山田 英二(やまだ えいじ、1962年4月25日 - )は、日本のレーシングドライバー奈良県吉野郡大淀町出身。血液型はB型。愛称はターザン山田もしくはラーマン山田。由来は幼い頃、鈴鹿サーキットの看板によじ登って観戦していた事から。主に雑誌企画等でのタイムアタックで名を知られており、様々な車種のチューニングカーを幅広く乗りこなす。

山田 英二
やまだ えいじ
2007年
バージニアインターナショナルレースウェイ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1962-04-25) 1962年4月25日(61歳)
出身地 奈良県吉野郡大淀町
過去参加シリーズ
全日本F3選手権
全日本ツーリングカー選手権
全日本GT選手権
SUPER GT
スーパー耐久

人物 編集

中学1年の時、車好きの兄と『サーキットの狼』や鈴鹿サーキットでのF2星野一義の走りに感動した事がレーシングドライバーになったきっかけである[1]。中学2年時にはレーサーになると心に決めており、「高校に行ってもレースをするのに役立たない。3年無駄に過ごすならその間働いてレース資金を作ろう」と考え[2]、家業の運送業を手伝い運転免許取得が可能となる18歳になるのを資金を貯めながら待った。免許を取れたらサーキットライセンスも取得してすぐにでもレースを始めたいと思っていたが、当時はレース界の情報が皆無であり「サーキットライセンスをどう取ればいいのかを知るのにも時間がかかった」のに加えて、「根本の問題としてどうすればレースに出場できるのか、マシンの手配はどうしたらいいのか」など、未知の世界のことを人の見よう見まねでひとつひとつ手配するのに時間は過ぎてしまい、レースデビューするまで1年かかってしまうという焦燥の時を過ごす[2]。思案した結果、トラック運転手の仕事で貯めたすべての現金を持って鈴鹿サーキットへと行き、「マシンを売ってください」と頼んでみるという手段に出る。そこで鈴鹿周辺にいくつか存在するレーシングコンストラクターの存在を教えてもらい、入門カテゴリーであるFJ1600マシンを手に入れることに成功する[1]

1981年5月、鈴鹿シルバーカップFJ1600にてデビュー。FJ1600には翌年も参戦しテクニック的にFJのトップドライバー達と互角に戦えたため、1983年には参戦資金額がFJ1600とそれほど変わらなかったF3へのステップアップを目指し、ハヤシレーシングから320シャシーをレンタルし全日本F3選手権に参戦開始。スポット参戦であったがランキング6位を獲得する。

1984年のF3では開幕前に東名自動車のチーフメカからのアドバイスを受け、参戦資金のほとんどを注ぎ込んで中古のマーチ・793を購入し東名自動車でオーバーホールしての参戦となった。手持ちの資金で得られるベストの体制を作り、5年落ちのシャシーながら開幕戦でポールポジション、第3戦でポールtoフィニッシュで優勝など活躍。チーム・イクザワのテクニカル・アドバイザーだった宮坂宏がこの山田の走りに注目しアドバイスを送り、同チームのF2参戦ドライバーの候補になるなど注目され始める。この時期を山田は「僕のような新参者には経験不足を補う多くの先輩からのアドバイスが必要。ヘタはヘタなりにアドバイスに従って走ることが早く走るためのコツ」「練習に多くの時間が割けないので、僕にとっては実戦イコール練習です。甘いところだらけで未熟。でもレースだけを目標に全てを注ぎ込んで今やあとがない自分、負ける事が許されない状況が勝ちにつながっていると思います」とインタビューに答えている[2]

以後全日本ツーリングカー選手権等に参戦、1994年には日本のフォーミュラレース最高峰である全日本F3000選手権にも参戦した。近年ではスーパー耐久シリーズに参戦している。2011年には全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の審査員に就任した。

以前V-OPT主催のレースで、チューニングショップのオーテックツカダ製作のR32GT-Rで他車を10秒近く差をつけ優勝したが、ファイナルラップでの蛇行運転により失格になった事がある。

愛車はトヨタ・プリウス。以前は日産・キューブトヨタ・ヴィッツキャデラック・SRXフォード・モンデオ(後述の人体実験企画でエアバッグテストに使われる)に乗っていた事がある。その理由について「GT-Rとかに乗ると煽られそうだから」と話している。また、同じ理由で洗車もしていないとのこと。

