岡崎郁
岡崎 郁(おかざき かおる、 1961年6月7日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ・二軍監督。現役時代は、一貫して読売ジャイアンツ(巨人)でプレー。引退後の2006年以降も、野球解説者として活動した時期をはさんで、巨人で二軍打撃コーチ・二軍ヘッド兼内野守備走塁コーチ・一軍ヘッドコーチ・二軍監督・スカウト部長などを務めていた。
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 大分県大分市 |
生年月日 | 1961年6月7日(59歳) |
身長 体重 |
178 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト3位 |
初出場 | 1982年10月5日 |
最終出場 | 1996年5月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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経歴編集
プロ入り前編集
大分商業高校では1979年春夏の甲子園に連続出場。春の選抜ではエースとして起用され、1回戦で作新学院を5-1で降す。しかし2回戦では東洋大姫路に打ち崩され大敗を喫する[1]。夏の選手権では遊撃手に回る。2年生エース松本健(東芝大分)の好投もあって準々決勝に進出するが、横浜商の宮城弘明に抑えられ敗退[2]。同年の全日本高校選抜チームによるハワイ遠征にも選出される。
法政大学への進学を希望していたが、1979年のプロ野球ドラフト会議で巨人から内野手として3位で指名される。その後の交渉で当時の一軍監督だった長嶋茂雄の説得を受けたことから、入団に至った。
プロ入り後編集
入団当初は内野陣に河埜和正、篠塚利夫、中畑清、原辰徳などが揃っていたため、一軍公式戦への出場機会に恵まれなかった。1984年には、肋膜炎を患って療養生活を送ったため、支配下選手登録を外れて練習生として扱われた。
肋膜炎の癒えた1985年には、支配下登録選手への復帰を経て一軍に定着。河埜や石渡茂といったベテラン内野手と遊撃手のレギュラーを争い、8月には定位置を獲得する。1987年には鴻野淳基との熾烈な定位置争いの中、一軍公式戦での通算失策を2にとどめるとともに、守備率.994を記録。遊撃手としてのシーズン守備率のNPB記録(当時)を樹立するなど、レギュラークラスの働きを随所に見せていた。同年の西武との日本シリーズでも3試合に先発、12打数4安打を記録する。翌1988年には主に二番打者として77試合に先発出場。
入団10年目の1989年には、当時の一軍監督・藤田元司に勝負強い打撃を見出されたことを機に、春季キャンプで三塁手や一塁手としての守備を練習。オープン戦で首位打者を獲得すると、開幕戦では一塁手としてスタメンに起用された。さらに原の左翼手へのコンバートに伴い一塁手から三塁手に復帰した中畑が開幕直後に故障。これを機に三塁手のレギュラーに定着する。結果として遊撃手から三塁手へのコンバートに成功した。打撃面でも、親友の駒田徳広とのコンビで六番、七番打者を任されると、「第2のクリーンナップ」として他球団から恐れられるまでに成長。同年は初の規定打席(20位、打率.268)に到達した。
1989年の日本シリーズおよび、1990年のセ・リーグ優勝に貢献するとともに、オールスターゲームのファン投票でも1989年から4年連続でセ・リーグ三塁手部門の1位になった。1989年の近鉄との日本シリーズでは2本塁打を放ち優秀選手賞を獲得、チームが西武に圧倒された1990年の日本シリーズでも、12打数5安打1本塁打と孤軍奮闘し敢闘賞を受賞した。なお、1990年の日本シリーズで西武野球の強さを目の当たりにした岡崎は「私の野球観が変わった」との言葉を残している。
1991年から選手会長・主将も務め、1992年まで三塁のレギュラーの座を維持していたが、1993年には原が三塁手に復帰した為に控えに回るが、チームが極度の打撃不振に陥り、同年8月11日には、ヤクルトとの対戦で、一軍公式戦ではチーム58代目の四番打者に起用された。1994年は原の故障もあって三塁手に戻り、6月からは五番打者に定着。規定打席には届かなかったがリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第3戦で2安打、第4戦で3安打を放ちチーム日本一に力を添えた。この時、以前は西武に負けた時に「野球観が変わった」と言っていたのが「ああいう野球は元々はジャイアンツの野球だった」と語っている。1995年以降は、元木大介の成長や仁志敏久の入団などから出場機会が減少。1996年に現役を引退した。
現役引退後編集
1997年から2004年まで、ニッポン放送の野球解説者として8年間活動。その一方で、『おはようクジラ』『エクスプレス』(いずれも平日の早朝にテレビで放送されたTBS制作・全国ネットの情報番組)のスポーツキャスターや、東京都千代田区三崎町の焼肉店「香おる」のオーナーも務めた。
2005年に、ニューヨーク・ヤンキースへコーチ留学。2006年から、二軍打撃コーチとして巨人に復帰した。2008年に二軍ヘッド兼内野守備走塁コーチを務めると、2009年には、吉村禎章の後任として二軍監督に就任。2010年には、第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表の監督も務めた。
巨人では、2011年に一軍ヘッドコーチを担当。シーズン終了当初は、翌2012年シーズンもヘッドコーチを務めることが球団から発表された。しかし11月11日に、球団会長渡邉恒雄によって江川卓の一軍ヘッドコーチ就任・岡崎の降格という人事が決められていることが、当時の球団代表・清武英利による渡邉への告発を通じて明らかになった。これに対して、渡邉は翌12日に、江川に対して正式にヘッドコーチの就任を要請していないことを明言。チームの秋季キャンプ中だった同月15日には、桃井恒和オーナーがキャンプ地の宮崎を訪れたうえで、岡崎に対して一軍ヘッドコーチへの留任を伝えている[3]。球団では、江川のヘッドコーチ就任を「原辰徳一軍監督と渡邉の会談で出た案の一つ」と説明する一方で、清武に対して同月18日付で球団内のあらゆる役職からの解任を通告した。
結局、岡崎は2012年まで一軍ヘッドコーチを担当。2013年から2015年までは、役職を川相昌弘と入れ替える格好で、再び二軍監督を務めた。2016年の編成本部アドバイザーを経て、2017年1月1日付でスカウト部長に就任[4]。
詳細情報編集
