山陽汽船商社(さんようきせんしょうしゃ)は、明治時代の日本海運会社。のちの山陽本線にあたる鉄道路線を当時経営していた山陽鉄道傘下の会社である。この項目では、山陽鉄道直営航路および、同様に傘下の山陽汽船(さんようきせん)の航路についても触れる。

概要 編集

親会社の山陽鉄道は、山陽汽船商社設立までは、並行する海路に対しては競合相手であったが、そうでない区間に関しては補完関係が成立していた。1897年(明治30年)9月25日徳山駅開業で状況が変化。大阪商船(現在の商船三井)が運行していた尾道-門司間の航路を廃止。徳山-門司間の航路を強化した。そのことが、山陽鉄道による子会社を介した直接の航路運行になった。山陽鉄道直営にしなかった理由は、当時の鉄道法(私設鉄道条例)では鉄道事業以外の事業を、直接行うことができなかったからである。

当初は、馬関駅(現在の下関駅間までの鉄道開通までの予定で、1898年(明治31年)9月1日に門徳連絡船(門司-徳山間)の航路に就航。就航当時、船舶を所有していなかったので、3隻傭船して対応。港の整備もされていなかったので、で対応した。

1901年(明治34年)5月27日の下関開通時に、山陽鉄道直営で関門連絡船に就航した。1900年(明治33年)にできた私設鉄道法により、鉄道以外の事業を直接行うことができるようになったためである[1]。関門連絡船の開業同日に門徳連絡船は廃止された。

1903年(明治36年)2月には、「宮島渡航株式会社」を買収して、5月から山陽鉄道直営航路宮島連絡船を開設した[2][3]。同年、山陽汽船商社は、のちの宇高連絡船の前身になる多尾連絡船(多度津港-尾道港間)および岡山港-高松港間航路を開設した。

1905年(明治38年)9月11日には、同様に山陽鉄道傘下の山陽汽船が関釜連絡船を就航させた。

1906年(明治39年)12月1日に、山陽鉄道が国有化され、山陽汽船商社・山陽汽船の航路も国有に移管された。

年表 編集

運行していた航路 編集

詳細は、各航路を参照(岡山-高松間及び多尾連絡船は宇高連絡船を参照)。


所有していた船舶 編集

出典 編集

  1. ^ 『山陽鉄道物語』196ページ
  2. ^ 日本鉄道史 中編』鉄道省、1921年、pp.385-386
  3. ^ 『山陽鉄道物語』253ページの年表には、営業を山陽汽船商社に移したとある

参考書籍 編集