Optionでの活躍 編集

レース活動だけでなく、雑誌『OPTION』や『ビデオオプション』などのメディアでも盛んに活動しており、タイムアタック等で数多くのチューニングカーに乗っている。また、カメラの前においてはラーマン山田(場合によっては「すっとこどっこい」「噴飯者」「馬鹿者」とつく場合がある)を名乗り性悪なキャラクターを演じる一方、普段は大人しく土屋圭市織戸学などにからかわれる一面もある。なお、取材カメラと間違えて、ファンのカメラにずっと喋りかけていたこともある。

『ビデオオプション』の企画「ラーマン山田の人体実験」は、それまでの企画で山田がスタッフにあまりに乱暴を働いてきたので、スタッフから逆襲を仕掛けるという設定で始められた。

なお危険が伴う企画にも率先して受け続ける姿勢には、土屋をはじめ、関係者から評価が高い。

0-1000mチューニングカーフル加速企画は、行う場所によってはブレーキングポイントが非常にシビア(遅れると壁に突っ込んでしまう)なため、ラーマンしかアクセルを踏み切れるドライバーが居ないという。ドラッグレース仕様のR35GT-Rで挑戦した際は、さすがに停まり切れないと判断して1000m手前でアクセルを抜いてしまった事もある。

谷田部最高速テストにて、フルチューニングされたS14型シルビアで走行中にバンク出口でハンドル操作を誤り、地面と空中を十数回転するという大クラッシュ起こし、そのまま筑波メディカルセンターに救急搬送された。車体のロールバーフルバケットシート3点式シートベルトなどのおかげで重症ではあったものの命に別状はなく、数日後には入院病棟にてカメラに向かって軽口を叩いていた[3]

市販車ベースのチューニングカーに乗せたら「日本一速い男」[4]とも言われており、快適仕様のマインズR34型スカイラインGT-Rに初めて試乗した際は、たった2周で筑波サーキットにて58秒98というタイムを出した。フジツボ主催の公道を封鎖して行われた峠全開走行では、1000馬力超の大暴れするR35GT-Rをテクニックで強引にねじ伏せ、飯田章が運転する800馬力超のR34型スカイラインGT-Rに5秒以上の大差をつけたこともある。画面越しに実況をしていた鈴木学も、ただひたすらに「速い」「怖い」を連呼していた。

本雑誌とのタイアップしたレースゲーム『Optionチューニングカーバトル』に、ターザン山田の名前で登場。伝説の走り屋「疾風」の影武者として主人公と対決する。なお、本当の「疾風」は当時Optionで活躍していた稲田大二郎(ゲームでは「Dai」)である。

レース戦績 編集

  • 1981年 - 1982年 鈴鹿シルバーカップ FJ1600(計12戦、2PP, 1勝)
  • 1983年 - 全日本F3選手権(ハヤシ320/トヨタ2T-G)(シリーズ6位)
  • 1984年 - 全日本F3選手権(マーチ793/トヨタ2T-G)(シリーズ2位, 4 PP, 2勝)
  • 1985年 - 全日本F3選手権(マーチ793/日産)
  • 1988年
    • 日産ザウルスカップ(シリーズチャンピオン)
    • 全日本F3選手権(ラルトRT31/VW)
  • 1989年
    • 日産ザウルスカップ(シリーズチャンピオン)
    • フォーミュラミラージュ
  • 1991年
  • 1992年
  • 1993年 - スーパーN1耐久
  • 1994年
  • 1995年 - 全日本GT選手権 GT11クラス <ラウンド4> TCRCコムテック ELF GT2
  • 1996年
  • 1997年
    • 十勝24時間レース
    • スーパーN1耐久
  • 1998年〜1999年 - スーパー耐久
  • 2000年
    • 全日本GT選手権 GT300クラス <ラウンド2,3> オートスタッフアドバンシルビア
    • 全日本GT選手権 GT500クラス <ラウンド4> イクリプスDUPLEXバイパー
    • 全日本GT選手権 GT300クラス <ラウンド6,7> DUPLEXタイサンADバイパー
    • スーパー耐久 クラス1 トトムフジツボGT-R Bドライバー(シリーズ3位)
  • 2001年
    • 全日本GT選手権 GT300クラス イクリプス オメガ タイサン バイパー(シリーズ15位)
    • スーパー耐久 クラス1 トトムフジツボGT-R(シリーズ2位)
  • 2002年
    • 全日本GT選手権 GT300クラス イクリプスタイサンADバイパー(シリーズ14位)
    • スーパー耐久 クラス3 C-WESTアドバンRX7 Cドライバー(シリーズチャンピオン)
  • 2003年
    • 全日本GT選手権 GT300クラス ECLIPSE タイサン ADVAN バイパー(シリーズ12位, ラウンド4優勝)
    • スーパー耐久 クラス3 ORC アドバン RX-7 Bドライバー(シリーズ3位)
  • 2004年
    • 全日本GT選手権 GT300クラス <オールスター戦> ECLIPSE タイサン ADVAN バイパー
    • スーパー耐久 クラス3 ORC アドバン RX-7 Bドライバー(シリーズ6位)
  • 2005年
    • SUPER GT GT300クラス <ラウンド1~4,6,7> Gulf ADVAN FORTUNE MT
    • スーパー耐久 クラス3 C-WEST ORC アドバンZ Bドライバー(シリーズチャンピオン)
  • 2006年 - スーパー耐久 クラス3 C-WEST ORC アドバンZ Aドライバー(シリーズ5位)
  • 2007年 - スーパー耐久 クラス1 CAR-CHANNEL アドバンZ33 Cドライバー(シリーズ4位)
  • 2008年
    • スーパー耐久 クラス1 <ラウンド4,5> ENDLESS ADVAN Z Cドライバー
    • スーパー耐久 クラス2 <ラウンド6,7> ENDLESS ADVAN CS-X Bドライバー
  • 2009年 - スーパー耐久 クラス2 ENDLESS ADVAN CS・X Cドライバー
  • 2021年 - サンダーヒル25時間レース スプーンスポーツ ホンダ シビックTYPE R(FK8型) 出走38台中総合10位/E0クラス優勝