年度別打撃成績編集
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1982 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1983 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1985 | 96 | 236 | 198 | 27 | 53 | 11 | 0 | 4 | 76 | 19 | 2 | 0 | 4 | 3 | 30 | 7 | 1 | 29 | 5 | .268 | .362 | .384 | .746 | |
1986 | 92 | 314 | 281 | 33 | 83 | 10 | 3 | 6 | 117 | 37 | 0 | 0 | 11 | 4 | 18 | 5 | 0 | 34 | 7 | .295 | .333 | .416 | .750 | |
1987 | 117 | 359 | 297 | 40 | 74 | 17 | 0 | 0 | 91 | 14 | 0 | 1 | 31 | 2 | 28 | 0 | 1 | 61 | 4 | .249 | .314 | .306 | .620 | |
1988 | 106 | 368 | 316 | 38 | 87 | 13 | 5 | 5 | 125 | 30 | 9 | 1 | 17 | 2 | 33 | 0 | 0 | 39 | 5 | .275 | .342 | .396 | .737 | |
1989 | 127 | 501 | 444 | 57 | 119 | 23 | 1 | 12 | 180 | 59 | 4 | 3 | 5 | 5 | 43 | 1 | 4 | 49 | 8 | .268 | .335 | .405 | .740 | |
1990 | 102 | 403 | 356 | 52 | 103 | 24 | 6 | 6 | 157 | 49 | 2 | 1 | 1 | 4 | 41 | 1 | 1 | 50 | 10 | .289 | .361 | .441 | .802 | |
1991 | 113 | 452 | 400 | 44 | 103 | 13 | 1 | 5 | 133 | 44 | 1 | 2 | 2 | 5 | 43 | 4 | 2 | 56 | 10 | .258 | .329 | .333 | .661 | |
1992 | 124 | 510 | 461 | 57 | 116 | 24 | 2 | 12 | 180 | 53 | 1 | 2 | 0 | 2 | 45 | 2 | 2 | 86 | 6 | .252 | .320 | .390 | .710 | |
1993 | 70 | 183 | 165 | 14 | 35 | 3 | 0 | 3 | 47 | 19 | 1 | 1 | 0 | 2 | 15 | 0 | 1 | 30 | 5 | .212 | .279 | .285 | .564 | |
1994 | 111 | 363 | 327 | 35 | 84 | 15 | 0 | 6 | 117 | 45 | 1 | 1 | 1 | 3 | 32 | 1 | 0 | 32 | 13 | .257 | .320 | .358 | .678 | |
1995 | 84 | 259 | 233 | 23 | 48 | 6 | 2 | 3 | 67 | 14 | 2 | 2 | 3 | 0 | 22 | 1 | 1 | 37 | 7 | .206 | .277 | .288 | .565 | |
1996 | 12 | 13 | 11 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | 1 | .091 | .231 | .364 | .594 | |
通算:14年 | 1156 | 3962 | 3490 | 422 | 906 | 159 | 20 | 63 | 1294 | 384 | 23 | 14 | 75 | 32 | 352 | 23 | 13 | 504 | 81 | .260 | .327 | .371 | .698 |
表彰編集
記録編集
- 初記録
- 初出場:1982年10月5日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(後楽園球場)、9回表に河埜和正に代わり遊撃手として出場
- 初打席:1983年8月28日、対ヤクルトスワローズ18回戦(後楽園球場)、5回裏に香坂英典の代打として出場、宮本賢治の前に凡退
- 初安打:1985年4月13日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(後楽園球場)、8回裏に河埜和正の代打として出場、斉藤明夫から単打
- 初先発出場:1985年4月25日、対中日ドラゴンズ2回戦(後楽園球場)、7番・遊撃手として先発出場
- 初打点:1985年4月26日、対中日ドラゴンズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に郭源治から適時打
- 初本塁打:1985年7月31日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、7回表に山根和夫からソロ
- 節目の記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:4回 (1989年 - 1992年)
背番号編集
- 45 (1980年 - 1987年)
- 5 (1988年 - 1996年)
- 75 (2006年 - 2008年)
- 83 (2009年 - 2015年)
関連情報編集
出演番組編集
- ニッポン放送ショウアップナイター - 解説者(1997年 - 2004年)
- おはようクジラ(TBSテレビ) - スポーツキャスター(1997年4月 - 1999年3月)
- エクスプレス(TBSテレビ)水曜日 - スポーツキャスター(1999年4月 - 2002年3月)
脚注編集
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 朝日新聞 2011年11月16日
- ^ 【巨人】岡崎前二軍監督が新スカウト部長にスポーツ報知 2016年12月15日
関連項目編集
外部リンク編集
- 個人年度別成績 岡崎郁 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)