幡ヶ谷

東京都渋谷区の町名
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幡ヶ谷(はたがや)は、東京都渋谷区北部にある地名である。

幡ヶ谷
幡ヶ谷駅 南口地上出入口(2009年4月12日)
幡ヶ谷駅 南口地上出入口(2009年4月12日)
幡ヶ谷の位置(東京23区内)
幡ヶ谷
幡ヶ谷
幡ヶ谷の位置
北緯35度40分38.3秒 東経139度40分34.38秒 / 北緯35.677306度 東経139.6762167度 / 35.677306; 139.6762167
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Shibuya, Tokyo.svg 渋谷区
人口
2019年(令和元年)8月1日現在)[1]
 • 合計 16,645人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
151-0072[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川

地名「幡ヶ谷」[注釈 1]の指し示す範囲には以下の2通りがあり、本稿では両者とも扱う。

  1. 汎称地名としての「幡ヶ谷」(幡ヶ谷地域)。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、現行行政地名では本町一〜六丁目、幡ヶ谷一〜三丁目、笹塚一〜三丁目が含まれる。
  2. 渋谷区の現行行政地名としての「幡ヶ谷」。1960年昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名で、幡ヶ谷一丁目から幡ヶ谷三丁目まである。郵便番号は151-0072[2]

概要編集

 
東京都渋谷区幡ヶ谷(手前)、笹塚(奥)
 
六号通り商店街

地名の由来編集

1082年(永保2年)に源義家後三年の役から帰る途中に、小笠原窪(現在の本町付近)にあった池(旗洗池[4])[注釈 2]にて白[注釈 3]を洗い、に掲げて祝宴を行ったことに由来する[5]

汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)編集

汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)は渋谷区の北部に位置し、現行行政地名では本町・幡ヶ谷・笹塚が該当する。かつての幡ヶ谷村の全域に相当し、幡ヶ谷村が渋谷区の一部となったのちは「幡ヶ谷本町」・「幡ヶ谷中町」・「幡ヶ谷原町」・「幡ヶ谷笹塚町」の4つの幡ヶ谷を冠する町名に整理されていたが、1960年の町名地番整理の際に「本町」・「幡ヶ谷」・「笹塚」に整理され現在に至る。現在では幡ヶ谷地域としての一体感は失われつつあり、本町・幡ヶ谷・笹塚はそれぞれ別個独立した町として認識されることが多い。

幡ヶ谷氷川神社幡ヶ谷不動尊は現在でも本町にあり、幡ヶ谷地域に属することをうかがわせる貴重な存在となっている。

隣接地域編集

北部は中野区南台および弥生町に、東部は新宿区西新宿に、南部は渋谷区初台西原、およびその西の世田谷区北沢大原に接し、西部は杉並区方南に接する。

地形編集

地形は武蔵野台地上の平坦な部分が大半を占めるが、地域北部の笹塚三丁目から幡ヶ谷三丁目、本町五丁目・四丁目・三丁目にかけては神田川幡ヶ谷支流(暗渠)に沿って浅い谷になっており、明治期までは中幡ヶ谷田圃と呼ばれる水田地帯となっていた[6]。また笹塚交差点付近には牛窪と呼ばれる窪地が存在するため、地域の南縁にほぼ沿って流れていた玉川上水はこの場所を迂回するように大きく南側に逸れている。

なお、玉川上水は現在笹塚駅の近辺の一部を除いて暗渠化され、緑道公園)として整備されている。

都市機能編集

住宅街としての利用が中心であり、新宿まで電車で数分、徒歩でも20分程度という利便性からマンションや賃貸アパート等が多い。

甲州街道山手通り中野通りといった大通り沿いを中心に企業ビルがある。本町の東部は西新宿のオフィス街と一体化しており、中心業務地区として利用されている。また、本町にはオペラシティに隣接して新国立劇場があり、地域のランドマークとなっている。

不動通り商店街や六号通り商店街十号通り商店街といった地域密着型の商店街があり住民の生活を支えているほか、駅前にはスーパー等の商業施設も数多く存在し商業地としての利用も活発である。

