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山鹿温泉鉄道(やまがおんせんてつどう)は、かつて熊本県植木町(現・熊本市)の植木駅と同県山鹿市山鹿駅の間を通っていた鉄道路線、およびその運営事業者である。

山鹿温泉鉄道
山鹿駅前の鉄道記念碑
山鹿駅前の鉄道記念碑
概要
現況 廃止
起終点 起点:植木駅
終点:山鹿駅
駅数 17駅
運営
開業 1917年12月22日 (1917-12-22)
廃止 1965年2月4日 (1965-2-4)
所有者 山鹿温泉鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 20.3 km (12.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
HST
熊本
STR
国鉄鹿児島本線
ABZl+xl BHFq
0.0 植木
exTUNNEL1
exBHF
2.1 植木町
exBHF
3.3 一ツ木
exBHF
4.5 今古閑
exBHF
5.8 山本橋
exBHF
7.9 今藤
exBHF
9.0 肥後豊田
exBHF
9.8 舟島
exBHF
10.5 伊知坊
exBHF
10.9 平島温泉
exBHF
11.7 山城
exBHF
12.9 宮原
exBHF
13.5 奥永
exBHF
14.7 分田
exhKRZWae
菊池川橋梁 菊池川
exBHF
16.3 来民
exBHF
18.2 肥後白石
exBHF
19.0 肥後大道
exKBHFe
20.3 山鹿

概要編集

当初の名称を鹿本鉄道(かもとてつどう)と称した。温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌の影響を受け、さらに山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設されたこともあって営業面では終始振るわなかった。このため競合バス会社の買収等の手段で山鹿 - 熊本間にバス路線を開設し、鉄道は貨物輸送に重点を置いて旅客輸送を減量するなどの手段で収支の安定化を図ったが、バス部門は戦時中の交通統合により九州産業交通への譲渡を余儀なくされた。

戦後の1950年(昭和25年)12月に中型気動車を導入し、国鉄鹿児島本線への乗り入れ運行を開始して熊本への直通を実現したが、1957年(昭和32年)に水害により植木 - 植木町間の築堤が崩壊し、直通運行が不可能になった。植木町 - 山鹿間は復旧したものの、植木 - 植木町間は復旧を断念し休止し、バス代行輸送とした。

二度の水害による打撃もあったことに加え、熊本 - 山鹿間のバス路線に比し著しく利便性を欠いて鉄道の利用は低下、末期的な経営状態となったことから、1960年(昭和35年)に全区間が休止、1965年(昭和40年)に廃止された。

路線データ編集

運行形態編集

1953年(昭和28年)6月15日当時

  • 運行本数:日11往復(6時 - 21時台)、うち熊本発着4往復
  • 所要時間:全線約45分(自社線内)

1956年(昭和31年)5月2日当時[1]

  • 運行本数:日13往復(6時 - 21時台)、うち熊本発着4往復
  • 所要時間:全線41分(自社線内)


歴史編集

年表編集

  • 1915年(大正4年)11月28日[2] 鹿本軌道の名で会社設立[3]
  • 1916年(大正5年)
    • 3月24日 大日本軌道より軌道特許(熊本市西唐人町-鹿本郡山鹿町間[4])譲受[5][6]
    • 12月10日 軽便鉄道法に準拠し鹿本鉄道に社名変更
    • 12月14日 鉄道免許状下付(鹿本郡桜井町-同郡山鹿町間)[7]
  • 1917年(大正6年)
  • 1918年(大正7年)12月26日 肥後豊田 - 宮原間を開業[10]
  • 1921年(大正10年)12月2日 宮原 - 来民間を開業[11]
  • 1922年(大正11年)5月10日 鉄道免許状下付(鹿本郡山鹿町-同郡三岳村間)[12]
  • 1923年(大正12年)12月31日 来民 - 山鹿間を開業[13]
  • 1927年(昭和2年)12月23日 ガソリン動力併用認可。翌年より気動車を導入
  • 1928年(昭和3年)
    • 長浦(植木町) - 熊本間連絡バスの運行を開始[14]
    • 8月15日 肥後大本駅、肥後大道駅を開業
  • 1930年(昭和5年)7月18日 鉄道免許失効(1922年5月10日免許鹿本郡山鹿町-同郡三岳村間 指定ノ期限マテニ工事ニ着手セサルタメ)[15]
  • 1932年(昭和7年) バス事業を一時廃止[16]
  • 1933年(昭和8年)
    • 7月24日 バス事業を再開。シボレーバス20台を導入し、沿線各地から熊本市内直通便を運行[16][17]
    • 8月 肥後大本駅を休止
  • 1935年(昭和10年) 郵便専用自動車を導入し、郵便物の輸送を鉄道から自動車に転換[18]
  • 1936年(昭和11年) 熊本市中心部の花畑町にバス待合所を設置[16]
  • 1937年(昭和12年)4月 肥後大道駅・肥後大本駅を廃止
  • 1940年(昭和15年) 郵便物の輸送を再び自動車から鉄道に転換。有蓋緩急車2両に郵便室を設置[18]
  • 1943年(昭和18年)10月26日 バス事業を九州産業交通に譲渡
  • 1949年(昭和24年)7月30日 平島を平島温泉に改称
  • 1950年(昭和25年)12月 ディーゼル動車2両を導入。熊本直通運転を開始
  • 1952年(昭和27年)
    • 6月4日 社名を山鹿温泉鉄道に改称
    • 8月 肥後大道駅を復活
  • 1953年(昭和28年)6月26日 集中豪雨(熊本6.26大水害)により被害を受け、約4か月間不通
  • 1954年(昭和29年)6月1日 肥後大本駅を今藤駅として復活
  • 1955年(昭和30年)4月1日 一ツ木駅・舟島駅・伊知坊駅・奥永駅・白石駅を開業
  • 1957年(昭和32年)7月26日 集中豪雨により被害を受ける。植木 - 植木町間では築堤が崩壊し復旧不可能となり休止(植木町 - 山鹿間は約1か月後に復旧)
  • 1960年(昭和35年)12月1日 全線休止
  • 1965年(昭和40年)2月4日 全線廃止

