岑 徳広(しん とくこう)は、中華民国政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。心叔チワン族(壮族)。末民初の政治家である岑春煊の子で、唐紹儀の娘婿でもある。

岑徳広
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1897年光緒23年)[1]
死去: 不詳
出身地: 広西省泗城府西林県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 岑德廣
簡体字 岑德广
拼音 Cén DéGuǎng
ラテン字 Ts'en To-kuang
和名表記: しん とくこう
発音転記: ツェン ドゥーグアン
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事跡 編集

日本に留学した後、イギリスのシンクタンクで研究員をつとめた。帰国後ワシントン会議中国代表団随員、梧州関監督兼広西省外交特派員、滇桂聯軍総司令部参議、善後会議議員などを歴任している。

1937年民国26年)に日本軍が上海を占領した頃から、上海に在った岑徳広は周仏海の知恵袋的存在となる[2]。翌年9月28日に、岑は土肥原賢二を伴って義父の唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られるが、まもなく唐は軍統に暗殺された[3]

1940年(民国29年)3月、汪兆銘南京国民政府を樹立すると、周に従い、岑もこれに参加した。賑務委員会[4]委員長と第1期中央政治委員会延聘委員(以後4期務める)に任ぜられている。以後、清郷委員会委員、時局策進委員会委員、社会部行動指導委員会委員を歴任した。

1943年(民国32年)1月、賑務委員会は社会福利部に統合され、岑は国民政府委員となる。1945年(民国34年)6月、中央政治委員会最高国防会議秘書長に任命された。8月、経理総監部総監となっている。

日本敗北後、岑徳広は漢奸の罪に問われ、9月26日に南京で逮捕されたが[5]、後に香港への逃亡に成功した[6]。これ以降の消息は不詳である。

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  1. ^ 『最新支那要人伝』94頁は、1895年(光緒21年)生まれとしているが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』に従う。
  2. ^ 上海市地方志「法国式建築的経典之作:馬歇爾公館(太原別墅)」
  3. ^ 南方都市報「外交篇·唐紹儀 十年一覚共和夢,贏得生前身後名」広州図書館ホームページ
  4. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』1102頁は、「振務委員会」としている。
  5. ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1613頁。
  6. ^ 前掲注2

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 「法国式建築的経典之作:馬歇爾公館(太原別墅)」上海市地方志弁公室ホームページ
  • 南方都市報「外交篇·唐紹儀 十年一覚共和夢,贏得生前身後名」広州図書館ホームページ
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。