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崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省関釜航路鉄道連絡船。天山丸型の第2船である。

太平洋戦争で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。

崑崙丸
Konron Maru Scan10017.JPG
概歴
建造 1943年3月30日[1]
沈没 1943年10月5日[2]
要目
船種 客船
総トン数 7,909t[2]
全長 43.4m[2]
全幅 18.2m[2]
機関 蒸気タービン2基[2]
出力 16,900hp[2]
航続距離
速力 23.5kt[2]
乗客定員 2,048名(一等60名、二等342名、三等1,646名)[2]
貨物積載量
姉妹船 天山丸

目次

命名の由来編集

中国西部の崑崙山脈の名をとり命名。

航跡編集

就航編集

関釜連絡船には金剛丸型(金剛丸興安丸)が1936年昭和11年)- 1937年(昭和12年)に就航していたが、日本軍満蒙開拓団などを乗せて大混雑に見舞われていた。そこで、新たに金剛丸型とほぼ同一の天山丸型4隻の建造が決定される。日中戦争支那事変)および太平洋戦争大東亜戦争)の影響で軍艦建造が優先される中、第1船天山丸が三菱長崎造船所1940年(昭和15年)11月に起工して1942年(昭和17年)9月竣工[1]。第2船の崑崙丸は天山丸と同じく三菱長崎造船所で第891番船として1942年6月20日に起工し半年後の12月24日に進水、1943年(昭和18年)3月30日に竣工した[1]。第3・4船の建造は中止された。金剛丸型とほぼ同じ姿であるが、船体は一回り大きかったという。しかし、戦時色が濃くなってきたこともあり、船体は連絡船標準色には塗られず、灰色一色の戦時警戒色であった。

沈没編集

しかし1943年(昭和18年)10月5日午前2時頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里付近でアメリカ海軍の潜水艦ワフーの魚雷を左舷手荷物室付近に直撃を受け、数分後に沈没してしまった。深夜で就寝した人が多いことも重なり、乗員(旅客乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。崑崙丸の沈没は鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。関釜航路では同年10月8日以降、夜間航行が自粛されることになった。また、日中の航行も海軍護衛がつくことが多くなったという。一方のワフーも崑崙丸撃沈から一週間を経ない10月11日に宗谷海峡で撃沈された。

その他編集

脚注編集

参考文献編集

  • McDaniel, J. T. (2005). U.S.S. Wahoo (SS-238) American Submarine War Patrol Reports. Riverdale, Georgia: Riverdale Books Naval History Series. ISBN 1-932606-07-6. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030357200『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 (舞鶴鎮守府)戦時日誌』。
    • Ref.C08030506500『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 大湊警備府戦時日誌』。
    • Ref.C08030465700『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二三九号』、pp. 9-10。
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。
  • 『関釜連絡船史』日本国有鉄道広島鉄道管理局(編)、日本国有鉄道広島鉄道管理局、1979年。
  • 『朝日新聞縮刷版(復刻版)昭和18年9月~10月』高野義夫(編)、日本図書センター、1987年。ISBN 978-4-820-52088-7
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2
  • 秋山信雄「米潜水艦の戦歴 草創期から第2次大戦まで」『世界の艦船』第446号、海人社、1992年2月、 76-83頁。
  • 古川達男『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、2001年。

関連項目編集