時憲暦
時憲暦(じけんれき、満州語: ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ
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ᠲᠣᠨ、転写: forgon i yargiyan ton)は、中国暦の一つで、清の時代に、入関直後の順治二年(1645)から滅亡まで、一時の中断期間を除き、ほぼ全期間にわたって用いられた。ただし、二度の大幅な改定を経ており、背後にある理論はその都度、書き換わっている。公式の中国暦としては、最後のものである。伝統的な様式にのとった太陰太陽暦であるが、西洋天文学をベースにしており、イエズス会の宣教師の貢献が大きい。また、それまでの中国の暦と異なり、二十四節気を太陽の黄道上の位置で定める定気法を採用している。江戸時代後半の日本の暦法は、時憲暦の各版の影響を大きく受けており、西洋天文学の受容につながった。

解説
編集時憲暦は、①明末の改暦事業の成果である『西洋新法暦書』(『新法暦書』)に基づいて、イエズス会宣教師アダム・シャール(湯若望)らが清初の順治年間に編纂されたもの②康熙帝の発案により、何国宗・梅穀成らが康熙年間に『暦象考成』上下編を編纂し、それに基づいて改訂したもの③イエズス会宣教師のケーグラーらが『暦象考成』後編を編纂し、それに基づき乾隆年間に改訂したもの。この三つをいずれも時憲暦とよぶ。康煕年間初期の暦獄による中断の時期を除いて、清末まで使われ続けた。乾隆帝の諱が「弘暦」であったため、中国では「暦」の字の使用を避けて時憲書(じけんしょ、満州語: ᡝᠷᡞᠨ
ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ
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ᠪᡞᠳᡥᡝ、転写: erin forgon i ton i bithe)と呼ぶようになった。
形式は中国の伝統的な太陰太陽暦であるが、それまでの中国暦と異なり、外来の西方の天文学が正式な暦に、しかも背後にある数学や宇宙構造説も含めて導入されたことである。また、上記の②を除くと、外国人のイエズス会宣教師が直接に関与して編纂された。
それまでも、西方のギリシャ系統の天文学がインドやイスラム圏から流入していたが、表面的な計算方法は紹介されても、基礎的な理論に深入りすることは、ほぼ無かった。また、正式の暦は中国式の暦算に基づいて中国人が編纂していた。
ギリシャに起源をもつ西方の天文学は、幾何学的な方法、特に三角法や球面三角法を駆使する。これらは中国にとっては全く新しい数学であった。また、宇宙や大地の構造の理論が暦の計算に深く関係することも、それまでの中国暦にはない特徴であった。大地の構造については地球球体説が採用され、知識人の間に論争を引き起こした[1]。
ここで用いられた西洋天文学は、地球中心の天動説である。①と②は、ティコ・ブラーエとその第一助手であったロンゴモンタヌス論の影響が大きく、従円と周転円、離心円を用いる。③の段階になると、太陽の運動についてケプラーの楕円軌道が、月の運動に関してホロックスとニュートンの理論が取り入れられた。ただし、ニュートンの力学は全くふれられていない[2]。
地動説が取り入れられなかった理由としては、当時はヨーロッパでも地動説は確立していない新説だったことに加え、ガリレオ裁判の影響や、中国側の要請が正確な暦の作成に力点があったことがあげられる。18世紀に入ると、宣教師も地動説の紹介を憚らなくなるが、このころには天動説的な理論が中国に根付いてしまっていた[3]。そこで、③のケプラーらの理論も、地球中心に書き直して導入された。
また、背後にある理論だけでなく、注暦においても二十四節気の定め方が異なっている。それまでは一年を時間的に二十四等分していた(平気法)のを改め、黄道を二十四分割し、分点に来た時点をもって節季定める(定気)。これにより、置閏法は複雑さを増すことになった。
『西洋新法暦書』(『新法暦書』)
編集明の末期、ヨーロッパの天文学に基づく暦書の編纂と、観測機器の整備を含む、大規模な編暦事業が徐光啓の主導のもと、推進された。これは、崇禎二年九月(1630年)の暦局設置から崇禎七年までをかけ、総勢60名前後の人員がかかわった。その成果が、五回にわけて進呈された『崇禎暦書』46種135巻1摺1架であった。将来必要が生じた際の改訂に対応できるよう、基本的な数学、地球球体説から説き起こし、天体の運行の理論、具体的な計算方法と数表、観測機器と使用法の解説、さらに古今東西の天文観測記事が豊富に含まれる、総合的な叢書となっていた。著作と平行して、月食による理論の検証が、二度にわたって行われた[4]。
