山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日1867年12月18日) - 昭和27年(1952年11月21日)は、日本漢学者陽明学者教育者二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、は士表、済斎はで正しくは濟齋である。

山田 済斎
人物情報
生誕 (1867-12-18) 1867年12月18日
日本の旗 日本 岡山県高梁市
死没 1952年11月21日(1952-11-21)(84歳没)
出身校 二松学舎
学問
研究機関 二松学舎専門学校
テンプレートを表示

略歴

編集
  • 1867年(慶応3年:0歳) - 11月23日、備中松山藩甲賀町(現・岡山県高梁市)に木村豊の三男として生れる。
  • 1869年(明治2年:2歳) - 父の木村豊が没する。享年54。
  • 1873年(明治6年:6歳) - 4月、高梁小学校に入学。
  • 1880年(明治13年:13歳) - 4月、高梁小学校を卒業。漢学塾の有終館に入学。
  • 1883年(明治16年:16歳) - 上京し、漢学塾の二松学舎に入学。
  • 1884年(明治17年:17歳) - 3月、山田方谷の嗣子・耕造(知足斎)の長女である春野と結婚。山田家を相続。8月、東京帝国大学文科大学古典講習科漢書課に合格。
  • 1888年(明治21年:21歳) - 7月、古典講習科を卒業。12月、二松学舎本科高等部全課を卒業。師匠の三島中洲から済斎の号を授かる。
  • 1893年(明治26年:26歳) - 城北中学の講師になる。
  • 1896年(明治29年:29歳) - 4月、陸軍参謀本部編集補となる。
  • 1899年(明治32年:32歳) - 10月、熊本の第五高等学校の教授(漢文科主任)となる。
  • 1901年(明治34年:34歳) - 鹿児島の第七高等学校造士館の教授になる。
  • 1917年(大正6年:50歳) - 2月、勲五等瑞宝章を受ける。二松学舎の舎長に就任した渋沢栄一は、運営組織である二松義会で山田と顔を合わせるようになり、山田の存在を認識することになる[1]
  • 1919年(大正8年:52歳) - 1月、正五位に叙せられる。
  • 1922年(大正11年:55歳) - 12月、二松学舎名誉教授となる。
  • 1924年(大正13年:57歳) - 7月、従四位に叙せられる。
  • 1926年(大正15年:59歳) - 正四位勲四等に叙せられる。
  • 1927年(昭和2年:60歳) - 1月、二松学舎の学長に招聘される。
  • 1928年(昭和3年:61歳) - 4月、二松学舎専門学校の校長となる。大東文化学院の教授を兼任する。
  • 1939年(昭和14年:72歳) - 9月、東洋大学の講師を兼任する。
  • 1940年(昭和15年:73歳) - 11月、勲三等瑞宝章を受ける。
  • 1943年(昭和18年:76歳) - 3月、全ての職を退き、二松学舎名誉学長、二松学舎専門学校名誉校長、大東文化学院名誉教授となる。
  • 1951年(昭和26年:84歳) - 『山田方谷全集』を刊行。
  • 1952年(昭和27年:85歳) - 11月21日没する。先瑩の方谷園(高梁市中井町西方)に葬られる[2]

主な著書

編集

著書

編集
  • 十八史略読本、山田済斎(準)注、益友社、1893年(明治26年)
  • (山田)方谷先生年譜、山田準(編著)、山田準(私家版)、1890年(明治23年)
    • (山田)方谷先生年譜、1943年(昭和18年)
  • (教科適用)標註小学内篇、山田準(註)、誠之堂書店、1897年(明治30年)
  • 山田方谷先生門下姓名録 附遺教、1926年(大正15年)
  • 陽明学精義、鹿児島王学会、1926年(大正15年)
    • 陽明学精義、三友社書店、1932年(昭和7年)
    • 陽明学精義、静思書院、1940年(昭和15年)
    • 陽明学精義、金鈴社、1942年(昭和17年)
  • 評註十八史略、池田慮洲(校)、松雲堂書店、1930年(昭和5年)
  • 漢詩吟詠 養気集、静思書院、1931年(昭和6年)
    • 漢詩吟詠 養気集、二松学舎大学出版部、1983年(昭和58年)
  • 陽明概論、岩波書店〈東洋思潮〉、1933年(昭和8年)
  • 陽明学概論、共立社〈漢文学講座第六巻〉、1933年(昭和8年)
  • 現代指導 陽明学講話、章華社、1934年(昭和9年)
  • 山田方谷と国体思想、東洋書院〈日本精神研究大三輯〉、1934年(昭和9年)
  • 伝習録、大東出版社〈漢籍を語る叢書九〉、1935年(昭和10年)
  • 日本名詩選、章華社、1935年(昭和10年)
  • 修養清話 言志録と陽明学、主張社、1936年(昭和11年)
  • 陽明学と抜本塞源論、日本文化協会、1936年(昭和11年)
  • 伝習録講本 全、二松学舎出版部、1937年(昭和12年)
  • 精講 日本名詩選、章華社、1937年(昭和12年)
  • 王陽明、章華社〈支那聖賢講話全書.第9巻〉、1937年(昭和12年)
    • 王陽明、二松学舎大学陽明学研究所、1980年(昭和55年)
  • 大塩中斎佐藤一斎、北海出版社〈日本教育家文庫.第34巻〉、1937年(昭和12年)
    • 大塩中斎・佐藤一斎、啓文社、1939年(昭和14年)
  • 論語教本、1939年(昭和14年)
  • 済斎詩鈔(乾,坤2冊)、山田琢校、山田琢(私家版)、1940年(昭和15年)
  • 王陽明伝習録講本、松雲堂書店、1940年(昭和15年)
  • 陸象山・王陽明、岩波書店1943年(昭和18年)
  • 日本名詩選精講、金鈴社、1943年(昭和18年)
  • 南洲百話、金鈴社、1944年(昭和19年)
  • 済斎文存、1948年(昭和23年)
  • 済斎帰休詩鈔、山田琅等編、私家版、1962年(昭和37年)
  • 陽明学講話、二松学舎大学出版部、1980年(昭和55年)