鉄道廃止後の経過編集

鉄道廃止に伴い、1965年(昭和40年)2月に社名を鹿鉄バス(株)に改称し、貸切バス事業者となった[19]。その後1971年(昭和46年)に至って貸切バス事業を縁故会社の鹿鉄停車場(株)に移管[19]。一時解散手続きに移行したが後に中止して、線路跡地への自転車道(熊本県道。後述)建設のための用地保全を目的とする法人となり、1974年(昭和49年)に山鹿自転車道(株)に改称[20]1992年(平成4年)の自転車道完成後は駅跡の用地での駐輪場運営などを行っている[20]

鹿鉄停車場(株)は、鉄道廃止・事業整理に伴って必要となった資金の調達などを行うことを目的に1960年(昭和35年)11月に設立された法人で、鉄道廃止後は山鹿駅の用地を取得して自動車教習所を設置し、運営を行うこととなった[20]。1971年(昭和46年)には鹿鉄バス(株)から貸切バス事業の移管を受け、鹿鉄交通(株)に改称した[20]。自動車教習所・貸切バス事業とも1992年(平成4年)の時点では健在であった[21]が、その後いずれの事業も廃止となる。尚、法人そのものは不動産管理会社として2017年(平成29年)現在も存続している。

駅一覧編集

  • 全駅熊本県に所在。
  • 接続路線の事業者名・所在地の自治体名は当線廃止時点のもの。植木町は2010年(平成22年)に熊本市の一部、鹿央町・鹿本町は2005年(平成17年)に山鹿市の一部となった。
駅名 よみ 駅間キロ 累計キロ 開業日 接続路線・備考 所在地
植木駅 うえき - 0.0 1917年12月22日 日本国有鉄道:鹿児島本線 鹿本郡植木町
植木町駅 うえきまち 2.1 2.1 1917年12月22日 旧駅名:長浦(ながうら)
1949年7月30日変更
一ツ木駅 ひとつぎ 1.2 3.3 1955年4月1日  
今古閑駅 いまこが 1.2 4.5 1955年4月1日  
山本橋駅 やまもとばし 1.3 5.8 1917年12月22日  
今藤駅 いまふじ 2.1 7.9 1928年8月 旧駅名:肥後大本(ひごおおもと)
1937年4月廃止)
1954年6月1日復活
肥後豊田駅 ひごとよだ 1.1 9.0 1917年12月22日  
舟島駅 ふなじま 0.8 9.8 1955年4月1日  
伊知坊駅 いちぼう 0.7 10.5 1955年4月1日  
平島温泉駅 ひらしまおんせん 0.4 10.9 1918年12月26日 旧駅名:平島(ひらしま)
1949年7月30日変更
山城駅 やましろ 0.8 11.7 1955年4月1日  
宮原駅 みやばる 1.2 12.9 1918年12月26日  
奥永駅 おくなが 0.6 13.5 1955年4月1日   鹿本郡鹿央町
分田駅 ぶんだ 1.2 14.7 1921年12月1日   鹿本郡鹿本町
来民駅 くたみ 1.6 16.3 1921年12月1日  
肥後白石駅 ひごしらいし 1.9 18.2 1955年4月1日   山鹿市
肥後大道駅 ひごだいどう 0.8 19.0 1928年8月 1937年4月廃止
1952年8月復活
山鹿駅 やまが 1.3 20.3 1923年12月31日  
  • 廃止時、分田駅 - 来民駅間で山鹿市を通っていた。