学術面でこの事業を主導したのは、イエズス会所属の科学者たちであった。徐光啓らの要望に応えるため、宣教師の一部は欧州に戻り、1620年に7000冊に及ぶ書物と天文学に通じたイエズス会士らを伴ってもどってきた。本事業で最も重要な役割を果たしたアダム・シャール(湯若望,1591-1666)、ジャコム・ロー(Giacomo Rho, 羅雅谷, 1593-1638), ヨハン・シュレック(改名後はテレンツ、鄧玉函、1576-1630))は、この時に中国にやってきた[5]。
しかし、徐光啓が『崇禎暦書』の完成前に亡くなると、魏忠賢らの反撃もあり[6]、新暦は実施されなかった。そして、1644年3月に李自成が北京を占領し、崇禎帝は自殺、明は滅亡した。直後に順治帝率いる清が北京を占領する。
このとき、アダム・シャールは『崇禎暦書』を進呈し[7]、さら暦局にとどまった人員の協力を得て、改訂と増補を進め、順治二年、1645年に『西洋新法暦書』32種103巻とした。ここには、『遠鏡説』などの宣教師の著作や、徐光啓『治暦縁起』十二巻(徐光啓の上奉を集めたもの)も組み込んだ。以後増補され、康煕初年までに105巻になる[8]。康煕十二年(1673年)にフェルディナント・フェルビースト(南懐仁)によって、政治的な状況を考慮して、「西洋」を落として『新法暦書』と改名された。乾隆年間に(内容はあまり変わらぬものの)編集上の改訂をへて、『新法算書』100巻として四庫全書におさめられる[9]。
当時、暦に関する論争は未だに収まっていなかったが、順治帝はアダム・シャールらの説を受け入れ、『西洋天文暦書』に基づく暦を「時憲暦」として公布した。
なお、『崇禎暦書』は「漢訳西洋天文学書」とよばれることもあるが、実際には様々な文献をもとに編纂された、ある種の天文学の百科全書であった。天文学の様々な側面を網羅している上に、理論面においてもクラウディオス・プトレマイオス,コペルニクス、ティコ・ブラーエの三者の理論を並列に論じており(ただし、コペルニクスの理論は地球を中心にして書き直したもの)、様々な文献をもとに編集がなされたのは明らかである[10]。また、中国の古いの観測記録を紹介した部分や、観測とのよりよい一致をめざして改変を加えた部分もある[11]。
ただし、もっとも影響が大きかっったのは、ティコ・ブラーエの"Astronomiae Instauratae Progymnasmata”と、ティコの第一助手だったロンゴモンタヌスの"Astronomia Danica"である[12]。
また、現存の『崇禎暦書』の様々な写本や刊本、『西洋新法暦書』の対応箇所の比較から数度にわたる大小の改変があったことは明らかで、少なくとも一度は大幅な改変を経ているとされる。ただし、『崇禎暦書』の完本が未発見のため、不明な点も多い[13]。
『崇禎暦書』,『西洋新法暦書』は膨大な著作であるが、重要な部分に首尾一貫しない記述や不十分な説明のあることが、明末清初からすでに指摘されていた。例えば、太陽の理論を記した『日躔暦指』と計算のための数表『日躔表』、そして『日躔表』付属の解説は、どの二つをとっても整合しない。その上、解説につけられた図には誤りがある[14]。そのほか、金星や月の『暦指』と『表』においても、様々な矛盾や誤りがあった。日月食の計算については、記述が不十分であった。こういった問題点は、最終版である『新法暦書』にも多数残っており、明末清初の中国の暦算家を悩ませた[15]。
康熙帝と『暦象考成上下編』
編集時憲暦が採用されて暫く経過すると、暦の不十分な点が明らかになり、天文学に深い関心をもっていた康熙帝は改訂を思い至った。皇帝は西洋の学問に好意をもっており、自らも深く学んでいたが、この改訂は宣教師たちを排除して行われることになった。背景としては、イエズス会宣教師による欽天監の独占に対する、中国人知識人の不満があった。また、康熙帝も典礼に関する論争を介して、宣教師の背後にいる教皇の存在を意識するようになり、暦法を彼らのみに依存することに不安を持つようになった。
そこで、高名な天文学者の梅文鼎と会談し、その孫の梅穀成・何国宗らに『暦象考成』(上下編および表)(『律暦淵源』所収)を編纂させる[16]。これは『崇禎暦書』がところどころ首尾一貫せず、数表と暦理に食い違いが見られたのを改め、全体的に整理されている。
太陽系の構造は、ティコ・ブラーエやロンゴモンタヌスと異なり、火星、木星、土星は地球を周回するように理論を改めている[17]。
