川勝 隆尚(かわかつ たかなお)は、江戸時代前期から中期の旗本。元館林藩臣。隆尚流川勝家の初代当主。

 
川勝隆尚
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 寛永15年(1638年
死没 享保15年5月17日1730年7月1日
改名 壽樂(隠居後の号)
別名 権之助(通称)
戒名 慈徹(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
官位 従五位下能登
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱吉家宣家継
氏族 本姓:秦氏秦河勝後裔
名字:川勝氏
父母 父:川勝重氏、母:村上信清の二女
兄弟 川勝長氏川勝広恒川勝隆房
川勝隆尚、女子(牛込重忝室)、
女子(美濃部茂命室)、
女子(福嶋左衛門大夫家臣森種貫室)
正室:三嶋政吉の娘
川勝隆盛[1]、養子に川勝隆明川勝隆房の二男)、養女(青山祕成室)
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生涯編集

寛永15年(1638年)、川勝重氏の四男として生まれた。正保3年(1646年)6月5日、召されて徳川綱吉館林藩主)に仕え、小姓となった。慶安元年(1648年)12月11日、月俸を20口給わり、後に神田の館において書院番組頭となり、蔵米300俵を給わった。後にまた小姓組番頭に進み、200俵加えられ、先の月俸は返上した。延宝8年(1680年)の綱吉将軍就任に伴い幕臣となり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「」。

延宝8年(1680年)、徳川徳松殿[2](将軍綱吉の長男)が西城に移るときに従い、天和3年(1683年)閏5月21日に御傅となったが、徳松殿逝去の後退職を許され、小普請となった。貞享元年(1684年)10月10日、小姓組に列し、貞享2年(1685年)10月3日に新番頭に進み、奥の勤も兼ねた。同年12月23日、300俵を加えられ、同年12月28日に布衣を着る事を許された。元禄9年(1696年)4月11日、先手弓頭に転じ[3]、元禄10年(1697年)7月26日に蔵米を領地に改め、上野国多胡郡緑野郡新田郡佐位郡群馬郡内において800石を給わった。元禄14年(1701年)正月11日、持弓頭にうつり、宝永元年(1704年)8月11日に小姓組番頭に進んだ[4]。同年12月11日、従五位下能登守に叙任し、同年12月12日に上野国群馬郡、多胡郡内において1,000石の加増があった。宝永5年(1708年)12月9日、1,000石の加増があり、先に給わった800石の土地を改め、相模国愛甲郡大住郡高座郡内において1,800石給わり、全てで上野相模内2,800石を知行した。正徳5年(1715年)9月11日、職を辞して、同年12月11日に隠居し、隠居料として蔵米300俵を給わった。家督は養子の隆明に譲った。享保15年(1730年)5月17日、93歳で没した。

脚注編集

  1. ^ 後に嫡男の隆盛が病のため嫡を辞し、隆盛の嫡男の川勝隆忠が隆尚流川勝家の4代当主となった。
  2. ^ 延宝8年(1680年)2歳で館林藩主を継いだが、天和3年(1683年)閏5月28日に5歳で夭折した。
  3. ^ 江戸の治安維持、江戸城の城門の警備、将軍外出時の警護などにあたった。若年寄支配。
  4. ^ 小姓組番頭は、与頭1人と番士50人を従え、城内の将軍警護にあたった。本城に6番あった。若年寄支配。

参考文献編集

  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
  • 石井良助監修、小川恭一編著『江戸幕府旗本人名事典(第1巻)』原書房、1989年

関連項目編集

先代:
重氏
川勝知氏系隆尚流
初代:1646年 - 1715年
次代:
隆明