川勝広綱
川勝 広綱(かわかつ ひろつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。秀氏流川勝家(本家)の2代当主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正7年(1579年) |
死没 | 寛文元年9月12日(1661年11月3日) |
別名 | 七九郎、新蔵(通称) |
戒名 | 源正(法名) |
墓所 | 東京都港区芝の青龍寺 |
官位 | 従五位下、信濃守のち丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 |
豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 →家光→家綱 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝秀氏、母:綾小路中納言の娘 |
兄弟 | 広綱、女子(西洞院時直室) |
妻 | 正室:藤掛永勝の娘 |
子 |
広尚、広氏、広憲、 養女(西洞院時直の娘、藤堂嘉正室)、 女子(佐久間信俊室) |
生涯
編集天正7年(1579年)、川勝秀氏の嫡男として丹波に生まれた。豊臣秀吉の馬廻で、丹波国多紀郡内に200石、ついで近江国甲賀郡内に340石余を加増され、従五位下、信濃守に叙任された。後に近江国甲賀郡内の領地を、丹波国船井郡内に移された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父秀氏とともに西軍に与して細川幽斎が拠る丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。しかし、秀氏父子は徳川家康に赦され、改易を免れた(広綱は丹波国多紀郡・船井郡内から丹波国船井郡内に転封)。慶長6年(1601年)、室町時代以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出されて、父秀氏は旗本家を興した。
慶長11年(1606年)駿府城普請の命を受け、同年6月20日、勤めの褒賞として御書を給わった。慶長12年(1607年)7月、父秀氏の死去により、その家督(丹波内3,570石余[1])を継いだ。元和3年(1617年)京都知恩院普請の奉行を務めた。寛永8年(1631年)使番となり、寛永10年(1633年)正月13日、命を受けて五畿内を巡見した[2]。寛永11年(1634年)、将軍徳川家光の上洛に供奉し、寛永14年(1637年)9月12日、目付として豊後国府内に赴いた。後にまた命を受け、たびたび府内に出かけた[3]。寛永16年(1639年)10月15日、大和国高取に赴き、目付の仕事を務めた。寛永17年(1640年)高取城を植村家政に与えるため[4]、現地で城引渡しの役を務めた。寛永19年(1642年)4月、将軍家光の日光社参に供奉した。寛永20年(1643年)11月朔日、池田光仲の領地である因幡国鳥取に出かけ、政務の監視をした。正保2年(1645年)松平忠昌が死去したため、同年8月16日に命を受けて越前国福井に出かけた。慶安2年(1649年)永井直清に摂津国高槻城を与えるため[5]、同年8月2日、命を受けて城引渡しの役を務めた。慶安3年(1650年)閏10月17日、細川六丸(後の綱利)が幼いため、その領地肥後国熊本に出かけ、政務を監視した[6]。後に職を辞し、寄合に列した。
寛文元年(1661年)9月12日、83歳で死去した。家督は広尚の嫡男の川勝広有が継いだ[7]。また、二男の広氏は新たに旗本家を興した。
脚注
編集- ^ 家督を継ぐ際、叔父川勝重氏に丹波国氷上郡内の500石を分知した。
- ^ 寛永10年(1633年)1月6日、将軍家光は『慶長日本図』の校訂を理由として、国廻り派遣を行うこととした。
- ^ 寛永15年(1638年)から豊後府内藩主日根野吉明は、島原の乱鎮圧のため幕府軍に従軍している。
- ^ 寛永17年(1640年)10月19日、旗本であった植村家政は大和高取藩2万5,000石の初代藩主となった。
- ^ 慶安2年(1649年)7月4日、永井直清は山城長岡藩から1万6,000石加増されて、摂津高槻藩に移封となった。
- ^ 慶安3年(1650年)4月18日、六丸こと細川綱利の相続は許されたが、幕府目付と小倉藩主小笠原忠真がその政務を監視した。
- ^ 嫡男の広尚が31歳で早世したため、広尚の嫡男の広有が祖父広綱の家督を継いだ(嫡孫相続)。
参考文献
編集- 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
- 阿部猛 編『戦国人名事典コンパクト版』西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年
関連項目
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