太陽の位置の計算の誤差がこの改正作業の発端であったことに鑑み、太陽の運行については格別の注意が向けられた。
『崇禎暦書』系列の暦書では、ティコ・ブラーエも用いていた古来からの離心円の理論が説明されている。一方、数表を検討すると、ケプラーも推奨したエカントを用いた理論で計算されていることがわかる。さらに『暦象考成』では、エカントをアル・シャーティルやティコの惑星の理論と同様に、二重周転円に置き換えている。この書き換えは、しかし数値的には目立った変化はもたらさなかった[18]。
また、『暦象考成』では、太陽(すなわち地球)の軌道要素を改めて推定し直している。しかし、これも最終的には旧来の値にほぼ落ち着いている[19]。
『暦象考成後編』と楕円軌道
編集この改訂版も、基本的な構造や定数はティコおよびロンゴモンタヌスに基き、乾隆年間に入ると古さが目立ってきた。そこで改めてイエズス会士のケーグラーらに主催させて『暦象考成後編』十巻を編んだ。これに基づく暦も、やはり『時憲暦』という。ここでは太陽の軌道にケプラーの楕円軌道が用いられ、月の理論はホロックスやニュートンと同じく、楕円軌道と周転円をくみあわせたものであった。また、地平視察および大気差がティコの誤差の大きな値からカッシーニによる精密なものに変え、惑星の軌道要素も改定された。
受容
編集時憲暦は燕行使によって李氏朝鮮に持ち込まれた。また『崇禎暦書』『暦象考成』は江戸時代の日本に舶来し、暦学者に読まれた[16][20]。
暦の廃止とその後
編集中国では、1912年の中華民国建国および清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。中華民国は建国と同時にグレゴリオ暦(太陽暦)を採用し、さらに清朝が滅亡すると中国全土でも同暦が正式な暦となったため、時憲暦は現在まで公式な暦として中国最後の太陰太陽暦となっている。
その後さまざまな変転があったが、21世紀現在でも春節の日取りは旧暦(= 時憲暦)をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形となっている。
明末の改暦事業と『崇禎暦書』
編集明を通して正式な暦とされたのは、元の授時暦を若干改良した大統暦で、イスラム天文学に基づく回回暦も参考にされた。ところが、明の半ばにさしかかる前の15世紀において、すでに大統暦の月食の予報の誤差が指摘され、改暦の議論が起きた。その後も断続的に改暦が提起され、明末にいたると、いよいよ改暦の流れは強くなってきた[21]。そして、万暦三十八年 (1610) 十一月壬寅の日 (12月15 日)の欽天監の日食の予報は,またもや誤りがあった。邢雲路らはこの問題を中国暦の改良で対処しようとした。一方、イエズス会の宣教師らと交流のあった李子藻は、1613年、西洋の天文学書の翻訳を上奏し(「請訳西洋暦法等書疏」)、その中で西洋天文学の長所を列挙した[22]。
この時期のイエズス会の宣教師らは、しかし、改暦を担う準備はできていなかった。そこで、情報収集と人材確保のため、1612年、ニコラス・トリゴーらはヨーロッパへ向けて旅立つ[23]。彼らは、欧州各地を回り、ケプラーから情報提供の約束をとりつけている。そして、アダム・シャール(湯若望,1591-1666)、ジャコブス・ロー(羅雅谷, 1593-1638), シュレック(改名後はテレンツ、鄧玉函、1576-1630))ほか数名のイエズス会の科学者を含む新たなメンバーを確保し<橋本、1981、pp.76-77>、1620年、7000冊を超える書物とともに厦門に到着する[24]。
しかしながら、天啓年間 (1621-27)は そして、崇禎帝の治世になって天啓年間 (1621-27) の宗教弾圧が終わると、西洋の学問に通じ、かつ高い官位(左侍郎)を得ていた徐光啓の主導のもと、『崇禎暦書』編纂にむけたプロジェクトに向けた準備が始まる。ちょうどそのころ、1629年6月21日(崇禎二年六月初一日)に日食の発生が予想された。そこで、暦法の間で日食の予報の比較がおこなわれ、ティコ・ブラーエの観測を踏まえた西洋の暦法は、大統暦に対して、決定的とはいえぬまでも、優位を主張できる結果を残した。
『崇禎暦書』の編纂にあたっては、元の時代の授時暦の編纂の経緯を意識して、最新の機器による観測も計画され、理論の検証が並行して行われた。また、新たな人員の発掘と育成も急務とされた[25]。
この事業の統括のため、「協理」、「分理」という職が設けられ、七名の「暦局」、十名の「知暦」を選抜した[26]。完成までに携わった人員の数は、のべ60人前後に上る[27]。先に万暦年間に西洋天文学書の翻訳を奏上した李子藻も参画し、執筆で大きな貢献をしている。