現在、地域を東西に貫く緑道(玉川上水旧水路)及び水道道路の再開発が計画されており[7]、近い将来街の様子が変わる可能性がある。

文化編集

幡ヶ谷地域は旧幡ヶ谷村村社である氷川神社本町5丁目に所在)を共通の氏神とし、秋の大祭には全域から山車が集まる。

警察・消防編集

全域が代々木警察署渋谷消防署の管轄下にある。

行政地名としての幡ヶ谷編集

現行行政地名としての幡ヶ谷は一丁目〜三丁目まで存在し、幡ヶ谷地域の中央に位置する。1960年(昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名であり、現在では「幡ヶ谷」はこの範囲を示すことが多い。

隣接地域編集

東側は概ね六号通りを隔てて本町と接し、西側は中野通りを隔てて笹塚との境界と接する。北側は中野区南台に、南側は西原に接する。

特徴編集

京王新線幡ヶ谷駅が甲州街道の地下にあり、南口が幡ヶ谷一丁目に、北口が幡ヶ谷二丁目に存在する。

幡ヶ谷一丁目は甲州街道を隔てて南側に位置するため、代々木上原(西原)との結びつきが強い。

かつて幡ヶ谷二丁目にはオリンパステルモの本社社屋があったが、再開発のため収去されている。その後この土地の土壌汚染が判明し、オリンパス不正会計問題も発生したことから再開発計画はストップしており、現在は社屋跡地は広大な駐車場となっている。

2019年1月、この駐車場の西隣に新しく公園(幡ヶ谷ひだまり公園)がオープンした。これは、かつてガラス工場だった土地を渋谷区が買い取り公園として整備したもので、防災公園としての機能も期待されている。

世帯数と人口編集

2019年(令和元年)8月1日現在、幡ヶ谷一丁目~幡ヶ谷三丁目の世帯数と人口は以下の通りである[1]

なお、幡ヶ谷地域の他の町(本町・笹塚)については、本町の世帯数と人口及び笹塚の世帯数と人口を参照のこと。

丁目 世帯数 人口
幡ヶ谷一丁目 2,378世帯 3,573人
幡ヶ谷二丁目 4,090世帯 6,396人
幡ヶ谷三丁目 3,893世帯 6,676人
10,361世帯 16,645人

小・中学校の学区編集

幡ヶ谷一丁目~幡ヶ谷三丁目から区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]

なお、幡ヶ谷地域の他の町(本町・笹塚)については、本町の小・中学校の学区及び笹塚の小・中学校の学区を参照のこと。

丁目 番地 小学校 中学校 調整区域による変更可能校
幡ヶ谷一丁目 10~12番 渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立笹塚中学校
その他 渋谷区立西原小学校 渋谷区立代々木中学校
幡ヶ谷二丁目 1~19番
39〜42番
44番
46〜48番
50番
20~34番
36〜37番
渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立笹塚中学校
35番 渋谷区立中幡小学校 渋谷区立笹塚小学校
その他
幡ヶ谷三丁目 1~36番
38~81番
その他 渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立中幡小学校


歴史編集

ここでは、汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)全域の歴史について扱う。

村の創立から現在に至るまでの流れ編集

始まり編集

幡ヶ谷の起源は定かではないが、村の氏神である氷川神社と、そこから伸びる国分寺道・中幡ヶ谷道周辺に集落が形成されたのが村の始まりであると考えられる[6]。「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となった。

江戸時代編集

江戸時代には地域内を東西に貫くように甲州街道が整備された。旧版地図等によると甲州街道沿いにも古くから集落が形成されていた。幡ヶ谷は内藤新宿下高井戸宿の中間地点にあたり、宿場町は置かれなかったが、旅人の休憩施設や茶店等が街道沿いに設置され、地域内は街道を通る旅人等で賑わっていたようである。

1653年に整備された玉川上水によって幡ヶ谷村内の一部が南北に分断されるようになり、住民が不便を被ることになった。とはいえ、村の北側全域が分断された南隣の代々木村と比較して、幡ヶ谷村は笹塚の一部が分断されたにすぎず、影響は少なかったものと思われる[6]

江戸時代から幡ヶ谷村豊島郡に属しており、村内には本村・中幡ヶ谷・下町・原・笹塚の5つのがあった。村の祭りは本村・中幡ヶ谷の連合、下町・原の連合で行い、笹塚は単独で行うことが多かったという。これは、本村と中幡ヶ谷が共に村の創立に関わってたため、下町・原は共に甲州街道沿道にあるため、それぞれ関係が深く連合で祭りを行っていたのに対して、笹塚は裕福な住民が多く単独でも祭りを行えたためだという[6]

