岩下方平

1827-1900, 江戸時代後期~明治の武士(薩摩藩士)、政治家

岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい[1]文政10年3月15日1827年4月10日) - 明治33年(1900年8月14日)は、日本武士薩摩藩士)、政治家勲一等子爵通称は左次右衛門、左二[1]

岩下方平
岩下方平
生年月日 1827年4月10日
出生地 日本の旗 薩摩国鹿児島城下加治屋町
没年月日 (1900-08-14) 1900年8月14日(73歳没)
称号 勲一等瑞宝章

在任期間 1890年7月10日 - 1897年7月9日
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晩年の岩下方平

略歴 編集

文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった[2]

安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した[3]文久3年(1863年)9月、薩英戦争和平交渉の正使として交渉を担当する。薩英戦争の状況については師の平田銕胤に書翰を送り、詳細を報じている[2]

慶応元年(1865年)、家老を勤める。慶応3年(1867年)のパリ万博では、「日本薩摩琉球国太守政府」使節団長として、野村宗七や市来政清ら藩士等9人を率いて参加し、同年夏に帰国の際には、シャルル・ド・モンブランと数人のフランス人技術者を伴った[4]小松帯刀西郷隆盛大久保利通とともに藩政をリードし、倒幕活動に尽力した。王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席。明治2年(1869年)9月、維新の功として永世賞典禄1000石を下賜された。

新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事、元老院議官貴族院議員などを務めた。明治21年(1887年)、維新の功により子爵を授けられ、明治23年(1890年10月20日麝香間祗候となる[5]。死去に際して勲一等瑞宝章が授けられた。享年74。墓所は青山霊園

栄典 編集

位階
勲章等

親族・家族 編集

親族に岩下方美がおり、岩下方平関連の資料は方美の子孫が整理している。

登場する作品 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』1頁。
  2. ^ a b 宮地(1994)pp.260 - 262
  3. ^ 天野「幕末平田国学と秋田藩」
  4. ^ 森有礼とキリスト教[リンク切れ] 林竹二、東北大学教育学部研究年報第16集、1968年
  5. ^ 『官報』第2195号、1890年10月22日。
  6. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  7. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  8. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  9. ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
  10. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。

参考文献 編集

  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
  • 宮地正人 著「幕末平田国学と政治情報」、田中彰 編『日本の近世 第18巻 近代国家への志向』中央公論社、1994年5月。ISBN 4-12-403038-X 

外部リンク 編集

公職
先代
(新設)
  留守次官
1869年 - 1870年
(1869年中烏丸光徳清水谷公考と共同)
次代
阿野公誠
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
岩下(方平)家初代
1887年 - 1900年
次代
岩下家一