コミックトム

日本の漫画雑誌
希望の友から転送)

コミックトム』は、潮出版社が発行していた月刊漫画雑誌1964年3月(4月号)「希望の友」として創刊[1]1978年に「少年ワールド」、1980年に「コミックトム」、1998年に「コミックトムプラス」と改題を続けたが、2001年に休刊。

2012年8月、WEBコミックトムの名でウェブコミック配信サイトとして再開。かつての連載作品の再刊と並行しつつ、新作の掲載も行っている。

概要 編集

創価学会第3代会長である池田大作は、1949年から2年ほど、日本正学館で少年誌『冒険少年』『少年日本』の編集長を務め、小松崎茂山岡荘八の担当編集者だった[2]。そのため、創価学会グループの出版活動拡大に伴い、学会員子弟(少年部員)向けの少年誌創刊が企画された。

もっとも、発行元の潮出版社は創価学会系列であるが、「希望の友」時代の連載作品である芝城太郎四条金吾』(日蓮の弟子となった鎌倉幕府御家人が主人公)や、北野英明『牧口先生』(創価教育学会の創立者・牧口常三郎の伝記漫画)など、少数の例外を除いて、創価学会の布教的な意図を持った漫画作品はほとんどない。創価学会員の執筆者も、聖教新聞社との掛け持ちだったみなもと太郎芝しってる堀田あきおなど、ごく少数に留まっている。ただし、「希望の友」時代は、付録に「正本堂ジャンボポスター」(1973年1月号)が付いたり、五島勉による創価学会礼賛本『生命の若者たち』を一峰大二がコミカライズした読切漫画『どろ沼の凱歌』が掲載されたり、創価学会員にとっての聖書である『人間革命』の特集記事が組まれるなど、学会員子弟向けの企画記事も少なからずあった。

連載作品の漫画単行本は、おおむね同出版社による希望コミックスおよび関連レーベル(潮漫画文庫、KIBO COMICS カジュアルワイド SPECIAL、など)から出版され、いくつかのタイトルは休刊後も販売が続いている。

「希望の友」時代は、当時、衰退しつつあった月刊少年誌の形式で編集されており、読み物記事をメインに据えていたが、時折、漫画メインの増刊号を刊行していた。初期はナポレオンなど、池田が好む歴史的偉人の伝記作品が多かったが、70年代に入ると「小中学生のマンガ&芸能誌」と銘打って芸能人を扱う記事も増えた。「希望の友」末期は、横山光輝三国志』、手塚治虫ブッダ[3]北野英明『牧口先生』、藤子不二雄ポコニャン』(藤本単独作)の4大連載を軸に、企画記事や読み物、数本の読み切り漫画で構成する誌面編成だった。小説枠では眉村卓の『時空の旅人』(連載時のタイトルは『とらえられたスクールバス』)が連載されている。この時期の編集長は栗生一郎が務め、竹尾修、大浦静雄らが編集部に在籍していた[4]

1978年の「少年ワールド」への改題でようやく漫画誌化されたが、横山、手塚作品以外の書店販路が乏しく、ほとんど創価学会の会館でしか買えない雑誌だったこともあり、営業的には苦戦を強いられる。みなもと太郎の代表作『風雲児たち』や、藤子不二雄T・Pぼん』はこの「少年ワールド」時代から連載開始された。

1980年、「コミックトム」に改題されてからは青年漫画誌色を強め、星野之宣諸星大二郎坂口尚安彦良和山岸凉子坂田靖子倉多江美らのSF・伝奇・歴史漫画をはじめとしたマニアックな作品群を擁していたことから、競合誌だった双葉社アクション・ヒーロー」が休刊した1980年代後半からは数少ない長編漫画専門誌となっていた。特に長期連載の歴史漫画が多いことが特徴で、10年以上に渡る長期連載も多かったが、『三国志』の官渡の戦い前後、『風雲児たち』の19世紀前半など、編集部側の都合で端折られた箇所も存在する。

また、『T・Pぼん』『石の花』『虹色のトロツキー』など、80年代以降のマニアックな歴史漫画では、本誌記事や単行本解説・インタビューなどで浮田信行という担当編集者の存在が言及されている。浮田は後に編集長となり、休刊後も2017年まで潮出版社に在籍していた。

