幕政改革

幕政改革(ばくせいかいかく)は、江戸時代幕府が実施した、財政および政治制度その他の諸改革を指す。俗に、享保の改革寛政の改革天保の改革をもって「江戸幕府の三大改革」と呼ばれるが、これ以外にも、大規模な財政・制度改革は幾度にも亘って行われている。

目次

幕藩体制の成立期編集

初代将軍徳川家康、2代秀忠、3代家光の時代は、江戸幕府体制の確立期にあたり、この期間における諸改革は「改革」というよりもむしろ「体制固め」というべきであるため、幕政改革には含まれない。家康・秀忠の2代において(大御所時代も含む)、江戸時代幕藩体制の基本的骨格が創作されていく。大名統制(武家諸法度参勤交代改易)、農民統制(宗門改め)、宗教政策(切支丹禁令、寺院諸法度)、朝廷政策(禁中並公家諸法度)、海禁政策(いわゆる一連の鎖国令)、譜代大名による幕政の独占など、基本的な幕府の政治制度が整えられていき、一応の完成を見たのは3代徳川家光の時代である。続く4代家綱の時代は、松平信綱酒井忠勝ら有能な老中らに恵まれ、安定した幕府政治が行われた。

綱吉の政治と正徳の治編集

しかし、安定した幕府政治も完璧という訳ではなく、様々な矛盾は当初から内包され、次第に問題化していくことになる。とりわけ幕府財政の危機は、諸国の幕府直轄金山・銀山の枯渇傾向、長崎における海外交易赤字による金銀の流出、明暦の大火・大地震・富士山の噴火などの災害復興事業による出費などから、いち早く訪れた[1]。5代将軍となった徳川綱吉は、儒教による理念的な政治思想を掲げつつも、財政改革の必要に迫られ、勘定奉行荻原重秀を抜擢して解決を図った。荻原は元禄小判による貨幣改鋳(金含有率を減らして貨幣流通量を増やす)によって財政問題を一時的に解決するが、結果として元禄期のインフレ状況を生じることとなり、物価の高騰を招いた。ただし現在ではこのインフレ政策(金融政策)と、綱吉と桂昌院による寺社改築など公共投資財政政策)により、金回りが良くなって好景気となり、元禄文化が華開いたと、肯定的に見直す向きもある。また、財政以外の改革では生類憐れみの令が知られる。

6代将軍となった徳川家宣甲府徳川家から徳川宗家を継ぎ将軍職となると、甲府藩家臣であった側用人間部詮房や学者の新井白石を起用し、改革を行った。間部・新井が主導した改革を年号をとって「正徳の治」という。綱吉時代の政策は否定され、生類憐れみの令は撤回、勘定吟味役の創設、正徳金銀発行(デフレ政策)による綱吉時代の財政矛盾の解決などを行ったが、将軍家宣・7代家継があいついで早世したため、改革は中途半端に終わった。

享保の改革編集

8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまでの幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を主導することとなった。将軍吉宗自ら主導した改革を「享保の改革」と呼ぶ(1716年 - 1745年)。吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。商品流通・貨幣経済の発展に伴い、諸物価の基準であった米価は江戸時代を通じて下落を続け、「米価安の諸色高」と言われた状況にあり、米収入を俸禄の基本とする旗本・下級武士の困窮に直接つながっていたためである。そのため吉宗は、倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所の公認など、米に関する改革を多く行ったため、「米将軍」の異名を取った。米価対策の他にも目安箱の設置、足高の制による人材抜擢制度の整備や、江戸の都市政策(町火消の創設、小石川養生所の設置)、西洋知識禁制の緩和(漢訳洋書禁輸の緩和、甘藷栽培など)、商人対策(相対済令株仲間の公認など)などの諸改革が行われた。幕府財政は一部で健全化し、1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、税率変更や倹約の徹底により百姓・町民からの不満を招き百姓一揆打ちこわしなどが頻発した。もはや米作収入に依存する財政は矛盾を解消できない段階に到達しつつあった。

