メインメニューを開く

山辺安之助

山辺 安之助(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)、1867年(慶応3年) - 1923年(大正12年)7月9日)は、白瀬矗南極探検隊に樺太犬の犬ぞり担当として参加した樺太アイヌアイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)[1]。樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。著書に『あいぬ物語』(樺太アイヌ語による口述を金田一京助が筆記)。口承文芸の語り手としても、ヤシノスケ(Jasinoske)という名前で、ポーランド人の民族学者ブロニスワフ・ピウスツキに説話を語っており、その説話はMaterials for the Study of the Ainu Language and Folklore (Cracow, 1912)に収録されている(21~23話)。

Yasunosuke.jpg

目次

生涯編集

1867年慶応3年)に、樺太サハリン)の弥満別(やまべつ)で誕生[1]。両親を幼い頃に亡くし、親戚により養育される[1]。当時の樺太は1854年安政元年)の日露和親条約によって「日露混住の地」とされ、無国境状態だった。1873年の資料では、樺太アイヌ人口は2372人であった。

1875年明治8年) 、樺太・千島交換条約によって樺太はロシア領と決定。日本と関係が深かった亜庭湾周辺の樺太アイヌ108戸、841人が北海道に移住する際に9歳の山辺も同行[1]。政府は樺太アイヌを内陸の対雁(ついしかり)村(現江別市)に強制移住させるが、農業化に失敗し生活は困窮した。山辺は1878年に開設された教育所の「対雁学校」に入学、日本語教育を受ける[1]

1884年(明治17年)には、対雁の樺太アイヌのほとんどが石狩川右岸の来札に移住し漁業に従事するようになる。しかし、1886年(明治18年)から翌年にかけてコレラ天然痘が流行し、多くの樺太アイヌが死亡した(江別市の調査では366人)[1]。山辺は『明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った』(『あいぬ物語』)と語っている。

1893年(明治26年)、山辺は小さな船に乗り、13人の同行者(家族および知人)とともに、ロシア領となっていた樺太に自力で帰還する[2]。トンナイチャ(富内村)の総代だったラマンテ東内忠蔵)のところに落ち着く。当時の樺太では、日本の漁業権が認められており、山辺は秋田県象潟の商家「角丁」の佐々木平次郎(良心的な漁場主として樺太アイヌに信頼されていたとされる)のニシンサケマスの漁場で働く。番屋オホーツク海富内湖の接する場所にあった。また、民族学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合い、樺太アイヌの古謡や古伝を伝える。

1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発し、ロシア軍の攻撃で佐々木漁場の番屋と倉庫をすべて焼失。山辺は日本側について物資輸送や偵察に協力した。後述する南極探検後に日露戦争の功績として、アイヌでは初の勲八等瑞宝章を授与される。表彰金70円が出たが、山辺は「金を貰うためにロシアと戦ったのではない」として村に寄付した。

1905年(明治38年)、日露戦争終結。ポーツマス条約で南樺太は日本領となる。1907年(明治40年)、金田一京助が樺太を初調査[3]。ラマンテから英雄叙事詩(ハウキ)を聞き取る際、日本語が堪能な副総代の山辺が協力した[3]。金田一は山辺について「六尺豊かな風貌だが、話してみると物腰の静かなやさしく穏やかな人柄」(採訪随筆)と述懐している。この英雄叙事詩(ハウキ)は『北蝦夷古謡遺篇』(1914年)として刊行されている。採集の経緯については随筆「片言をいうまで」に詳しい。

1909年(明治42年)、山辺はトンナイチャの総代となり、樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する(佐々木漁場が資金支援をおこなう)。

1910年(明治43年)8月、樺太日日新聞(樺太新聞)の依頼で樺太犬を集める過程で南極探検参加を決意。9月25日、樺太犬20頭とトンナイチャを出発。上京し、南極への出発前に金田一京助を訪ね、『北蝦夷古謡遺篇』の翻訳に関する質問を受けている[4]。11月29日、白瀬やもう1人の樺太アイヌ花守信吉とともに、東京港芝浦埠頭から開南丸で南極に出発した。1911年(明治44年)3月に開南丸は南極圏に到達したが、ほとんどの犬が死ぬ。シドニーに撤退後、11月に樺太犬30頭を投入し、南極圏へ再挑戦する。1912年(明治45年)1月17日に開南丸はロス棚氷に接岸。1月28日、探検隊は南緯80度5分、西経165度37分に到達した。2月4日、悪天候に遭い緊急離岸。流氷に取り囲まれ、犬を6頭しか収容できず20頭が置き去りとなる。6月、開南丸は東京に帰着した。