全日本F3選手権 編集

チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1983年 トヨタ SUZ
4
NIS SUG SUZ
5
TSU SUZ
7
SUZ 6位 18
1984年 セトラブレーシング SUZ
2
NIS FSW
13
SUZ
1
TSU
8
SUZ
1
TSU
5
SUZ
5
2位 74
1985年 TOMEI 日産 SUZ FSW
8
SUZ
10
TSU
6
NIS
11
SUZ
Ret
SUZ
Ret
13位 10
1988年 HOT LAPS VW SUZ
Ret
TSU
18
FSW SUZ SUG TSU SEN SUZ NIS SUZ NC 0
1992年 WILL RACING Co., Ltd. トヨタ SUZ TSU FSW SUZ SEN TAI MIN SUG SUZ
DNQ
NC 0

全日本F3000選手権 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1994年 TEAM GLORY with NOVA SUZ FSW MIN SUZ SUG FSW SUZ FSW FSW
17
SUZ NC 0

全日本GT選手権/SUPER GT 編集

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1994年 Johnson NISMO 日産・スカイラインGT-R GT1 FSW
Ret
SEN
5
FSW SUG MIN 18位 8
1995年 チーム コムテック レーシングクラブ ポルシェ・911 GT2 GT1 SUZ FSW SEN FSW
15
SUG MIN NC 0
1996年 プローバ モータースポーツ GT500 SUZ FSW SEN FSW SUG
11
MIN NC 0
2000年 AUTO STAFF RACING 日産・シルビア GT300 TRM
FSW
Ret
SUG
8
26位 4
TEAM TAISAN ADVAN ダッジ・バイパー GTS-R GT500 FSW
18
TAI NC 0
GT300 MIN
10
SUZ
15
26位 4
2001年 TEAM TAISAN ADVAN Jr. GT300 TAI
8
FSW
9
SUG FSW
9
TRM
14
SUZ MIN
3
15位 19
2002年 GT300 TAI
10
FSW
16
SUG
5
SEP
9
FSW
8
TRM
9
MIN
4
SUZ
21
14位 26
2003年 TEAM TAISAN ADVAN GT300 TAI
16
FSW
16
SUG
Ret
FSW
1
FSW
5
TRM
Ret
AUT
7
SUZ
Ret
12位 34
2005年 A&S RACING モスラー・MT900R GT300 OKA
16
FSW
15
SEP
Ret
SUG
14
FSW
11
AUT
13
SUZ NC 0
シボレー・コルベット TRM
22
2006年 JIM GAINER フェラーリ・360モデナ GT300 SUZ OKA FSW SEP SUG SUZ
Ret
TRM AUT FSW NC 0

全日本ツーリングカー選手権 編集

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1991年 NISMO 日産・スカイラインGT‐R JTC-1 SUG SUZ TSU
6
SEN
4
AUT FSW 10位 26