また、「西洋天学遠臣」に宣教師のロンゴバルディとシュレックが任じられ、後にシュレックが1630年に死去したのちには、ローとアダム・シャールが後任になった。
暦局の正式の開設は崇禎二年九月二十二日であり、『崇禎暦書』は崇禎七年十一月二十四日(1634年)まで、五回に分けて進呈された。その分量は、全135巻 1 摺 1 架にのぼる。また、崇禎三年十月十六日の月食と崇禎三年末に出された翌年 (1631 年)四月十五日の皆既月食の予報で、新暦法の検証をしている。
この間、崇禎六年 (1633年) の第三次進呈で事業の完成のめどをつけた徐光啓は、事業の指導者を後継者の李天経に託し、1632年から礼部尚書兼東閣大学士つまり宰相として入閣することになるが,翌年1633年末、事業の完成を見る前に病死した。
関連項目
編集- 天保暦 - 日本における最後の太陰太陽暦による暦法。
外部リンク
編集参考文献
編集- 大桥由纪夫: 《历象考成》 中的太阳运动, 内蒙古师范大学学报(自然科学汉文版),2007, 36(6), pp.662-665.)
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- 橋本, 敬造. 梅文鼎の歷算學 - 康熙年間の天文歷算學 -. 東方學報 1970,41: 491-518
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脚注
編集- ^ Chu, 1999
- ^ 橋本、1971, Shi 2020, pp.80-81.
- ^ Sivin 1995 及び Shi 2020, p.79, l.
- ^ 橋本1981,また、Chou, L. 2017,pp.19-20.
- ^ Chu, L. 2017, p.21
- ^ 橋本1981, p.81
- ^ 褚,石, 2012, p.410
- ^ 潘,1993, p.643.なお、巻数などが減少しているのは、主に合巻したため。
- ^ 潘, 1993, p.650
- ^ Chu, L., 2017, p.20.
- ^ 『交食暦指』では、ティコ・ブラーエの与えた太陽と月の視直径の値は、緯度異なる中国においては不適切だとする。Chu, L. 2017, p.23。
- ^ Hashimono 1987, Wang & Sun2019, p.180、Chu, L., 2017, p.20. 橋本はロンゴモンタヌスの"Astronomia Danica"の影響を強調するが、Chu, L., 2017, p.26によると、月の理論(ティコの観測に基づき、ロンゴモンタヌスが作ったもの)の記述は、むしろティコの"Astronomiae Instauratae Progymnasmata”に依存するという。
- ^ 『崇禎暦書』の様々な写本やその系列の暦書の異同についての簡単な説明は、Chu, L. 2017, pp.21-22. 太陽の理論や計算に関する『日躔暦指』の異同については、褚,石2012、p. 411-413.
- ^ 褚,石, 2012, pp.414-415, 橋本1970、pp.503-504
- ^ 『崇禎暦書』『西洋新法暦書』の記述の首尾一貫しない部分や不十分な点についての全般的な説明は、橋本1970, pp.503-506, Chu,L. 2017, pp.26-28、それへの明清の暦算家の対応については、橋本1970の上記の個所、 Chu, L. 2017, pp.32-。太陽の理論に関係する問題については、Wang & Sun 2019, 褚,石, 2012にも詳しい。
- ^ a b 『暦象考成』 - コトバンク
- ^ 嘉数 2008。なお、橋本71などにティコ・ブラーエと同様とするのは誤り。
- ^ 『暦象考成』の太陽の理論に着目した最初の論文は 大橋2007。褚,石、2012、Wang, & Sun.2019に詳しい分析と発展の経緯が述べられている。
- ^ 橋本によると、ここで離心率などで新規の値が採用されたとしているが、褚,石 2012 p.218 注①で訂正されている。軌道要素の推定の方法、経緯については、Wang& Sun 2019,pp. 183-4 も参照。
- ^ 『崇禎暦書』 - コトバンク
- ^ Willard, 1986
- ^ 橋本、1981、p.70
- ^ 橋本、1981、p.71
- ^ 橋本、1981、p.74
- ^ 橋本、1981、p.77-78
- ^ 橋本、1981, p.78
- ^ 潘鼐, 1993,p.643