岐国公主(きこくこうしゅ、生没年不詳)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの側室の一人。第一次対金戦争の際に金朝が講和のためにチンギス・カンの妃として差し出した公主で、金朝の皇帝衛紹王の娘、梁王従恪の姉にあたる。

集史』に描かれた岐国公主(画面左の馬上の人物)。金朝の宣宗とチンギス・カンの講和によりモンゴルに嫁いだ場面。

モンゴル側では岐国公主のことを「公主(gōngzhŭ)」が転訛したグンジモンゴル語: Güngji)という名前で呼んでいた。ペルシア語史料の『集史』でもグンジュ・ハトゥン/گونجو خاتون(gūnjū khātūn)と記されている。

概要 編集

1211年に始まるモンゴル帝国の第一次金朝侵攻においてモンゴル軍は金軍を各所で破り、1215年貞祐3年)には金朝の首都の中都が包囲される事態に陥った。包囲下の金朝朝廷の中では抗戦派の高琪と和議派の完顔福興(金朝の宗室)との間で激論が交わされ、結果としてモンゴル帝国との一時的な和議を求める完顔福興の案が採用された。そこで従兄の宣宗によって講和のために選ばれたのが彼女で、金朝の宗室の完顔合達の護衛の下岐国公主はチンギス・カンの下に送られ[1]、これを以て和議の証としモンゴル軍は一時華北から引き上げた[2]

チンギス・カンの妃となった岐国公主は正夫人に次ぐ高い地位を与えられ、モンゴル帝国内では「グンジ」の名で知られた。これ以後の岐国公主の活動についてはほとんど知られていないが、『集史』「チンギス・カン紀」によるとアリクブケカラコルムを治めていた頃まで存命であったという[3]

脚注 編集

  1. ^ 『金史』巻112列伝50,「完顔合達、名瞻、字景山。……貞祐初。以親衛軍送岐国公主、充護衛」
  2. ^ 『聖武親征録』「金丞相高琪与其主謀曰『聞彼人馬疲病、乗此決戦可乎』。丞相完顔福興曰『不可。我軍身在都城、家属多居諸路、其心向背未可知、戦敗必散。苟勝、亦思妻子而去。祖宗社稷安危在此挙矣。今莫若遣使議和、待彼還軍、更為之計、如何』。金主然之、遣使求和、因献衛紹王公主、令福興来送。上至野麻池而還」
  3. ^ 村上1976,146-148頁

参考文献 編集

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年