N1耐久レース/スーパー耐久 編集

チーム クラス コ・ドライバー 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1992年 Team ZEXEL 1 木下隆之 日産・スカイラインGT-R SEN
4
FSW
2
TAI
4
TSU
2
MIN
2
SUG
2
1993年 1 木下隆之 TAI
2
SEN
2
SUZ
1
FSW
7
TOK
4
TSU
2
MIN
5
SUG
7
1994年 プリンス東京 FUJITSUBO 1 木下隆之
砂子塾長
MIN SUZ SEN FSW AID TOK
9
TSU SUG
1998年 まんぷく堂 1 木下隆之(Rd.2)
青木孝行(Rd.3,4)
MIN SUG
NC
SUZ
4
TAI
Ret
TOK SEN TRM FSW
1999年 プリンス東京 FUJITSUBO 1 砂子塾長
桂伸一(Rd.5)
MIN
1
SEN
3
SUZ
Ret
TAI
1
TOK
Ret
TRM
4
FSW
2
SUG
1
2位
2000年 トトムFUJITSUBO 1 砂子塾長
桂伸一(Rd.5)
MIN
3
SEN
3
SUZ
3
TAI
3
TOK
3
TRM
3
FSW
Ret
SUG
4
3位
2001年 1 砂子塾長
和田久(Rd.5)
MIN
1
SEN
2
SUZ
1
TRM
2
TOK
5
TAI
2
SUG
2
FSW
1
2位
2002年 C-WEST ADVAN 3 尾本直史
長島正明
マツダ・RX-7 MIN
Ret
SEN
1
SUZ
1
TRM
3
TOK
1
TAI
3
SUG FSW
Ret
1位

エピソード 編集

  • 1984年の全日本F2選手権に参戦するTEAM IKUZAWA所属ドライバー、デイヴ・スコットの成績が良くなく、全日本F3で型落ちマシンながら大活躍していた山田に声が掛り、実際F2マシンのシート合わせまで行った。しかしエンジン供給するホンダの意向で新人の起用が認められず、ティフ・ニーデルに変わった。
  • 谷田部テストコースにてチューニングされたS14シルビアで最高速トライの収録中、時速300km/hを超えるスピードでバンクを抜けた際ハンドリングを誤り制御不能に陥りコース内側の植え込みに突入する事故を起こし車両は大破した。救急車で病院に搬送され入院するも、全身の打撲のみであった[5]。車載カメラの映像では、車体が空中に浮いて回転している所で映像が止まっており、斜面や植木に衝突しながら少なくとも十数回転はしたという。
  • 「ターザン山田(真面目で優しい)」、V-OPTのカメラの前では「ラーマン山田(性悪な性格)」といった2つのキャラを持つが、V撮影前に「今日はどっちのモードがいいかな?」と聞き、使い分けているとのこと。
  • その為、スーパーラップなどで背後のビデオカメラに気づいていない時に取材やチューニングショップ関係者と打ち合わせをしている時は丁寧で穏やかだが、カメラに気づくと途端に「撮ってんじゃねー!」と豹変するお約束場面が多々ある。
  • 動物では顔がサルに似ていることからネタにすることがあるが、やはりサル似の野村謙に「サルサル言うんじゃない、このチンパン!」と反撃された。
  • 過去、D1グランプリのアーウィンデール戦にて、初走行ながら初試乗のダッジバイパーでバンクドリを披露。D1オートポリスにてこの話題に触れた際、実況の鈴木学も「あれは凄かった」と語る
  • PS2/PS3、Xbox 360専用ソフト「ドリフトナイツ Juiced2」のアーケードモードにて、ターザン山田としてこっそり出演している。カルソニック風のR32スカイラインに乗っており、ドリフトモードと周回レースモードで対戦可能。(このモードには実在のレーシングドライバーやドリフト選手が出演している。ちなみにナレーターとして鈴木学も出演している。)

脚注 編集

  1. ^ a b オートスポーツ NO.670 1995年1/1号45〜47頁 「普段着の戦士たち24 ターザンの一本気 山田英二」
  2. ^ a b c 人ズームアップ 山田英二 夢を現実主義で追い求める男 オートスポーツ No.399 150頁 三栄書房 1984年7月15日発行
  3. ^ 谷田部 最高速テスト ラーマン山田 大クラッシュ V-OPT 044 ① - YouTube ビデオオプション”. www.youtube.com. 2020年11月21日閲覧。
  4. ^ ラーマン山田の筑波スーパーラップ 2000 Rd.1 V OPT 071 ⑤ - YouTube ビデオオプション”. www.youtube.com. 2020年11月21日閲覧。
  5. ^ 【ENG SUB】谷田部最高速の歴史 300km/hクラッシュ YATABE history Worst 300km/h crash - YouTube ビデオオプション 2017年5月2日

外部リンク 編集

タイトル
先代
土屋圭市
フォーミュラ・ミラージュチャンピオン
1991年
次代
萩原修