島津寒天工場

宮崎県都城市にある遺跡

島津寒天工場(しまづかんてんこうじょう)は、宮崎県都城市山之口町山之口にある遺跡[1]

島津寒天工場
島津寒天工場の位置(宮崎県内)
島津寒天工場
情報
用途 テングサの加工並びに寒天の製造
建築主 薩摩藩
事業主体 浜崎太平次
所在地 889-1803
宮崎県都城市山之口町山之口
座標 北緯31度50分25.4秒 東経131度09分26.8秒 / 北緯31.840389度 東経131.157444度 / 31.840389; 131.157444 (島津寒天工場)座標: 北緯31度50分25.4秒 東経131度09分26.8秒 / 北緯31.840389度 東経131.157444度 / 31.840389; 131.157444 (島津寒天工場)
文化財 都城市指定史跡
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都城市指定史跡[2]

薩摩藩は本工場施設を使い、幕末から明治時代初期にかけて領内で収穫したテングサを加工し、中国・ロシアなどに密輸していた。

建造の経緯 編集

文化文政1804年1831年)の幕末の頃、薩摩藩の財政は非常に困窮しており500万両の借金があった。時の家老調所笑左衛門広郷は、指宿の豪商浜崎太平次と計り財政再建策(薩摩藩の天保改革の一環)として、この地に寒天製造工場を設けた。この地を選んだのは、寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと考えられている。薩摩藩の天保改革により、天保11年(1840年)には、薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えができるほどにまで財政が回復した。

最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと考えられる。

原料の加工・製品の出荷 編集

原料のテングサは、甑島列島を中心に薩摩西海岸から運ばれ、直径130センチメートル、高さ180センチメートルほどの窯で煮られ、寒天に加工された。

製品は福山港(現:霧島市)に運び、さらに大坂、長崎に運ばれて中国の清ロシアなどに密輸された。

人員・設備 編集

また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿・伊集院伊作など)からの出稼ぎ者約80名、地元採用者約50名を合わせた従業員数は、約120名~130名程度であったと言われている。

現在、9基の窯跡を見る事ができる。

脚注 編集

  1. ^ 島津寒天工場跡 – やまのくち”. 2021年6月26日閲覧。
  2. ^ 指定文化財”. 都城市. 2021年6月25日閲覧。

参考文献 編集

  • 都城市教育委員会 町指定史跡 島津寒天工場跡 看板より

関連項目 編集

外部リンク 編集