岡崎市立城北中学校

愛知県岡崎市にある中学校

岡崎市立城北中学校(おかざきしりつ じょうほくちゅうがっこう)は、愛知県岡崎市城北町にある公立中学校

岡崎市立城北中学校
岡崎市立城北中学校
地図北緯34度57分49.71秒 東経137度9分25.79秒 / 北緯34.9638083度 東経137.1571639度 / 34.9638083; 137.1571639座標: 北緯34度57分49.71秒 東経137度9分25.79秒 / 北緯34.9638083度 東経137.1571639度 / 34.9638083; 137.1571639
国公私立の別 公立学校
設置者 岡崎市
設立年月日 1961年4月1日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード C123210001395 ウィキデータを編集
所在地 444-0064
愛知県岡崎市城北町3-1
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要 編集

1961年(昭和36年)4月1日、岡崎市立連尺小学校岡崎市立竜海中学校の校舎を仮校舎として開校[1]

調査日 児童数 通常学級 特別支援学級 出典
2013年4月8日 547人 16 3 [2]
2019年5月1日 482人 13 3 [3]
2020年5月1日 466人 12 3 [4]
2021年5月1日 466人 13 4 [5]
2022年5月1日 448人 13 3 [6]
2023年5月1日 487人 13 3 [7]

学区 編集

小学校名 町名
連尺小学校
(全域)
板屋町魚町康生町康生通東康生通西康生通南材木町城北町、末広町、田町、中岡崎町、西魚町、八幡町、八帖町八丁町八帖北町八帖南町本町通連尺通
広幡小学校
(一部)
葵町、井田新町、井田西町、井田南町、柿田町、錦町、日名北町日名中町、日名西町、日名本町、日名南町広幡町、福寿町、松本町、元能見町

(2022年12月26日現在[8]

沿革 編集

管理教育と鈴村正弘校長 編集

城北中学校設立 編集

 
初代校長の鈴村正弘

1957年(昭和32年)12月、文部省は「勤務評定試案」を正式決定し、勤評全国実施に踏み切った[12]。1958年(昭和33年)4月22日、「勤務評定阻止全国統一集会」が開かれるが、岡崎市小中学校教職員組合(岡教組)は600人を動員。同組合員は愛教組の指令により、7月3日から胸に「勤務評定反対」のリボンをつけて登下校し、市民に反対を呼びかけ、署名運動を行った[13]

岡教組は1960年(昭和35年)の安保闘争でも多数のデモに関わった。強行採決に抗議して5月26日に行われた地区総決起大会には教員230人が参加し、籠田公園からのジグザグ行進を先導した。三河地方において岡崎は闘争の拠点の一つとして広く知られるようになった[14]

こうした動きに頭を悩ませていた愛知県教育委員会は組合つぶしを図り、1961年(昭和36年)に新設する中学校の校長に県教委教職課主事の鈴村正弘[15]を送り込んだ。また、日教組に反対の教員を多数配置した。それが岡崎市立城北中学校だった[16]

1962年(昭和37年)、鈴村は岡崎市の全中学校の生活指導部長に就任すると、自校を市内中学校のモデル校とするため、画一化に重きを置いた指導と統制を行った。男子生徒全員に夏休みまでに丸刈りにするよう厳命し[17]、女子はおかっぱとした。下駄箱の靴のかかとのそろえ、始業前一分間不動、掃除などの作業の黙働、暁天かけ足[18]、部活動全員強制参加、夜10時以降の家庭学習見回り、休日の制服強制、遠足の弁当の統一(おにぎりのみ)などがこの年から一気に開始された。鈴村はわずか3年間で城北を愛知県の成績トップクラスの中学校に仕立て上げ[16]、のちに城北中は「チリ一つ落ちてない日本一のモデル校」と呼ばれるようになった[19]

それとともに市議会議員を饗応し、料亭で芸妓をはべらすなど運動を盛んに行い、1972年(昭和47年)、ついに岡崎市教育委員会教育長のポストを得た[20][21]。1970年代以降、愛知県では管理教育が猛威を振うが[注 1]、鈴村は徹底した派閥人事を敷くことで教員をも支配した[19][24]

森信三に心酔していた鈴村は、著書や機関誌を部下に購読させ、森を「城北教育の父」と呼ばせた。1976年(昭和51年)9月、城北中学の教職員は『学校づくり120話』を刊行。教員の一人は森について、「読書会で読み、学年会で読み、教科部会で読む。迷ったときに読み、うれしいときに読む。議論の初めに先生が出る。議論の途中に先生が出る。議論の終わりに先生が出る。わたしたちは、先生の名前をお呼びすることによって、体の痺れるような感動を覚える」と綴るほどであった[25][26]

