市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日1872年11月25日) - 大正11年(1922年))は戦前日本経済学者ベルリン大学で9年間哲学・経済学を学ぶ傍ら、ベルリン東洋語学校ドイツ語版等で日本語を教え、帰国後は東亜経済調査局に勤務した。『方丈記ドイツ語訳で知られる。

市川 代治
後列左端が市川[1]、前列左端からルドルフ・ランゲヘルマン・プラウト[2]、残り4人は学生(『Ost=Asien』1907年8月号)[1]
人物情報
別名 Daiji Itchikawa
生誕 明治5年10月25日1872年11月25日
山形県村山郡蔵増村天童市蔵増)
死没 大正11年(1922年
鎌倉市
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
出身校 東京帝国大学ベルリン大学
配偶者 市川俊子
両親 市川和吉、さき
学問
活動地域 ベルリン東京
研究分野 経済学
研究機関 南満州鉄道東亜経済調査局
学位 文学士[3][4]
主要な作品 Eine Kleine Hütte(『方丈記』)
主な受賞歴 赤鷲勲章ドイツ語版
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経歴 編集

日本での学歴 編集

明治5年(1872年)10月25日山形県村山郡蔵増村に生まれた[5]。後の住所は蔵増村蔵増甲1101番地[6]蔵増尋常小学校、天童高等小学校、山形県立山形中学校を経て、仙台第二高等学校に入学した[5]。1896年(明治29年)卒業後、上京して帝国大学文科に入学し、社会学を専攻し[5] [7]、1899年(明治32年)7月東京帝国大学文学部哲学科を卒業した[2]

ドイツ留学 編集

1899年9月27日横浜港を出港し[2]フランスで半年間フランス語を学んだ[3]。1900年4月パリ万国博覧会を見学後[2]ドイツに渡り、同年夏学期からベルリン大学で哲学、1904年夏学期から国民経済学を専攻した[8]。同年日露戦争が勃発した際には8月20日[2]ハノーファーで「日露戦争観」について演説した[9]

1905年同大学付属ベルリン東洋語学校ドイツ語版講師となり、辻高衡と共に日本語を教えたほか[2]プロイセン陸軍大学、国民大学、ベルリッツ国際語学校等でも教えた[3]。日露戦争後黄禍論が高まると、1907年2月22日[2]カトヴィッツで「黄禍有無」の演説を行ったほか、亜細亜協会の要請で陸軍大学講堂で「日本の婚姻」、和独会ドイツ語版の要請で「日米問題」について講演した[10]

日本人との交流では、1903年5月井上円了の旅宿を手配し、大谷瑩亮中村久四郎とも行動を共にし[11]、1905年2月26日玉井喜作のベルリン到着12周年を堀光亀松岡均平乙竹岩造服部教一中村健一郎等と祝っているほか[12]、1907年4月藤井健治郎と共にベルリン某駅に新村出を出迎えている[13]。また、在独日本人・中国人を中心に亜細亜倶楽部を設立し、親睦を図ったが、帰国後に自然消滅した[10]

帰国 編集

1908年夏学期でベルリン大学を離れ[8]、東洋語学校の後任を東大同期菅野養助に任せ[2]、秋にシベリア経由で帰国し[14]、同年南満州鉄道東亜経済調査局主任[15] [7]また日独協会理事[9]、村山同郷会終身評議員、『大日本』誌編集顧問を務めた[16]。1918年(大正7年)第一次世界大戦終結後は日独戦ドイツ兵捕虜の就職支援に尽力した[16]

1920年(大正9年)度に東亜経済調査局を退職した[15]。1921年(大正10年)神奈川県鎌倉町へ転居[17]。1922年(大正11年)死亡したため、日本図書館協会を退会になった[18]

著書 編集

  • 1902年 Eine kleine Hütte, Hōjōki : Lebensanschauung von Kamo no Chōmei[2] - 鴨長明方丈記』独訳[2]
  • 1901年 Tamayori Hime (Fräulein Edelstein) aus dem altjapanischen "Sumiyoshi Monogatari" - 『住吉物語』独訳。Anna Vogelと共訳[2]
  • 1907年 Die Kultur Japans[19](『日本の文化』[20]) - 1914年オスマン帝国でMübahât BeyによりJaponya Tarih-i Siyasisi(『日本政治史』)としてトルコ語訳された[21]