明治時代から昭和初期まで編集

江戸時代から甲州街道を通じて代々木角筈柏木等の新宿方面の地域と関係が深かった幡ヶ谷村1875年、それらの村々と共同で公立学校である豊水小学校を設立する。1878年に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立され、幡ヶ谷村南豊島郡の所属となる。その頃から幡ヶ谷村は南隣の代々木村と連合して役場や学校を設けるなど関係を深めていたが、1888年市制町村制が公布、施行されるに及んで、翌1889年に正式に合併して代々幡村となった。このとき、各村の旧村名であった「幡ヶ谷」及び「代々木」は代々幡村大字として残ることになる。1898年、村内の大字幡ヶ谷を東西に貫くように玉川上水新水路が完成し、幡ヶ谷は水路土手で南北に分断されることになる。当時、玉川上水新水路は水質確保のため架橋が禁止されていたため、住民は本村と笹塚にあったトンネル(本村隧道・本町隧道・笹塚隧道)を使って行き来しなくてはならなくなり、多大な不便を被ることになった[注釈 4]。また、甲武鉄道等の鉄道の主要ルートから外れたこともあり、明治時代を通じて代々幡村江戸時代さながらの農村の様相を呈しており、市街化が進んだのは山手線に近い大字代々木の東部のみであった[6]。しかし、1913年京王線開通を契機に人口が急増し、1915年に町制を施行して代々幡町となった(代々幡町とともに渋谷区を構成した渋谷町千駄ヶ谷町と比べると6~8年ほど町制施行が遅れた)。1923年関東大震災では、玉川上水新水路の土手が崩れ町内が浸水するなどの被害はあったが、街が地盤の固い武蔵野台地上に位置していることが幸いし東京の下町地域よりも被害は圧倒的に少なかった。震災後、東京の下町地域の住人が次々と町内に移住し、町の宅地化が進んだ。当時、東京市深川区木場から木材を扱う商人が多く流入したため、現在でも幡ヶ谷周辺には材木屋が多く点在する[6]

とはいえ、昭和初年まで幡ヶ谷地域では農業が行われており、通行人がに化かされた怪談話[注釈 5]が伝わるほど人気の少ない淋しい地域も残存していた。

なお、町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷地域は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれていた。の新設も行われ、地域内には本村・本村北・本村西・下町(現在の本町が該当)、中幡ヶ谷・北原・南原(現在の幡ヶ谷が該当)、北笹塚・南笹塚(現在の笹塚が該当)の9つの小字を有した[9]

東京市編入編集

1932年東京市が近隣の5郡82町村を編入することになり、豊多摩郡に属する代々幡町東京市に編入されることとなった。新宿を生活の拠り所とする代々幡町は当初、同じく新宿と関係が深い淀橋町大久保町などと共に一つのを形成することを希望していたが、同じの2~3の町村が合わさって一つのを作るとのルールがあったため、仕方なく渋谷町千駄ヶ谷町と組んで一つのとなることを受け入れた。新区名についても、当時は渋谷よりも明治神宮のある代々木の方が知名度が高かったことなどから「代々木区」とすることを希望しており、これに渋谷町が反対すると妥協案として「宮区」(幡ヶ・千駄ヶ・渋の3つの谷、すなわち「三谷(みや)」と明治神の「宮」をかけたもの)とする案も提示していたが、東京府議会と関係の深い渋谷町議会議員により新区名が半ば強引に「渋谷区」とされ、幡ヶ谷地域は渋谷区の一部となった[6]

以上のような経緯により代々幡町東京市に編入されて旧渋谷町、旧千駄ヶ谷町と共に渋谷区を形成することになり、幡ヶ谷地域は渋谷区の北端に位置する離れ小島のような存在となってしまう。渋谷方面へのアクセスが良好な代々木地域や千駄ケ谷地域に比べ幡ヶ谷地域は新宿へのアクセスの方が抜群に優れており、街の雰囲気や川の水系が新宿に近い特徴を持つこともあり、区内でも異質な存在となってしまった。

その後編集

幡ヶ谷地域ではその後七号通り付近を中心として工場立地が進んで「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれるに至り[10]、同時に宅地化も進んだ。現在では新宿に近い利便性からかつての農村風景は遠く失われ、住宅地商業地となってマンション店舗が立ち並ぶ賑やかな街となっている。

