川井 藤左衛門(かわい とうざえもん)は、江戸時代中期の安房北条藩家老。藩財政再建のために手腕を奮ったが、苛烈な増徴を強行したことから農民一揆である万石騒動を招き、幕府の裁定により死罪に処された。

 
川井 藤左衛門
時代 江戸時代中期
生誕 不明
死没 正徳2年(1712年
主君 屋代忠位
氏族 川井氏
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生涯 編集

最初は紀伊代官を務めていた。宝永5年(1708年)に北条藩主・屋代忠位の家臣となる。忠位から藩財政の再建のために全権を与えられ、上席家老兼相談役兼御用人に任命された。知行は150石であった[1]

川井は宝永6年(1709年)に北条陣屋に派遣された[1]。川井は、元禄16年(1703年)の地震によって隆起した北条海岸に新田を開発(川井新田と呼ばれる)[2][3]、灌漑用水路(滝川用水、川井堀)を開削して増産を図った[2][注釈 1]。また鶴ヶ谷の保護林を伐採・売却したほか[3][2][5]、酒屋・糀屋の運上金の取立てを行った[3][6][7]。しかし、農繁期の労役や[3][5]、苛酷な増徴策の強行は[5][6]、1万石の北条藩領27か村の領民にとって負担の大きいものであった。

万石騒動 編集

正徳元年(1711年)9月、川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものであった[3]。これに対して、農民600名が10月9日から10日間に渡って藩の陣屋に押し寄せて減免を求めた(門訴[1][2]。江戸屋敷に戻った川井の意を受けた部下は取り合わず[1][3]、また川井は江戸屋敷に名主を呼び出して圧力を加え、首謀者を探った[1]。600名の農民は江戸に出、11月2日に江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこなった[2][3][1]。川井はいったんは農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨付を与えて農民たちを国許に帰した[1][注釈 2]。川井は農民たちを追う形で北条陣屋に赴き[1]、11月13日に名主を陣屋に呼び出して墨付の奪還を図り、6名を投獄[1]。11月26日に捕らえた6名のうち3名を処刑するという弾圧に出た(あわせて農民に協力した地代官行貝弥五兵衛父子を処刑した)[2]

名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決議、代表者が江戸に上り、11月20日に老中秋元喬知に駕籠訴(直訴越訴)を行った[2]が却下された[1]。12月4日には老中阿部正喬への駕籠訴が決行された[2]結果、幕府は訴えを取り上げて審理が行われることになった[2]。12月25日、評定所は農民の訴えをほぼ認め、川井は投獄された[1]

正徳2年(1712年)7月22日に幕府の裁断が下され、北条藩屋代家改易となり、川井は息子の定八と共に死罪に処された[2][1]

参考文献 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 川井の施策は一般に「暴政」と評されるが、灌漑用水路のように人々の役に立ったと言われるものもある[4]
  2. ^ 当時江戸には朝鮮通信使が滞在中で幕府の威信をかけた迎接行事の最中であり、騒動は屋代家の体面を損なうものであった[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 地域研究「近世安房にみる朝鮮」-「朝鮮通信使」と万石騒動”. 特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム. 2016年2月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 万石騒動と三義民”. たてやまフィールドミュージアム. 館山市立博物館. 2016年2月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 江戸時代・里見氏以後の安房地方(農民騒動) ”. 南房総データベース. NPO南房総IT推進協議会. 2016年2月26日閲覧。
  4. ^ 館野の滝川用水”. 南房総データベース. NPO南房総IT推進協議会. 2016年2月26日閲覧。
  5. ^ a b c 深谷克己. “万石騒動”. 日本大百科全書ニッポニカ(コトバンク所収). 2016年2月26日閲覧。
  6. ^ a b 万石騒動”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2016年2月26日閲覧。
  7. ^ 万石騒動”. 百科事典マイペディアコトバンク所収). 2016年2月26日閲覧。

外部リンク 編集