山田斂

日本の地主、農政家、政治家

山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日[1][2])- 1941年昭和16年)12月20日[1][3])は、日本の地主、農政家、政治家貴族院多額納税者議員

山田斂
やまだ おさむ
生年月日 1865年10月8日
出生地 日本の旗 日本 越前国坂井郡一本田村
(現・福井県坂井市
没年月日 (1941-12-20) 1941年12月20日(76歳没)
出身校 明治法律学校卒業
(現・明治大学
所属政党 研究会
親族 父・山田穣(貴族院議員)

在任期間 1918年9月29日 - 1925年9月28日

当選回数 1回

坂井郡会議員

高椋村会議員
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概要 編集

越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた[2][4]。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業[1][3]。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した[2]

1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた[3]。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した[4]。1918年(大正7年)9月29日[5]、貴族院多額納税者議員に就任し[3]、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した[4]。在任中は研究会に所属し、1925年(大正14年)9月28日まで務めた[3]

1895年(明治28年)坂井郡農会が設立され、同会長に就任し終生在任した[1]。1909年(明治42年)興農信用組合を設立し、小作人に営農資金の貸付を行った[4]。福井県農会副会長、同会長、帝国農会議員などを務め、小作制度、農業金融などの課題の解決に尽力した[1][2][4]

太平洋戦争開戦時は、県農会長として食糧増産を推進した[4]。1941年死去。76歳。

著作 編集

  • 『興農管見』山田斂、1901年。
  • 『晩成園随筆』帝国農会、1942年。
  • 編『興農会事業一班』山田斂、1913年。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』1975頁。
  2. ^ a b c d 『大正人名辞典 第3版』1319頁。
  3. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』226頁。
  4. ^ a b c d e f 『福井県大百科事典』1013頁。
  5. ^ 『官報』第1848号、大正7年9月30日。

参考文献 編集

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。

外部リンク 編集