その他の主な事象編集

  • 1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設
1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加に伴って、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。
玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便を囲った。当時は新水路上に橋が設置されておらず、南北の行き来は3つ設置されたトンネル(本村隧道・本町隧道・笹塚隧道)を通してのみ可能であった。
京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)「幡代小学校前」、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。
  • 1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止
1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。

町名の変遷編集

元来幡ヶ谷村では本村・中幡ヶ谷・下町・原・笹塚の5つの小字が存在した。

その後、原と笹塚が南北2つに、本村が3つに分けられ、本村・本村北・本村西・中幡ヶ谷・下町・北原・南原・北笹塚・南笹塚の9つの小字になった[9]

1932年の東京市編入の際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。

  • 幡ヶ谷本町一丁目~三丁目(←本村・本村北・本村西・下町)
  • 幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷)
  • 幡ヶ谷原町(←北原・南原)
  • 幡ヶ谷笹塚町(←北笹塚・南笹塚)

1960年(昭和35年)に町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。ただし、新しい町域の設定に際し、中野通りなどの比較的新しい道路を境界としたので、旧町のと新町の町域には多少の相違がある。

  • 本町一丁目〜六丁目(←幡ヶ谷本町)
  • 幡ヶ谷一丁目~三丁目(←幡ヶ谷中町・幡ヶ谷原町)
  • 笹塚一丁目~三丁目(←幡ヶ谷笹塚町)

1968年(昭和43年)1月1日に、住居表示を実施[11]。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目~三丁目が成立した。

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町名ともその一部)
本町六丁目 1968年1月1日 本町六丁目(全域)、本町一丁目、幡ヶ谷二丁目
幡ヶ谷一丁目 幡ヶ谷一丁目(全域)
幡ヶ谷二丁目 幡ヶ谷二丁目
幡ヶ谷三丁目 幡ヶ谷三丁目(全域)、幡ヶ谷二丁目


交通編集

ここでは、汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)全域の交通について扱う。

幹線道路編集

東西方向に甲州街道国道20号)および水道道路が走り、本町の北部では方南通りが通っている。また、南北方向には地域中央部で中野通りが、東端地域を山手通りが、西端のすぐ外側では環七通りが通っている。甲州街道の真上には高架の首都高新宿線が走っており、甲州街道上に幡ヶ谷出入口がある。

鉄道編集

京王電鉄
線路名称上、この地域を走る京王電鉄の路線は京王線のみであるが(詳細は京王線および鉄道路線の名称を参照のこと)、笹塚駅新宿駅間は複々線で運転系統が京王線京王新線の2系統に別れており、旅客案内では京王線京王新線がそれぞれ別路線として扱われている。笹塚駅には京王線京王新線両方の列車が停車するが、幡ヶ谷駅及び初台駅には京王新線の列車のみが停車し、京王線の列車は全て通過する。初台駅本町東部の、幡ヶ谷駅本町西部および幡ヶ谷の、笹塚駅笹塚の最寄り駅として使われている。
なお、かつては初台駅幡ヶ谷駅の間に幡代駅と幡代小学校前駅が存在したが、いずれも終戦前までに廃止されている
東京都交通局(都営地下鉄)
地域内北端に都営地下鉄大江戸線が通っている。西新宿五丁目駅は正式な所在地は新宿区西新宿だが、副駅名に幡ヶ谷地域内に存在した橋である「清水橋」がつけられており、本町北部にとっては当駅が最寄り駅である。

バス編集

路線バス中野通り水道道路甲州街道沿いに多数のバス便があり、渋谷駅⇔幡ヶ谷駅⇔中野駅(渋63)、渋谷駅⇔幡ヶ谷駅⇔笹塚駅⇔阿佐ヶ谷駅(渋66)、新宿駅西口⇔方南町駅⇔永福町駅(宿33)、といった路線が利用できる。 路線バスの他に渋谷区営のコミュニティバス「ハチ公バス」が運行されており、地域内の各地と渋谷区役所を結んでいる。

一般路線バス
コミュニティバス

課題と幡ヶ谷の未来編集

幡ヶ谷地域全体に共通する課題として、災害への脆弱性が挙げられる。幡ヶ谷地域は武蔵野台地の頑丈な地盤の上に位置するため、一見すると災害に強そうな地域に思えるが、狭隘な道が多く災害時の避難経路の確保が難しく、木造住宅が密集しているエリアが広く火災発生時に被害が拡大しやすいこと[12]から災害に強いまちづくりが急務となっている。渋谷区では、2019年10月29日に本町(一丁目・三丁目を除く)で防災街区整備地区計画の変更を行い[13]、災害に強い街づくりを進めている。また、本町五丁目にある東京消防庁本町待機宿舎の建て替えに当たっては、地域の防災機能向上等の観点から周辺道路の拡幅[注釈 6]が行われ、徐々にではあるが改善が図られている。