1980年(昭和55年)2月26日付の朝日新聞紙上で、岡崎市立甲山中学校の卒業生が学校に対し、常識を超えた体罰を行うY教諭をやめさせてほしいと請願書を出していたことが報道された[27]。請願が出されたのは1976年(昭和51年)8月。その年の3月に卒業した生徒たちはどこに訴えを持っていいのか分からず、やむをえず県教育委員会に提出していた。この報道内容は1980年3月の市議会定例会で問題化され、八田廣子市議と鈴村の間で次のようなやりとりがなされた[27]

八田廣子 昭和52年にも、それ以前にも私たちはこの議場で、先生の暴力を指摘し、その指導改善を要望してきた。一体いまに至ってもこういう事態があるというのはどういうことか。こういう教育を教育長はよいとお考えなのか。
鈴村正弘教育長 暴力は法によって禁止をされている事項であり、よくないということは自明のことである。しかし教師、生徒双方の現在並びに将来のことを考えて、この件の詳細の事情を発表することはいかがかという見解をもっているので、申しわけないが詳細についての発表は控えさせていただきたい。 — 岡崎市議会 昭和55年3月定例会 03月12日-03号。

こう言って鈴村は切り抜けたが、それから3か月後、岡崎市は空前絶後と言われた選挙違反事件に見舞われる[28][29]

中根鎭夫が市長に就任 編集

1980年(昭和55年)6月27日、衆院選長男を擁立した岡崎市長の内田喜久が公選法違反容疑で逮捕された[30]。8月17日、内田の辞職に伴う市長選挙が行われ、前県議の中根鎭夫が初当選した。さらに内田の金脈も暴かれ、8月20日から9月11日にかけて、市内の土建業者社長5人が内田に対する贈賄容疑で逮捕され、唐沢町の業者社長が同容疑で書類送検された[31][32][33][34]岡崎市議会は25人の逮捕者を出し、リコール運動に追い詰められ、9月17日に自主解散した[35][36]

鈴村は腐敗した内田市政と密着した教育行政を行っていたことから進退が注目されたが、9月30日の任期満了をもってそのまま退任する道を選んだ[37][38]。教育の現場は「これで自由な意見が出せる」と開放的な空気に包まれるが、喜びも束の間、反内田を旗印に掲げていたはずの中根が鈴村に再任を要請。11月の市議会臨時会で鈴村は三たび教育長の職に就いた[24]。中根は鈴村らの推し進める強権的指導法を是認した[39]

1981年(昭和56年)3月7日の土曜日、私立高校への進学が決まっていた城北中学校3年生の男子生徒が下校後、担任から電話で呼び出された。6人の教師たちは、文房具を万引きした疑いがあるとして男子生徒を追及。1時間半にわたり「集団指導」と称する査問を行った。男子生徒は午後5時40分頃に再び下校。5時54分、名鉄岡崎公園前駅ホームから電車に飛び込み、自殺した[40][25]。ちょうど教育の「岡崎化」という言葉がささやかれていた頃でもあり、毎日新聞は同年4月20日から「教育を追う」と題した記事を30回連載し、この事件を大きく取り上げた[19]

しかし当局者が市民に対して自殺の原因について何ら説明をしなかったため、名古屋オリンピック招致反対市民運動を牽引していたスポーツ社会学者影山健[41][注 2]を動かすこととなった。影山は実情の調査を促す運動が必要と考え、1982年(昭和57年)3月、「岡崎の教育を考える会」(略称:市民の会)を発足させた。

鈴村正弘が教育長を辞職 編集

生徒に対する体罰をほしいままにした甲山中学では暴力の連鎖を生んだ。1982年(昭和57年)3月4日、3年生の男子生徒7人は生活態度を注意されたことなどを理由に、約30分近くにわたって、教師12人に殴る蹴るの暴行を加えた。警察署員約10人が学校からの通報で駆けつけるも、生徒は「何だお前らは」などと署員に食ってかかり乱暴をやめなかった。3人が現行犯で逮捕され、4人が補導された[43][44]。翌3月5日、教育長の鈴村正弘は2年8か月の任期を残して辞表を提出。3月31日付で辞職した[45]。後任は城北中学校長の横井滋が就任した[37][21]

森山昭雄ら市民の会のメンバーが丸刈り強制反対を訴え続ける中、1988年(昭和63年)4月9日、市教育委員会指導部長の伊豫田壽夫が教育長に就任[38]。同年4月25日には文部省初等中等教育局長が都道府県教育委員会に対し、校則の見直しを指示するが[46][47][48]、城北中学が率先して校則改正に着手することはなかった。

1990年(平成2年)12月10日、伊豫田教育長が「丸刈り規正を見直したい」と発言したことが新聞で報道された[49]。1991年(平成3年)3月、岡崎市で「さよなら管理教育」全国集会が開かれ[50]、同年9月、岡崎市立南中学校が他校に先駆けて男子の頭髪の自由化を実施[51][52]パターナリズム的な暴力に根差した管理主義教育[53]は90年代から徐々に影を潜めていった。