在独中『Ost=Asien』誌に「日本と対ロシア戦争」「黄禍」「日本における鉄砲の伝来」「日本における最初のアメリカ軍艦」「国際政治学者の目から見た東アジア」等[8][22]、帰国後『大日本』誌に「独土経済関係」「英独経済戦争」「波斯と英露関係」、「独逸の対日本観」「独逸の日露協約観」「独逸の中欧縦断策」等を寄稿している[2]

栄典 編集

家族 編集

  • 父:市川和吉[5]
  • 母:さき[2]
  • 兄:市川孫四[24] - 蔵増村会一級議員[25]
  • 妻:俊子(とみ子[24]) – 市川孫四長女[20]

脚注 編集

  1. ^ a b 泉 2004a, p. 53.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Kutsuna 2018.
  3. ^ a b c 古山 1919, p. 224.
  4. ^ 交詢社 1922, p. 32.
  5. ^ a b c d 古山 1919, p. 223.
  6. ^ 宮内 1897, p. 84.
  7. ^ a b 毎日通信社 1913, p. イ21.
  8. ^ a b c 泉 2004a, p. 52.
  9. ^ a b 古山 1919, p. 225.
  10. ^ a b 古山 1919, p. 226.
  11. ^ 『西航日録』:新字新仮名 - 青空文庫
  12. ^ 泉 1004, pp. 52–23.
  13. ^ 新村 1931.
  14. ^ 古山 1919, pp. 224–225.
  15. ^ a b 東亜経済調査局 1921, p. 6.
  16. ^ a b 古山 1919, p. 227.
  17. ^ 日本図書館協会 1921.
  18. ^ 日本図書館協会 1922.
  19. ^ Die kultur Japans - インターネット・アーカイブ
  20. ^ a b 古山 1919, p. 228.
  21. ^ Dündar 2012, p. 62.
  22. ^ 泉 2004b, pp. 133–155.
  23. ^ 大正三年三月 南満洲鉄道會社々員市川代沿叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.B18010032800 
  24. ^ a b 中央通信社, p. イ134.
  25. ^ 船山耕作『山形県の自治』千年社、1913年9月。NDLJP:912087/26 

参考文献 編集

  • 宮内新蔵『山形東村山西村山南村山一市三郡区民必携』常陽館、1897年6月。NDLJP:780325/198 
  • 中央通信社『現代人名辞典』中央通信社、1911年6月。NDLJP:779591/148 
  • 毎日通信社『東京社会辞彙』毎日通信社、1913年12月。NDLJP:3459889/69 
  • 古山省吾『両羽之現代人』両羽研究社、1919年。NDLJP:962037/126 
  • 東亜経済調査局『東亜経済調査局概況 沿革及自大正九年四月至同十年三月第十八回事務報告書』東亜経済調査局、1921年。NDLJP:959805/8 
  • 日本図書館協会『図書館雑誌』日本図書館協会、1921年3月10日。 
  • 日本図書館協会『図書館雑誌』日本図書館協会、1922年2月21日。 
  • 交詢社『日本紳士録』(第27版)交詢社、1922年12月。NDLJP:1703976/21 
  • 新村出「藤井健治郎博士を憶ふ」『芸文』第22巻第2号、京都文学会、1931年2月。 
  • 泉健「『Ost=Asien』研究(3)人名注解;日本人編」『和歌山大学教育学部紀要 人文科学』第54巻、和歌山大学教育学部、2004年2月、43-79頁、doi:10.19002/AN00257999.54.43ISSN 1342582XNAID 110004684210 
  • 泉健「『Ost=Asien』研究(4)全目次;独語版」『和歌山大学教育学部紀要 人文科学』第54巻、和歌山大学教育学部、2004年2月、81-179頁、doi:10.19002/AN00257999.54.81ISSN 1342582XNAID 110004684211 
  • Dündar, Ali Marthan (2012). “Japan in the Turkish Press: An Essay on Books Written about Japan in Ottoman Script during the 19th and 20th Centuries”. Asian Research Trends New Series (The Toyo Bunko) 7: 55-73. http://id.nii.ac.jp/1629/00003734/. 
  • Kutsuna, Masanori (2018年4月1日). “方丈記をドイツ語に訳した Dr. Daiji Itchikawa”. 2018年9月23日閲覧。