輸送・収支実績編集

年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1917 2,421 26 2,454 330 2,124 雑損金2,660
1918 211,774 9,831 30,476 19,794 10,682 6,029 8,197
1919 311,368 26,427 72,890 39,249 33,641 雑損金1,000 10,590
1920 343,245 37,270 109,058 50,367 58,691 13,240
1921 317,752 32,320 109,601 77,035 32,566
1922 307,738 40,677 120,876 97,079 23,797
1923 317,941 42,143 124,604 102,436 22,168 23,852 36,678
1924 543,417 45,748 185,941 127,623 58,318 293 57,349 40,184
1925 509,985 51,385 189,974 112,378 77,596 雑損1,482 54,628 29,196
1926 437,901 48,983 170,326 106,291 64,035 雑損237 45,217 40,344
1927 390,962 46,127 159,657 89,878 69,779 雑損94 42,024 43,431
1928 341,537 42,572 139,218 101,164 38,054 自動車業903雑損358 38,177 47,479
1929 341,961 40,160 132,650 101,453 31,197 自動車業1,987雑損91 35,668 44,127
1930 281,139 40,054 118,233 85,288 32,945 自動車業271 雑損860 32,066 44,156
1931 241,153 37,529 104,873 76,213 28,660 自動車業1,962 雑損3,877 27,901 42,142
1932 183,001 34,408 73,022 63,253 9,769 雑損8自動車3,415 22,801 16,437
1933 153,601 35,585 63,419 55,663 7,756 自動車業8,061 18,703
1934 70,010 37,963 56,443 27,207 29,236 雑損2自動車業9,998 17,990
1935 87,896 41,047 64,885 36,963 27,922 自動車業8,773 雑損2 16,722
1936 82,622 40,456 60,627 34,007 26,620 自動車業9,603 償却金18,267 13,833
1937 92,262 41,476 61,211 39,856 21,355 自動車業11,079 雑損372 13,348
1939 231,416 48,460
1941 401,448 69,084
1943 444,189 74,209
1945 1,012,538 41,127
1949 706,396 76,088
1952 749,754 39,112
1958 450千 -
  • 鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版

車両編集

総説編集

開業時は蒸気機関車(大日本軌道鉄工部製のタンク機関車)2両と客車(岡部鉄工所(福岡)製ボギー客車)3両で旅客営業をはじめた。1928年(昭和3年)にバスの台頭に対抗して合理化・列車増発のため気動車の導入を図り、丸山車輌と梅鉢鐵工所(のちの帝国車輌)で合計3両のガソリンカーを新造した。丸山製の2両は片運転台で一方のみ進行する単端式であり、日本の気動車としては初めて独立した郵袋置場を設置した車両であった。また梅鉢製の1両は当時最先端の両側運転台車だったが、フリクション変速機による動力伝達等に欠陥があり、早期に改修された。

気動車導入により列車増発が図られたが、これら3両は何れも簡易な木造車なうえ、日本でもごく初期の気動車で未熟な欠陥も多く、数年間のうちに全体の老朽化が進行して長期の使用に耐えなくなった。同時期に旅客輸送はバス重視とする方針転換が為され、1934年(昭和9年)12月には気動車列車が廃止されて旅客列車は蒸気機関車牽引列車4往復のみという大幅減量ダイヤとなった。不要となった気動車3両は1935年(昭和10年)に佐賀電気軌道に売却処分、相前後して客車3両をも熊延鉄道南薩鉄道に売却してまで経営立て直しを図った。同年5月に当局からガソリン動力廃止認可を受けている。

戦後再び内燃動力併用認可を得て国鉄キハ41500形類似の気動車2両を導入し、熊本乗り入れに充当した。並行する九州産交バスとの対抗上極力運行本数を多くする必要があり、エンジン、車軸などに予備品を備えた上で常時2両使用予備車無しという異例の状態での国鉄直通運転が行われた[22]

続いて帝国車輌に当時のトレンドである正面二枚窓の「湘南型」スタイルを持つ大型の気動車を発注したが、この車両を導入しないうちに1953年(昭和28年)の水害による大被害を受け、新車をキャンセルせねばならなくなった(注文流れの湘南型気動車は、有田鉄道茨城交通に引き取られ、それぞれ有田鉄道キハ250と、茨城交通ケハ401となった)。

