岡本 保忠(おかもと やすただ)は、下野国塩谷郡戦国武将

 
岡本保忠
時代 戦国時代江戸時代
生誕 天正14年(1586年
死没 寛永20年(1643年3月27日
別名 新助、塩谷清通、塩谷高通
戒名 孝徳院殿忠順有保居士
墓所 鏡山寺
官位 縫殿助
氏族 岡本氏
父母 父:塩谷義通、母:岡本正親
養父:岡本正親     
兄弟 義保保真保忠
忠清
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人物・経歴 編集

塩谷郡の国人領主である塩谷氏の一門、義通の子として生まれるが、外祖父の岡本正親が戦で2人の嫡子を失うと、兄の義保保真とともに正親の養子となる。その後、義保が岡本家、保真が義通の家督を継ぐが、保忠はその両兄を支えつつ、自らは岡本保忠と塩谷高通(清通)[1]と岡本姓の名と塩谷姓の名の二つを名乗り、いずれかの家が断絶しても、その後を継げるようにしていた。

保忠は、大坂の陣に2人の兄とともに参陣するなど、文武両面で岡本家と塩谷家の両家を支え続けるが、寛永20年(1643年)、58歳で没する。法名は孝徳院殿忠順有保居士。この翌年、甥の岡本義政と次兄の保真の間で内紛(泉騒動)が起き、岡本家は改易、塩谷家は断絶の憂き目を見る。

しかし、保忠の子孫は、岡本家改易直後は浪人となるものの、徳川綱重に仕え、その子六代将軍徳川家宣の時に奥右筆になるなどして栄え、天保7年(1836年)には、保忠の子孫である御馬医桑嶋吉郎右ェ門と奥祐筆岡本勘左ェ門は、岡本家の菩提寺である鏡山寺に祖先の保忠のために寄進し、新たな墓石を建てこれが現在に残っている。

脚注 編集

  1. ^ 最初は清通、その後高通と名乗った(下野国誌)