常楽我浄(じょうらくがじょう、: nitya-sukha-ātma-śubha[1])とは、仏教とりわけ大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を表した語である。大乗仏教においては四徳、または四波羅蜜といわれる[1]。主に『大般涅槃経』に説かれるが、『勝鬘経』など多くの大乗経典にも登場する語である。

初期仏教編集

仏教において否定されるべき4種の見解をさしていた[1]

釈迦が出家した時、衆生の多くは人間世界のこの世が、

  • 無常であるのに常と見て、
  • (dukkha)に満ちているのに(sukha)と考え、
  • 人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
  • 不浄なものを浄らかだ

と見なしていた[2]。これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という[1]

Anicce niccasaññino dukkhe ca sukhasaññino, Anattani ca attāti asubhe subhasaññino.
Micchādiṭṭhigatā sattā khittacittā visaññino, Te yogayuttā mārassa ayogakkhemino janā.

無常なものに常をいだき、苦であるものに楽をいだき、無我なものに我をいだき、不浄なものに浄をいだく。
衆生らは、邪見によって心乱され狂わせられる、マーラにとらわられた安楽なき人々である。

釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常一切皆苦諸法無我などという仏教用語の基となっている。

大乗仏教編集

大乗仏教においては、『大般涅槃経』や『勝鬘経』では、如来常住であり、涅槃は最高の楽であることを強調し、四不顛倒(しふてんどう。無常無我不浄)をさらに超える存在として、を究極のものと見なした[1]。これを四波羅蜜あるいは四徳と称する[1]。 『涅槃経』では、如来は入滅してもこの世に常住し、涅槃こそ真の楽であり、人間我を超えた所に如来我(仏性)があり、浄らかであると説いた、とされている。

  • 常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
  • 楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
  • 我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
  • 浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である

これが常楽我浄である。

日蓮の解釈編集

日蓮は、『法華経』寿量品にある経文、「常住此説法」を「常」、「我此土安穏」を「楽」、「自我得仏来」を「我」、また薬王品の「如清涼地」を「浄」とする。また日蓮は、

上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人に此の四義を具す。二死の表に出づるを上行と名づけ、断常の際を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆる故に浄行と名づけ、道樹にして円(まど)らかなり故に安立行と曰うなり。

— 『御義口伝』

と、この涅槃の四徳を『法華経』に出てくる地涌の四菩薩に配当している。

脚注編集

参考文献編集

  • 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8

関連項目編集