切羽詰まった山鹿温泉鉄道は、1955年(昭和30年)に大阪市交通局から中古ボンネットバスの払い下げを受け、これを改造した単端式気動車2両を導入するという奇策に出た。このバスは元々戦後の車両不足を補うため、進駐軍から放出されたGMCウェポンキャリア(軍用トラック)のシャーシにバスボディを架装したという代物で、その車輪を鉄道用車輪に取り替えて文字通りの「レールバス」としたものである(実車の側面窓下には「レールバス」という表記がなされていた)。日本で自動車を一般旅客輸送用の気動車に改造した前例は、大正時代の試作車両や軽便鉄道などに少数例があったが、戦後ではデュアル・モード・ビークルを除くと山鹿温泉鉄道がほぼ唯一であり、末期の同社がいかに経営的に窮迫していたかを物語る事例とされる。ところが1957年の水害により熊本への連絡が絶たれると植木町 - 山鹿間だけでは2両で十分でわずか2年で使用休止となってしまった[1]

同線で使用されていたコッペル製の蒸気機関車が現在、千葉県習志野市袖ヶ浦東小学校に保存されている。同機は茨城交通茨城線で使用されていたのを一時期借りていたもの。茨城鉄道時代は「3」、茨城交通時代は14。1951年(昭和26年)に川崎製鉄に移籍し、「NUS2」になる。川鉄時代には蘇我駅から川崎製鉄千葉製鉄所の間の千葉専用線で資材を運ぶために使用されていたが、ディーゼル機関車に置き換えられ廃車された。

蒸気機関車編集

のべ8両が在籍。

3・4
1922年ドイツ・コッペル製。運転整備重量は28.5t、弁装置ワルシャート式、軸配置はC,動輪直径1000mmである。4は当社で最後に残った蒸気機関車であった。[23]

気動車編集

キハ1・2
1951年10月17日付竣功。新潟鐵工所製で、津軽鉄道キハ2402、2403とほぼ同型の車両である。自重は約20t、定員は100名うち座席定員52名、機関はDA55Aを採用した。営業廃止まで在籍し、津軽鉄道へ譲渡され、1965年8月から使用される予定で新潟鉄工所へ送られ、ステップ1段化改造がなされたが、結局現地へは送られず入籍もしなかった。[24]



車両数の推移編集

年度 機関車 ガソリンカー 客車 貨車
1917-1922 2 3 5
1923-1927 4 5 8
1928-1934 4 3 5 8
1935 2 4 7
1936-1941 2 2 7
1942-1946 2 1 4 7
1947-1949 4 1 4 11
1950 2 2 4 11
1951-1954 2 2 2 9
1955 2 4 2 8
  • 和久田康雄「山鹿温泉鉄道」59頁

廃線跡の現況編集

廃線跡は県に譲渡され、自転車道(熊本県道330号熊本山鹿自転車道線、愛称名「ゆうかファミリーロード」)として整備された。なお、2000年の時点で植木町、肥後豊田と終点の山鹿の3駅の駅舎が残存していたが、2012年までに植木町、山鹿両駅は解体された。

未成線編集

1921年4月に山鹿町-三岳村間(約3哩)の延長敷設願いを提出した。構想では久留米(約24哩)までの延長でありその一部であった。1922年5月免許状が下付されたが山鹿までの建設で余裕がなく再三工事延長願いを出していたが[25]、1930年7月失効となった[26]

脚注編集

  1. ^ a b 林春一「山鹿温泉鉄道」『RAILFAN』No.286
  2. ^ 和久田は27日
  3. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 『鉄道院年報. 明治42年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』6頁
  6. ^ 備考欄『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1916年12月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 『鉄道院鉄道統計資料. 大正5年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年1月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年12月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年12月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年5月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年1月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.14
  15. ^ 「鉄道免許失効」『官報』1930年7月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ a b c 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.16
  17. ^ 1934年時の路線『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ a b 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.46
  19. ^ a b 和久田康雄「山鹿温泉鉄道」『鉄道ピクトリアル』NO.253
  20. ^ a b c d 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』pp.22-23
  21. ^ 中村良成「山鹿温泉鉄道の廃線跡を歩く」『鉄道ピクトリアル』NO.557
  22. ^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.40
  23. ^ 高井薫平(2012)『小型蒸気機関車全記録』(講談社)126pp.
  24. ^ 湯口徹(2006)『RMライブラリー88.戦後生まれの私鉄機械式気動車』(ネコパブリッシング)pp20-pp24.
  25. ^ 1926年1月に失効(「鉄道免許失効」『官報』1926年1月16日)されたが失効取消
  26. ^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』10-11頁

参考文献編集

  • 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』 RM LIBRARY 57、ネコ・パブリッシング、2004年
  • 和久田康雄「山鹿温泉鉄道」『鉄道ピクトリアル』NO.253、電気車研究会、1971年、pp.51-61
  • 中村良成「山鹿温泉鉄道の廃線跡を歩く」『鉄道ピクトリアル』NO.557、電気車研究会、1992年、pp.157-163

関連項目編集