岡西 惟中(おかにし いちゅう、1639年寛永16年)- 1711年12月5日正徳元年10月26日))は、江戸時代前期から中期の俳人である。本姓は松永。名は勝、後に傭哉。字は赤子。通称は平太で別号に一時軒、竹馬童子等がある。

経歴・人物編集

因幡鳥取に生まれる。その後備中岡山に移る。烏丸資広里村昌程関盛定等の門人となり、連歌を学んだ。後に西山宗因の門人となり、俳諧を学ぶ。若くして俳諧を詠み初め、談林俳諧が流行するとすぐに談林派に属した。理論的根拠が無かった同派の俳諧にその根拠を取り入れ、多くの著書を出版する等、同派の理論における金字塔を成し遂げた。

談林派が全盛期だった1678年延宝6年)に活動の場を大坂(現在の大阪市)に移し、井原西鶴一門と共に宗因一門の双璧を成し遂げた。しかし、宗因の没後には同派の流行は衰退し、俳諧の世界から離れた。その後、晩年にはから来日した南源性派より漢詩菊地東勻より儒学を学んだりする等、様々な学問の人生を送った。

主な著作物編集

主著編集

その他の著書編集

  • 『心正筆法論』
  • 『渋団返答』

出典編集

外部リンク編集