編著

編集
  • 方谷先生頌寿集、山田準(編)、二松学舎出版部、1928年(昭和3年)
  • 知足斎詩鈔、山田明遠(著)、山田準(輯)、山田準(私家版)、1930年(昭和5年)
  • 方谷印譜、山田準(編著)、1933年(昭和8年)
  • 中洲三島先生年譜、門下山田準(輯)、1937年(昭和12年)
  • 西郷南洲遺訓 付 手抄言志録及遺文、岩波書店〈岩波文庫〉、1939年(昭和14年)、ISBN 4-00-331011-X
  • 洗心洞箚記、大塩中斎(著)、山田準(訳註)、岩波書店〈岩波文庫〉、1940年(昭和15年)
  • 山田方谷全集(3巻3冊)、山田方谷全集刊行会、1951年(昭和26年)
  • 傳習録講本、王陽明(著)、松雲堂書店、1983年(昭和58年)

共著

編集
  • 方谷遺藁(上・中・下 3冊)、三島毅(編)、山田準(校)、山田準(私家版)、1890年(明治23年)
  • (教科適用)標註論語、深井鑑一郎・山田準、誠之堂書店
  • (教科適用)標註大学 中庸、深井鑑一郎・山田準、誠之堂書店
  • (教科適用)標註四書、深井鑑一郎・山田準、誠之堂書店、1897年(明治30年)
  • 標註四書深井鑑一郎・山田準、藍外社
  • (教科適用)標註孟子、深井鑑一郎・山田準、誠之堂書店
  • (教科適用)標註小学、晦菴(編)・山田準(註)、誠之堂書店、1897年(明治30年)
  • 玉川唱和集、山田準(他編)、山田準(私家版)、1927年(昭和2年)
  • 言志四録、佐藤一斎(著)、山田準・五弓安二郎(訳註)、岩波書店〈岩波文庫〉、1935年(昭和10年)、復刊1987・1999年ほか。ISBN 4-00-330311-3
  • 孫子、山田準・阿多俊介(訳註)、岩波書店〈岩波文庫〉、1935年(昭和10年)
    • 孫子、山田準・阿多俊介(訳註)、一穂社〈名著/古典籍文庫 旧文庫復刻版〉、2005年(平成17年)、ISBN 4-86181-106-6
  • 伝習録、王守仁(著)、山田準・鈴木直治(訳註)、岩波書店〈岩波文庫〉、1936年(昭和11年)、ISBN 4-00-332121-9
  • 評釈千字文、山田準・安本健吉(注解)、岩波書店〈岩波文庫〉、1937年(昭和12年)、復刊1977・1989年

エピソード

編集

済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった[3]

参考文献

編集
  • 『陽明学』〈第8号 山田済斎特集号〉、二松学舎大学陽明学研究所、1996年3月31日発行
    • 山田敦「山田済斎・略年譜」、159-165頁
    • 小林憲二「山田済斎著述目録」、166-172頁
  • 町泉寿郎「二松学舎と陽明学」(町泉寿郎編著『渋沢栄一は漢学とどう関わったか―「論語と算盤」が出会う東アジアの近代―』ミネルヴァ書房、2017年)

脚注

編集
  1. ^ 町泉寿郎「二松学舎と陽明学」(町泉寿郎編著『渋沢栄一は漢学とどう関わったか―「論語と算盤」が出会う東アジアの近代―』ミネルヴァ書房、2017年)
  2. ^ 中田勝「中洲・済斎・惇斎の学脈」(『陽明学』〈第8号 山田済斎特集号〉)、77頁。
  3. ^ 川久保廣衛「『陽明学精義』を読む」(『陽明学』〈第8号 山田済斎特集号〉)、109頁

関連項目

編集

外部リンク

編集