島津 忠欽(しまづ ただかた、弘化2年11月22日1845年12月20日) - 大正4年(1915年4月17日[1])は、幕末薩摩藩の藩主一門で、明治から大正時代の華族男爵)。今和泉島津家第13代当主、のち玉里島津家分家を興す。

 
島津忠欽
時代 江戸時代末期 - 大正時代
生誕 弘化2年11月22日1845年12月20日
死没 大正4年(1915年4月17日
墓所 今和泉島津家墓地
幕府 江戸幕府
薩摩藩
氏族 島津氏重富家今和泉家玉里家分家)
父母 父:島津久光、母:お千百島津忠公の娘)
養父:島津忠敬
兄弟 於儔、忠義、於定、於哲、久治、包次郎、於寛、珍彦忠欽、於郷、忠経忠済
於住、於俊、芳之進、於民
島津忠敬養女・(実父・島津忠冬
雄五郎、竹、倉、峯、隼彦、鶴、時子
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略歴

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今和泉家第11代当主忠冬の娘・巖(又従姉妹にあたる)の婿養子となり、明治27年(1894年)に先代当主の忠敬(忠冬の弟)が没すると跡を嗣いで当主となる。2年後の明治29年(1896年)9月に当主を次男の隼彦に譲り、妻の巖や長男の雄五郎ら他の子たちを連れて今和泉家を離籍し、玉里島津家の籍に入る。同年12月に父・久光の勲功により男爵となり、分家した。その後、照国神社宮司、第百十七国立銀行頭取、貯蓄銀行取締役などを歴任する[1]

1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し[2]、1911年(明治44年)7月9日まで1期在任した[1]

大正4年(1915年)4月17日に69歳で没した。雄五郎に先立たれたため、雄五郎と夫人の明子(珍彦の長女)の長男の忠夫が分家当主と男爵位を継いだ。忠夫は鹿児島貯蓄銀行、鹿児島商弘銀行の重役を務めている[3]

家族

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実父は島津久光、実母は重富家出身の島津千百子。同母兄弟に最後の薩摩藩主の公爵忠義宮之城家を継いだ久治、重富家を継いだ男爵珍彦、異母弟に玉里家第2代当主の公爵忠済がいる。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
  3. ^ 島津忠夫『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  4. ^ 『官報』第4031号「叙任及辞令」1896年12月4日。
  5. ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
(玉里)島津家(分家)初代
1896年 - 1915年
次代
島津忠夫
当主
先代
玉里島津家分家
初代
1896年 - 1915年
次代
島津忠夫
先代
島津忠敬
今和泉島津家
13代
1894年 - 1896年
次代
島津隼彦