田沼時代編集

吉宗が行った享保の改革によって、幕府の財政赤字は解決をみたが、続く9代家重の時代に一揆の頻発などの問題が持れる。結果、現場の代官の判断による負担軽減策が図られ、再び幕府財政は悪化する。家重時代の末期から続く10代家治時代にかけて幕政を主導し財政を立て直したのが、側用人から老中となった田沼意次である(なお、これ以後の幕政改革は、ほぼ老中が主導することになる)。田沼が政治改革を主導した時期を「田沼時代」と呼ぶ(1760年代 - 1786年頃)。田沼は、それまでの農業依存の幕府経済を改め、重商主義的な改革を行うことによって財政の立て直しを図る。株仲間の奨励策による運上金・冥加金の徴収、町人資本による印旛沼手賀沼の干拓事業に代表される新田開発、長崎貿易の推奨(特に俵物など輸出商品の増産)など、積極的に改革を推し進め、幕府財政を立て直すことに成功した。また、蘭学の奨励、工藤平助らの提案による蝦夷地調査、アイヌを通じた対ロシア交易の模索など、海外政策の改革も行っている。その結果、幕府の現金収益は、これまでの最高を記録する。その一方で、重商主義から来る金銭崇拝的傾向が瀰漫し、賄賂政治が横行したとされ、また幕府伝統の重農主義を重んずる松平定信ら譜代大名から反撥されるようになる。田沼時代の約20年目に起きた浅間山の噴火とそれによる凶作(天明の大飢饉)は、それまでの成果を無に帰す事となり、再び幕府財政は悪化する。加えて凶作期においては、それまでの新田開発が裏目に出る事になり(新しく開拓された水田は、当然ながら従前の水田よりも条件が悪いため、凶作の影響も大きい)、特に印旛沼干拓事業は無惨な失敗となる。子の田沼意知暗殺や、後ろ盾であった将軍家治の死などの不運が重なったことにより、田沼が失脚したことで田沼政治は終局する。

寛政の改革編集

11代将軍となった家斉の初期を補佐した老中が松平定信である。彼は田沼時代の弛緩した雰囲気を粛正すべく寛政の改革をスタートすることとなった(1787年 - 1793年、さらに1817年まで寛政の遺老によって政策は継続)。定信は将軍吉宗の孫にあたり、吉宗の改革を理想としたため、田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。この改革の性格は田沼時代の全否定であり、すなわち重商主義政策は抑えられ株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけ、江戸へ流入した百姓を出身地へ強制的に帰還させ(旧里帰農令)、また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的な傾向が強かった。また蘭学を再び厳しく取り締まり、出版統制や風紀粛正を行った。また学問分野では寛政異学の禁で朱子学を公式の学問とし、林家の私塾であった昌平坂学問所(昌平黌)を官立とするなど文武の奨励を行った。対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を届けたロシアのラクスマンに対し交易を完全に拒絶するなど、強硬姿勢で臨んだ。都市政策としては先述の旧里帰農令に加え、人足寄場の設置などを行う。全体として町人・百姓に厳しく、武士を優遇する改革でもあり、人心は定信の理想についていけないままであった。また重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能であった。結局、改革も人心収攬に失敗し、また尊号一件などにより家斉の不興を買ったことで、定信は改革わずか6年目にして失脚して老中を辞任する。ただしその後継としては、松平定信派の松平信明が老中首座となる。信明をはじめ戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中たちが幕政を主導することになり、これを「寛政の遺老」と呼ぶ。これによって寛政の改革の政策は実質的に継続することとなる。ただし田沼時代に田沼意次を支えた水野忠友や、息子の意正が復権するなど、田沼時代への回帰も見られる。しかし1817年に信明が死去すると、これに前後して他の遺老たちも引退してこの政権も終焉を迎える。

