島津宗信

江戸時代中期の大名。島津氏23代。薩摩藩6代藩主。従四位上、薩摩守、左近衛中将。島津継豊の長男

島津 宗信(しまづ むねのぶ)は、江戸時代中期の大名。島津氏23代当主。薩摩藩6代藩主

 
島津宗信
時代 江戸時代中期
生誕 享保13年6月13日1728年7月19日
死没 寛延2年7月10日1749年8月22日
改名 益之助(幼名)→忠顕(初名)→宗信
別名 又三郎(通称
戒名 慈徳院殿俊厳良英大居士
官位 従四位上薩摩守左近衛中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
薩摩鹿児島藩
氏族 島津氏
父母 島津継豊
渋谷貫臣の娘・於嘉久
兄弟 宗信重年久峰、鐘、鉄、眞含院入来院定勝樺山久倫
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略歴 編集

正室はなし(婚約者に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫)。幼名益之助又三郎。初名は忠顕(ただあき)、のちに8代将軍徳川吉宗より偏諱を賜い、宗信に改名。官位は従四位上薩摩守左近衛中将

享保13年(1728年6月、5代藩主・島津継豊の長男として生まれた。母は側室・於嘉久(渋谷氏)。仁徳者として知られた伊集院仁右衛門の教育を受ける。若年時より才気煥発で将来を嘱望された。元文4年(1739年12月、従四位下侍従を叙任し、松平薩摩守を称した[1]延享3年(1746年11月、父・継豊の隠居により家督を継ぎ、藩主となった。同年12月、左近衛少将に叙任している。寛延元年(1748年)12月、従四位上左近衛中将に叙任した。

寛延2年(1749年)、膝の痛みを発症し、夏季の旅は困難であるため3月江戸を発ったが、その途中に浮腫を発症する。5月18日鹿児島に着いたが、その後も症状は悪化し、父に先立って同年7月10日、22歳で死去した[2]戒名は慈徳院殿俊厳良英大居士。後を弟の重年が継ぐこととなった。維新後の神号は弥広慈徳彦命。

逸話 編集

  • 初代藩主・島津家久以降の薩摩藩主は代々、東郷重尚の子孫より日置流弓術を学んだが、宗信と後代の斉彬は特に日置流弓術を重用した。宗信は参勤交代の際の行列に弓術練習用の巻藁を持たせ、宿泊中に師範の東郷実明に指導を受けて、練習を怠らなかったという。
  • 『島津国史』では、生母・御嘉久の方が継嗣問題を心配して、側室を薦めたが、宗信は舅の徳川宗勝に義理立てしてこれを拒否したという。結果として御嘉久の方の心配が的中してしまうこととなる。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、2000年、157~158頁。
  2. ^ 芳即正『島津重豪』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1980年)p.6

参考文献 編集

  • 「島津氏正統系図」
  • 「島津国史」

宗信を取り上げた本 編集