渋谷区では幡ヶ谷地域に「ササハタハツ」[注釈 7]との愛称をつけ、幡ヶ谷地域一体となった再開発を進めようとしている[14]。2020年、地域住民をはじめ地域に関わるあらゆる人々にとって幡ヶ谷地域を魅力的な街にしていくため、まちづくりの実行組織「ササハタハツまちラボ」が官民共同(渋谷区と渋谷未来デザイン、京王電鉄が参加)で設置された。住民が参加できるワークショップや座談会等も頻繁に行われており、住民主体のまちづくりが進められているといえよう。今後は玉川上水緑道水道道路を中心に再開発が進められてく予定であり、幡ヶ谷地域はかつてない変化を遂げようとしている。

主な施設編集

ここでは、汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)全域の主な施設について扱う。

神社仏閣編集

神社編集

  • 氷川神社(本町5丁目)- 幡ヶ谷の鎮守の神様

編集

  • 荘厳寺(本町2丁目)- 幡ヶ谷不動尊で知られている
  • 清岸寺(幡ヶ谷2丁目)- 酒呑み地蔵がある

学校編集

公立小中学校編集

私立学校編集

官公施設編集

  • 東京消防庁消防科学研究所(幡ヶ谷1丁目)
  • 幡ヶ谷高齢者センター(幡ヶ谷2丁目)
  • 幡ヶ谷社会教育館(幡ヶ谷2丁目)

企業編集

その他編集

出身人物編集


脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 郵便番号簿や新聞などの印刷物では、便宜上「幡谷」とされる場合もある
  2. ^ 昭和中期まで本町に残存していたが現在では埋められている
  3. ^ その白旗はのちに渋谷にある金王八幡宮宝物となったという
  4. ^ なお、その後架橋が許されることになり、16のが架けられた。新宿方から一号橋・二号橋・三号橋・…・十六号橋のように名付けられた。現在商店街として賑わう六号通りや十号通りは、かつて六号橋や十号橋があった道が商店街になったものである。
  5. ^ 「幡ヶ谷の古狸」深夜、近辺の男が玉川上水の土手道を通っていると、向こうから提灯を持った老婆がやってきた。狭い道ですれ違う際に老婆はよろけて男につきあたって転倒し、そのまま土手下の大根畑に転落してしまった。男が畑に降りて老婆を助けおこそうと両手を引っ張ったところ、腕がすっぽり肩から抜けてしまい、腕のない老婆が男に向けて高笑いの声をたてた。男は驚いて逃げ出したが、翌日現場をあらためたところ老婆の姿はなく、ただ畑の大根が二本引き抜かれていたという。
  6. ^ 敷地南側の道路が従来の4メートルから6メートルになり、拡幅された部分は歩道として供用された。
  7. ^ 京王線塚駅・ヶ谷駅・台駅沿線にあることから。

出典編集

  1. ^ a b 住民基本台帳・外国人登録による人口”. 渋谷区 (2019年8月1日). 2019年8月1日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年8月1日閲覧。
  4. ^ 名所・旧跡”. 渋谷区. 2021年6月6日閲覧。
  5. ^ 地名の由来”. 渋谷区. 2021年6月6日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 堀切森之助(編)『幡ヶ谷郷土誌』幡ヶ谷を語る会、1978年。
  7. ^ ササハタハツまちづくり”. 渋谷区. 2021年6月6日閲覧。
  8. ^ 通学区域”. 渋谷区. 2017年12月22日閲覧。
  9. ^ a b 東京市『大東京町名沿革』、1934。
  10. ^ 渋谷区『新修渋谷区史 下巻』渋谷区、1966年、2944頁。
  11. ^ 同年3月30日、自治省告示第54号「住居表示が実施された件」
  12. ^ 「木密地域不燃化10年プロジェクト」実施方針”. 東京都. 2021年6月5日閲覧。
  13. ^ 本町地区まちづくり”. 渋谷区. 2021年6月5日閲覧。
  14. ^ ササハタハツまちづくり”. 渋谷区. 2021年6月5日閲覧。

外部リンク編集