1913年大正2年)、『あいぬ物語』が博文館より出版される。山辺は落帆で開拓に取り組み、半農半漁による集落の収入安定を図った。

1923年(大正12年)7月9日 、落帆で病没。56歳。盛大な葬儀が営まれる。

語録編集

  • 『アイヌを救うものは、決してなまやさしい慈善などではない。宗教でもない。善政でもない。ただ教育だ。』(あいぬ物語)
  • 『今度、樺太から連れてきた犬は強壮で、年齢は3歳から6歳までの白、黒、ぶちの3種で、樺太日日新聞社が探検隊の壮挙に賛同して、多くの同志から募集したものです。これらは樺太東海岸富内村の産から選びました。(中略)その勇敢な姿、雄々しい働きは内地の犬には見られないでしょう。(中略)私の飼育していた5頭の犬は実の子供のように思っています。樺太出発からほぼ2カ月の間20頭の犬と起居を共にして、さらに数千里の波濤を蹴って南極の地を踏むかと思えば何ともいえぬ感にうたれます』(1910年11月3日、樺太日日新聞への談話)
  • (白瀬の南極探検が国家事業ではないとして参加取りやめを勧める地質学者に対し)『昨日承諾し、今日違約したら『やっぱりアイヌだなぁ』とさげすまれる。それは我慢できない』(あいぬ物語)

落帆編集

 
落帆川(ロシア・コルサコフ市、2004年7月撮影)

樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。山辺安之助が率いる樺太アイヌの集落と、漁業、林業に携わる和人の集落が設けられた。また、沿岸の漁場も分かれていた。山辺が創設したアイヌのための学校はその後、和人の小学校と統合される。1945年(昭和20年)のソ連軍による占領後、1948年(昭和23年)に樺太アイヌの大半は日本に渡り、離散を余儀なくされた。

落帆周辺は、現在はサハリン州コルサコフ市の管轄でレスノエ村(Lesnoe)と呼ばれている。

花守信吉編集

白瀬隊のもう1人の樺太アイヌ隊員、花守信吉はアイヌ名シシラトカ(Sisratoka)。多来加(タライカ)の首長の子孫。10頭の樺太犬を率いて白瀬の南極探検に参加する。またポーランド人民族学者ブロニスワフ・ピウスツキに多くの説話を伝える。

 
2004年7月、旧落帆集落に設けられた南極探検碑

脚注編集

  1. ^ a b c d e f 須田、2018年、p.69
  2. ^ 須田、2018年、pp.69 - 70
  3. ^ a b 須田、2018年、p.70
  4. ^ 須田、2018年、p.73

参考文献編集

  • 佐藤忠悦『南極に立った樺太アイヌ - 白瀬南極探検隊秘話』<ユーラシア・ブックレット>、東洋書店、2004年、ISBN 4-88595-509-2
  • 金田一京助(藤本英夫編)『ユーカラの人びと-金田一京助の世界1』平凡社 <平凡社ライブラリー>、2004年、ISBN 4-582-76495-9
  • 須田茂 『近現代アイヌ文学史論〈近代編〉』 寿郎社、2018年
  • 山辺安之助・金田一京助編訳『あいぬ物語博文館、1913年
    • 金田一京助全集編集委員会(編)『金田一京助全集 第6巻アイヌ語Ⅱ』三省堂、1993年に「資料」として収録
  • Piłsudski, B. 1912. Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore. Cracow.
  • 田村将人「先住民の島・サハリンー樺太アイヌの日露戦争への対処」『日露戦争とサハリン島』北海道大学出版会、2011年
  • ラマンテ口述・金田一京助『北蝦夷古謡遺篇』甲寅叢書刊行会、1914年
    • 金田一京助全集編集委員会(編)『金田一京助全集 第9巻アイヌ文学Ⅲ』三省堂、1993年に収録