交通アクセス 編集

著名な出身者 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 愛知県教育委員会教育長は1969年4月から1974年7月まで自治官僚出身の仲谷義明が務めた[22]。仲谷は副知事を経て1975年、愛知県知事に初当選した。1977年8月25日に名古屋オリンピック構想を発表[23]IOCがソウルに決定する1981年まで誘致運動に深く関わった。
  2. ^ 影山健はのちに愛知万博反対を掲げる市民グループの代表となり[42]、新人同士で争われた1999年の愛知県知事選挙に立候補するも次点で落選した。

出典 編集

  1. ^ 岡崎まちものがたり 06 連尺学区”. 岡崎市ホームページ (2023年7月14日). 2024年1月17日閲覧。
  2. ^ 教育要覧(平成25年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 106-107 (2013年7月). 2020年7月26日閲覧。
  3. ^ 教育要覧(令和元年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 120-121 (2019年8月). 2020年7月26日閲覧。
  4. ^ 教育要覧(令和2年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 122-123 (2020年9月). 2020年9月27日閲覧。
  5. ^ 教育要覧(令和3年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 120-121 (2021年9月). 2020年9月21日閲覧。
  6. ^ 教育要覧(令和4年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 120-121 (2022年9月). 2022年9月27日閲覧。
  7. ^ 教育要覧(令和5年度)”. 岡崎市教育委員会. pp. 122-123 (2023年9月). 2023年9月20日閲覧。
  8. ^ 岡崎市立中学校の通学区域”. 岡崎市教育委員会 (2022年12月26日). 2024年1月22日閲覧。
  9. ^ 市政だより No.82” (PDF). 岡崎市役所. p. 2 (1962年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  10. ^ 『学校づくり120話』岡崎市立城北中学校、1976年9月30日、58-59頁。 
  11. ^ 市政だより おかざき No.1045” (PDF). 岡崎市役所. p. 10 (2006年4月1日). 2020年7月26日閲覧。
  12. ^ 香村 2006, p. 142.
  13. ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、143頁。 
  14. ^ 香村 2006, pp. 171–172.
  15. ^ 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日、64頁。 
  16. ^ a b 森山 1989, pp. 129–130.
  17. ^ 森山 1989, p. 123.
  18. ^ “伝統 びっくり暁天 かけ足 岡崎の街に響く 「ヨイショヨイショ」の掛け声は 城北中の生徒です”. 東海愛知新聞. (2007年1月21日). http://fm-egao.jp/tokai/070121.php 2021年6月28日閲覧。 
  19. ^ a b c 影山・岡崎 1983, pp. 275–277.
  20. ^ 『岡崎市議会 昭和47年9月定例会会議録』、338頁、341頁。
  21. ^ a b 東海愛知新聞』1982年3月25日、1面、「鈴村教育長が辞任 後任に横井城北中校長内定」。
  22. ^ 仲谷義明 『素直に生きて―仲谷義明遺文集―』 仲谷貞子、1992年8月3日、360-361頁。
  23. ^ 『中日新聞』1977年8月25日付朝刊、1面、「88年五輪を名古屋へ 仲谷愛知県知事が提唱」。
  24. ^ a b 岡崎市議会 昭和55年11月 臨時会 11月15日-20号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月26日閲覧。
  25. ^ a b 鎌田 1984, pp. 22–23.
  26. ^ 『学校づくり120話』岡崎市立城北中学校、1976年9月30日、18-19頁。 
  27. ^ a b 岡崎市議会 昭和55年3月 定例会 03月12日-03号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  28. ^ 『中日新聞』1980年8月23日付夕刊、D版、11面、「内田派違反捜査終わる 逮捕55人 黒い金4400万円 大半が県、市町議 自治組織悪用もくっきり」。
  29. ^ 『東海愛知新聞』1980年8月24日、「買収捜査ほぼ終わる 百二十八人検挙、四千四百万円解明 汚職事件捜査本部設け究明へ」。
  30. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (104) 崩落の日 県警ついに内田逮捕」 『朝日新聞』1981年4月24日付朝刊、三河版西。
