフランス商品の輸出に関する経済制裁があった。この経済制裁の結果、フランスは外国市場と貿易することが本質的に不可能になり、商品の輸入は、事実上終了した[33]。理論上このことは外国の商品からフランスの市場を守りフランスの商品を支持するようフランス人民に要求した。外国商品に対する経済制裁に加えて、1793年10月に山岳派により可決された法律1651号は、外国の船にフランス沿岸での貿易を禁止することで欧州の残りから更にフランスを孤立させた[34]。
減退と凋落編集
国民公会からの山岳派の凋落と排斥は、革命の急進期の崩壊と1794年テルミドール10日(7月28日)のロベスピエールの死と共に始まった。山岳派が統一を祝う一方で、ロベスピエールと公安委員会が政府内の汚職に対して軍事や厳しい反対に関して厳格な管理で無理をしたことで山岳派内に異成分が成長することになった[35]。その無理は穏健派のダントン主義者を率いる協力者がロベスピエールが処刑を計画しているとの恐れへの反応として起こしたテルミドール9日に合体する他の革命指導者の憤怒や数多の陰謀を引き起こした(テルミドールのクーデター)[27]。
ロベスピエールの粛清は、ジロンド派のように不快な党派を追放する山岳派により採用された嘗ての手法に激しく似ていた。しかしロベスピエールが広く山岳派の中心とみなされていた為にその死は山岳派の崩壊を象徴していた。僅か約100人がいなくなっただけでその後は山岳派の名称を引き継ごうという人は殆どいなかった[26]。遂に1794年末には山岳派は大部分は真の権力を失った「とさか」(フランス語: crête)と呼ばれる党派に移行した[36]。
派閥と著名人編集
山岳派は著名な左翼会派二つ(ジャコバン派とコルドリエ・クラブ)が合併して1792年に誕生した。ジャコバン派は当初穏健な共和派で、コルドリエ・クラブは急進的な大衆主義者であった。1792年後半にダントンと支援者は、ロベスピエールとの決裂をきっかけにジロンド派との和解を求めた。1793年のジロンド派の裁判後にロベスピエールが権威主義政策を続ける一方でダントンは激しく穏健派になった。
ダントンの穏健派は、非山岳派全てとフランスの非キリスト教化運動の迫害を欲するジャック・ルネ・エベールのアンラジェとも対立していた。ロベスピエールが最初にエベール派(1794年3月)を、それからダントン派(1794年4月)を排除すると、この派閥は山岳派を支配した。これは平原派に支援された陰謀者数人がクーデターを行うテルミドールのクーデターまでのことであった。ロベスピエールと支持者を処刑し、テルミドール派左派を形成する山岳派から袂を分かった。生き残った山岳派は、逮捕されたり処刑されたり追放された。1794年から1795年にかけて山岳派は事実上抹殺された。
- ロベスピエール派:
選挙結果編集
選挙年 | 全投票者数 | 全投票者の 割合 |
獲得議席の総数 | +/– | 代表 |
---|---|---|---|---|---|
国民公会 | |||||
1792年 | 907,200 (2) | 26.7 | 200 / 749 |
||
立法院 | |||||
1795年 | 不参加(6) | 不参加 | 64 / 750 |
||
1798年 | 不明(1) | 70.7 | 175 / 750 |
||
1799年 | 不明(1) | 不明 | 240 / 500 |
参照編集
- ^ a b c d e f g 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
- ^ a b c デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
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- ^ Gregory Fremont-Barnes (2007). Encyclopedia of the Age of Political Revolutions and New Ideologies. Greenwood Press. p. 867
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- ^ a b Jeremy D. Popkin, A Short History of the French Revolution: Sixth Edition, (Pearson Education, Inc. 2006), 50-51.
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参考文献一覧表編集
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- Peter McPhee, Robespierre: A Revolutionary Life. (Yale U.P., 2012).
- Robert J. Alderson, This Bright Era of Happy Revolutions: French Consul Michel-Ange-Bernard Mangourit and International Republicanism in Charleston, 1792-1794. (U. of South Carolina Press, 2008).
- The Editors of Collins English Dictionary. "Mountain (the Mountain)." Collins English Dictionary Online (accessed May 24, 2014).
- The Editors of Encyclopædia Britannica. "Montagnard (French history)." Encyclopædia Britannica Online (accessed May 8, 2014).
その他参考になる書物編集
- Shusterman, Noah (2013). The French Revolution: Faith, Desire and Politics. Routledge. p. 255. ISBN 978-0415660211
- Hanson, Paul R. (2004). Historical Dictionary of the French Revolution (Historical Dictionaries of War, Revolution, and Civil Unrest). p. 395. ISBN 978-0810850521
- Jordan, David P. (1983). The Jacobins and Their Victims in The Eighteenth Century. University of Pennsylvania. p. 268. ISSN 0193-5380.
- Palmer, R.R. (2005). Twelve Who Ruled: The Year of the Terror in the French Revolution. Princeton University Press. 978-0691007618.
- Popkin, Jeremy D. (2016). A Short History of the French Revolution. Routledge. 978-0205968459.