天保の改革編集

松平信明が死去すると将軍家斉(のち隠居して大御所)が自ら政権の表に立つ。ただし実際には、側近である老中水野忠成が幕政を壟断し、田沼時代を上回る空前の賄賂政治が横行した(→大御所時代)。その水野忠成が死し、大御所家斉も没した後、12代家慶が幕政改革に意欲を見せる。老中として改革を主導したのは忠成の同族の水野忠邦であった。忠邦が主導した諸改革を天保の改革と呼ぶ(1841年 - 1843年)。江川坦庵(英龍)・遠山景元鳥居忠燿(燿蔵)ら実務派の官僚が採用されたが、内容自体は田沼時代を受けた寛政の改革の再来ともいえ、新味は無かった。主な改革としては、綱紀粛正・倹約令徹底による消費の抑制、人返し令による都市住民の農村への帰還、株仲間の解散令、棄捐令などである。また対外政策では、大御所時代に出された無二念打払令を改め、無用の戦を避けるため薪水給与令が出され、江川や高島秋帆による西洋砲術導入による国防策も図られた。背景には同時期に国で勃発した阿片戦争による危機感があったと思われる。ただし、水野の腹心・鳥居燿蔵は蘭学を嫌い、蛮社の獄を起こした人物でもあり、政権内で不協和音となった。数々の改革も財政の健全化には結びつかず、また倹約令の徹底によって庶民の恨みも買ったことから、水野の求心力は急速に低下した。また、国防上の必要性から江戸大坂の大名・旗本領を幕府に召し上げようとする上知令を推進しようとしたところ、大名・商人らの猛反撥を招くこととなり、将軍家慶自ら撤回を命ずる事態となり、水野は失脚し、天保の改革はわずか2年にして崩壊した。翌年、対外政策の紛糾により、再度老中に任命されたものの、相変わらず幕閣・大名の不信は強く、1年にして辞任に追い込まれた。

幕末の改革編集

天保の改革が失敗に終わったことにより、幕府は財政・体制ともに壊滅的危機を迎える。また、諸外国からの開国要求も盛んとなっていったため、対外政策に関しても改革を行う必要が叫ばれた。水野忠邦失脚後の政局は土井利位、ついで阿部正弘が担うことになる。

嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が来航した直後、将軍家慶が死去し、病弱な13代家定が後を嗣ぎ、翌年の日米和親条約締結に伴う政治的混乱の中で、阿部主導による安政の改革が行われた。外様大名(薩摩藩島津斉彬)や親藩・御三家(越前藩松平慶永水戸藩徳川斉昭等)の幕政への参入や、長崎の海軍伝習所の設置等が行われるが、阿部は安政4年(1857年)、39の若さで死去してしまう。

阿部死後は堀田正睦が改革を主導したが、条約勅許をめぐる朝廷との対立や、病弱な将軍の後継を巡る一橋派慶喜・後の15代を推す勢力)と南紀派慶福、のち家茂・後の14代を推す勢力)との対立(将軍継嗣問題)、また外様や御三家の幕政介入に反撥した譜代大名の筆頭井伊直弼大老に就任したことにより改革は挫折し、かえって井伊による安政の大獄を招くこととなった。然し井伊は桜田門外の変で暗殺され、老中久世広周安藤信正らに主導権は移る。

幕府権威の低下を防ぐため、安藤らは将軍家茂と皇女和宮親子内親王の婚姻で公武合体による幕権強化策を図るが、折から澎湃として沸き起こった尊王攘夷運動の志士たちから反撥を受け、坂下門外の変により安藤が失脚、公武合体は頓挫する。もはや幕政の混乱、幕府権威の低下は誰の目にも明らかであった。

そんな中、文久2年(1862年)薩摩藩主の父島津久光が朝廷を動かして勅使(大原重徳)を出させ、幕府に改革を迫るという事態が発生する(→文久の改革)。政事総裁職(松平慶永)・将軍後見職(徳川慶喜)・京都守護職会津藩松平容保)などが新設される。しかし、外様大名や朝廷の介入による幕政改革の強制は幕府権威をいっそう低下させ、これにより幕府崩壊の方向性は決定的となった。また翌年、将軍家茂が上洛すると、幕府権力が京都と江戸で分裂することになり、京都政界を主導する徳川慶喜・松平容保らと、江戸の留守を守る譜代大名・旗本らとの亀裂も生じた。

二度に及ぶ長州征伐が失敗に終わり、将軍家茂の病死によって慶喜が将軍となると、慶応3年(1867年)に、最後の改革となる慶応の改革が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各総裁が置かれるなど官制の変更やナポレオン3世の援助によるフランス軍制の導入が行われたが、もはや焼け石に水であった。同年11月9日(旧暦10月14日)、慶喜は大政奉還を宣言し、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)には江戸城が新政府(明治政府)軍に占領され、江戸幕府は265年間に及ぶ歴史に幕を下ろした。

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ 元禄7年(1694年)の「御蔵入高並御物成元払積書」によれば、幕府領からの年貢米は146万石で金額にすると1,165,500両。一方歳出は1,274,550両に上り、約10万両の赤字であった。歳出内訳のうち作事(公共工事)の総額が224,600両と突出しており、これが赤字の主因とみられる。深井2012、45頁。

参考文献編集