  31. ^ 『朝日新聞』1980年8月21日付朝刊、19面、「〝親内田〟筆頭の加藤 矢作北中建設工事 疑惑の焦点だった」。
  32. ^ 『朝日新聞』1980年8月21日付朝刊、19面、「うわさされていた大伸建設」。
  33. ^ 『中日新聞』1980年9月5日付朝刊、11版、23面、「さらに2業者逮捕 岡崎の土木汚職 内田へワイロ400万円 成瀬と酒部 自宅、会社など捜索」。
  34. ^ 『中日新聞』1980年9月12日付朝刊、11版、22面、「矢田組社長を逮捕 内田汚職 学校建設入札でワイロ」。
  35. ^ 『中日新聞』1980年9月18日付朝刊、三河、15面、「岡崎の良識 勝利の日 9・17市議会解散ドキュメント」。
  36. ^ 『中日新聞』1980年9月18日付朝刊、11版、22面、「追い詰められて 岡崎市議会の解散 (上) 尽きた延命策 若手が〝造反〟決意 リコール署名にやむなく」。
  37. ^ a b 『中日新聞』1982年3月25日付朝刊、三河版、15面、「後任に横井氏選任 岡崎市の教育長 あす市議会で同意を求める」。
  38. ^ a b 教育要覧(令和元年度)”. 岡崎市教育委員会. p. 105 (2019年8月). 2020年7月26日閲覧。
  39. ^ 岡崎市議会 昭和57年3月 定例会 03月09日-03号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  40. ^ 『中日新聞』1981年3月8日付朝刊、11版、23面、「生活指導され帰宅途中 中3飛び込み自殺 岡崎で名鉄へ」。
  41. ^ 『中日新聞』1998年9月27日付朝刊、1面、「愛知知事選 影山(愛教大名誉教授)立候補へ 万博反対派 共産党と連携も」。
  42. ^ 『中日新聞』1998年3月3日付夕刊、1面、「愛知万博 賛否問う県民投票を 反対派 条例の制定直接請求」。
  43. ^ 『中日新聞』1982年3月5日付朝刊、11版、23面、「〝巣立ち〟間近 集団暴力 岡崎の甲山中 教師12人、殴るける 3人逮捕し4人を補導」。
  44. ^ 岡崎市議会 昭和57年6月 定例会 06月17日-08号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  45. ^ 岡崎市議会 昭和57年3月 定例会 03月26日-05号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  46. ^ 児山正史. “校則見直しに対する文部省・教育委員会の影響(1) 公共サービスにおける利用者の自由”. CiNii. 2021年6月28日閲覧。
  47. ^ 岡崎市議会 昭和63年6月 定例会 06月08日-08号”. 岡崎市会議録検索システム. 2021年6月22日閲覧。
  48. ^ 生徒指導関係略年表について”. 文部科学省. 2021年6月29日閲覧。
  49. ^ 『中日新聞』1990年12月10日付朝刊、26面、「頭髪岡崎も自由化へ 教育長が見直し表明 17中学校来春にも」。
  50. ^ 『中日新聞』1991年5月2日付朝刊、東海総合面、19面、「トーク東海 『さよなら管理教育』全国集会の代表 影山健さん 先生自身がんじがらめ 依頼心強い親にも問題」。
  51. ^ 岡崎市議会 平成3年9月 定例会 09月05日-20号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  52. ^ 岩下理花「教育リポート91/ 頭髪自由化 岡崎市でトップ切った南中学校 先生はまだ不安も 生徒に育つ自負と責任感」 『中日新聞』1991年10月7日付朝刊、東海総合面、13面。
  53. ^ 日本スポーツ社会学会会報 Vol.67”. 日本スポーツ社会学会 (2016年12月). 2021年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月8日閲覧。
  54. ^ 略歴と経歴(2011年まで)”. 前岡崎市長 内田康宏のホームページ. 2021年5月25日閲覧。
  55. ^ 新・城北ニュース 12月15日(金) 第351号”. 岡崎市立城北中学校. 2020年2月24日閲覧。
  56. ^ 中日新聞』2013年8月5日付朝刊、三河版、14面、「こころは三河 私の古里 落語家 三遊亭愛楽さん」。
  57. ^ ご報告 母校「城北中学校創立50周年」講演会”. 神野三枝オフィシャルウェブサイト (2011年6月4日). 2017年10月19日閲覧。
  58. ^ 森崎まみ (2015年8月31日). “中日新聞(^o^)”. オフィシャルブログ「愛してCREAMY」. CyberAgent. 2017年10月19日閲覧。
  59. ^ “こころは三河 私の古里「グラビアタレント・森崎まみさん」”. 中日新聞三河版 (中日新聞社): p. 14. (2015年8月31日) 

参考文献 編集

  • 影山健・岡崎勝編『草の根教育運動のために』国土社、1983年9月25日。ISBN 978-4337454231 
  • 鎌田慧『教育工場の子どもたち』岩波書店、1984年1月30日。 
  • 森山昭雄『丸刈り校則 たった一人の反乱』風媒社、1989年3月31日。ISBN 978-4833109321 
  • 香村克己『戦後愛知の教育運動史―地域から綴る運動と教師群像』風媒社、2006年4月30日。ISBN 978-4833109574 

関連項目 編集

外部リンク 編集