執筆陣 編集

創価学会グループの財力に余裕があったことから、創刊直後から積極的に大物作家へ原稿依頼していた。

1967年から「希望ライフ」「希望の友」で『水滸伝』を連載していた横山光輝は、1971年から引き続き『三国志』を15年の長期にわたり連載。1975年に発行された横山光輝『三国志』単行本巻末の「希望の友」の広告には「予約注文制」「お手数でも書店に定期購読のお申し込みを」という漫画雑誌としては異例の文字が見られた。『三国志』完結後も『項羽と劉邦』『殷周伝説』を連載したが、『殷周伝説』完結と横山の体調悪化が「コミックトムプラス」休刊の理由となった。

手塚治虫も「希望の友」時代から『ブッダ』『ルードウィヒ・B』を連載。『ルードウィヒ・B』は手塚の絶筆作品のひとつである。また、「希望の友」時代は手塚の弟子筋である北野英明が連載していたが、「少年ワールド」以降も坂口尚石坂啓堀田あきおなどが執筆陣に加わっている。小室孝太郎が最後に少年漫画を描いたのも「少年ワールド」だった。手塚は大阪時代に池田が編集していた『冒険少年』を、『漫画少年』(学童社)と共に、「上京したら描きたい雑誌」として挙げていた[5]

藤子不二雄の藤本弘は、『ポコニャン』を「希望の友」に、『T・Pぼん』を「少年ワールド」「コミックトム」に連載したが、『T・Pぼん』は藤本の死去により未完となった。また、藤子不二雄の安孫子素雄は藤本より早く、「希望の友」(1972年夏休み増刊号)に読み切り『鳥人くーん』を執筆し、「コミックトム」では『パーマンの指定席』という映画エッセイを長期連載していた。

石ノ森章太郎は、一般的な少年漫画誌ではあまり好まれない時代劇作品の『太陽伝』『宮本武蔵』『変身忍者 嵐』を「希望の友」時代に掲載していた。「希望の友」時代には、水木しげる矢口高雄ジョージ秋山永井豪上村一夫宮谷一彦あすなひろし矢代まさこなどもゲストで読み切り漫画を掲載している。

歴史漫画を好む傾向は「希望の友」時代から強く、影丸穣也などがよく読み切りを描いていた。内山まもるタツノコプロに在籍中、編集部から誘われ、32ページの読み切り漫画『チェ・ゲバラ』でデビューしている。「コミックトム」になってからは、著名作家を集めて『宮沢賢治漫画館』という企画シリーズも行われている。

「コミックトム」改題後は異色の長編漫画専門誌として、漫画家たちの間で評判となっていたが、編集部員の多くが漫画のプロパーではなかったことから、牧歌的な逸話がいくつか語られている。

たとえば、安彦良和は特に面識もなかったのに何故か毎月献本されており、アニメーター時代の先輩だった坂口尚が連載していた歴史漫画『石の花』を羨ましく思っていたことから、持ち込みに近い形で『虹色のトロツキー』の連載を開始した。また、「プチフラワー」で『辺境警備』を連載していた紫堂恭子は、編集部宛に送られてきたファンレターに「コミックトム」の編集者からの原稿依頼が混じっており、返信したことから、姉妹作『グラン・ローヴァ物語』の連載が始まっている。

一方、漫画のプロパーではなかったが、総合誌『潮』の編集経験者が在籍し、創価学会や創価大学の学術的なコネクションも使うことができたため、歴史漫画に必要な関係者への取材や学術資料の手配など、普通の漫画誌では不得手な作業には長けていた。

主な連載漫画 編集

『希望の友』『少年ワールド』時代の連載漫画 編集

『WEBコミックトム』連載漫画 編集

脚注 編集

  1. ^ マンガ雑誌(昭和39年)▷「希望の友」(創刊号、潮出版) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives”. jaa2100.org. 2023年11月20日閲覧。
  2. ^ 特別展示「若き池田先生が編集長を務めた雑誌『冒険少年』『少年日本』」/創価学会総本部”. 創価学会総本部/Soka Gakkai Headquarters Complex. 2021年9月3日閲覧。
  3. ^ ブッダ|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL”. TEZUKA OSAMU OFFICIAL(JP). 2023年11月20日閲覧。
  4. ^ 虫ん坊 2011年1月号(106):TezukaOsamu.net(JP)”. TezukaOsamu.net(JP). 2023年11月20日閲覧。
  5. ^ 潮5月号、好評発売中! | 潮出版社”. www.usio.co.jp. 2022年4月18日閲覧。

外部リンク 編集