岡本久包
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 貞享2年(1685年) |
死没 | 延享3年8月4日(1746年9月18日) |
別名 | 弥十郎 |
戒名 | 義的 |
墓所 | 浅草東國寺 |
氏族 | 岡本氏 |
父母 | 父:桑嶋忠久 母:桑田佐左衛門娘 |
兄弟 | 桑嶋忠陳、桑嶋忠純、久包、児玉氏妻、六郎左衛門、忠査 |
妻 | 近藤茂大夫娘 |
子 |
真野貞國室、山本正職室、久暢、 横尾宅平室(久暢養女) |
略歴
編集正徳元年(1711年)12月18日に徳川家宣に仕え、表右筆となり禄米百五十俵を得て、祖先の姓である岡本氏を名乗って独立する。その後久包は、順調に出世していく。正徳5年(1715年)4月30日には奥右筆となり、同年12月18日に禄米五十俵を加えられて禄米二百俵となった。さらには、享保16年(1731年)4月24日に西の丸に勤仕し、享保19年(1734年)4月18日には奥右筆の組頭になり、久包は幕府内の信頼と地位を高めていった。
しかし、奥右筆組頭となった年の10月26日、田安館の火番の人数が足らなかったことから、その人員補充をすることになったが、すでに1人登用が決まっていたにもかかわらず、久包は、誤ってもう1人採用してしまい、重複させてしまう手違いを犯してしまう。これを咎められ、久包は拝謁停止の処分を受ける。
ただ、謹慎は1ヵ月程度で解かれて同年中の12月6日に赦免となり、さらに12月18日には布衣(ほい)の着用を許され、旗本格に列せられる。布衣の着用は、官位で六位の者と同格とされる名誉であった。寛保2年(1742年)7月9日、御納戸役(おなんどやく)[1]の頭となる。