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日本 > 東京都 > 渋谷区 > 幡ヶ谷

幡ヶ谷(はたがや)は、東京都渋谷区北部にある地名である。地名「幡ヶ谷」[4]の指し示す範囲には以下の2通りがあり、本稿では両者とも扱う。

  1. 渋谷区の現行行政地名としての「幡ヶ谷」。1960年昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名で、幡ヶ谷一丁目から幡ヶ谷三丁目まである。郵便番号は151-0072[2]
  2. 汎称地名としての「幡ヶ谷」(幡ヶ谷地域)。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、現行行政地名では1.に加えて、本町笹塚(いずれも渋谷区)が含まれる。
幡ヶ谷
幡ヶ谷駅 南口地上出入口(2009年4月12日)
幡ヶ谷駅 南口地上出入口(2009年4月12日)
幡ヶ谷の位置(東京23区内)
幡ヶ谷
幡ヶ谷
幡ヶ谷の位置
北緯35度40分38.3秒 東経139度40分34.38秒 / 北緯35.677306度 東経139.6762167度 / 35.677306; 139.6762167
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Shibuya, Tokyo.svg 渋谷区
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 16,168人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
151-0072[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川

目次

由来編集

1082年永保2年)に源義家後三年の役から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる[5]

概要編集

 
東京都渋谷区幡ヶ谷(手前)、笹塚(奥)
 
六号通り商店街

広義の幡ヶ谷地域は渋谷区の北部に位置し、現在の町名では北東から西南へ向けて順に、本町・幡ヶ谷・笹塚が該当する。地域の北部は中野区南台および弥生町に、東部は新宿区西新宿に、南部は渋谷区初台西原、およびその西の世田谷区北沢に接し、西部は杉並区方南に接する。幡ヶ谷地域は旧幡ヶ谷村村社である氷川神社本町5丁目に所在)を共通の氏神とし、秋の大祭には全域から山車が集まる。

地形は武蔵野台地上の平坦な部分が大半を占めるが、地域北部の本町4丁目から幡ヶ谷3丁目、笹塚3丁目にかけては、現在暗渠化されている神田川の支流(和泉川)に沿って浅い谷になっており、明治期までは湿地帯をなして中幡ヶ谷田圃と呼ばれる水田がつくられていた。また地域の南縁にほぼ沿って玉川上水が流れていたが、現在は笹塚駅の近辺の一部を除いて暗渠化され、緑道(公園)として整備されている。

地域内は住宅街としての利用が中心であるが、甲州街道沿いや山手通り沿い、中野通り沿いには企業ビルなどが目立つ。地域内には不動通り商店街、六号通り商店街や十号通り商店街などの商店街も形成されており商業地としての利用も活発である。東部の本町新宿副都心に接し、その地にはオペラシティに隣接して新国立劇場がある。

歴史編集

始まりから町制施行まで編集

幡ヶ谷の起源は定かではないが、村の氏神である氷川神社と、そこから伸びる国分寺道・中幡ヶ谷道周辺に集落が形成されたのが村の始まりであると考えられる[6]。「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となって、そのまま明治を迎えた。

旧版地図等によると、甲州街道沿いを中心に古くから集落が形成されていた。江戸時代末期には幡ヶ谷は豊島郡に属し、豊島郡幡ヶ谷村と称していたが、1878年(明治11年)に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立されるに及んで南豊島郡幡ヶ谷村となった。その頃から幡ヶ谷村は南隣の代々木村と連合して役場や学校を設けるなど関係を深めていたが、1888年(明治21年)に市制町村制が公布、施行されるに及んで、翌1889年(明治22年)に正式に合併して代々幡村となり、1915年大正4年)に町制を施行して代々幡町となった。1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに1923年(大正12年)の関東大震災を契機に宅地化が進んだ。町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷地域は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれ、地域内に幡ヶ谷本村・下町(現在の本町が該当)、中幡ヶ谷・原町(現在の幡ヶ谷が該当)、笹塚の5つの小字を有した。

昭和初年まで幡ヶ谷地域では農業が広く行われており、通行人が狸に化かされた怪談話[7]が伝わるほど人気の少ない淋しい地域だった。

東京市編入とその後編集

1932年東京市が近隣の5郡82町村を編入することになり、豊多摩郡に属する代々幡町も東京市に編入されることとなった。新宿を生活の拠り所とする代々幡町は当初、同じく新宿と関係が深い淀橋町や大久保町などと共に1つのを形成することを希望していたが、同じ郡の2~3の町村が合わさって1つのをつくるとのルールがあったため、仕方なく渋谷町・千駄ヶ谷町と組んで1つのとなることを受け入れた。新区名についても、当時は渋谷よりも明治神宮のある代々木の方が知名度が高かったことなどから「代々木区」とすることを希望しており、これに渋谷町が反対すると妥協案として「宮区」(幡ヶ・千駄ヶ・渋の3つの谷、すなわち「三谷(みや)」と明治神の「宮」をかけたもの)とする案も提示していたが、東京府議会と関係の深い渋谷町議会議員により新区名が半ば強引に「渋谷区」とされ、幡ヶ谷地域は渋谷区の一部となった[8]

以上のような経緯により代々幡町東京市に編入されて旧渋谷町、旧千駄ヶ谷町と共に渋谷区を形成することになったが、幡ヶ谷地域ではその後工場立地が進んで「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれるに至り[9]、同時に宅地化も進んだ。現在では新宿に近い利便性からかつての農村風景は遠く失われ、住宅地・商業地となってマンションや店舗が立ち並ぶ賑やかな街となっている。

編入からの町名の変遷編集

1932年の東京市編入の際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。

  • 幡ヶ谷本町一丁目~三丁目(←幡ヶ谷本村・下町)
  • 幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷)
  • 幡ヶ谷原町(←原)
  • 幡ヶ谷笹塚町(←笹塚)

1960年(昭和35年)に町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。ただし、新しい町域の設定に際し、中野通りなどの比較的新しい道路を境界としたので、旧町のと新町の町域には多少の相違がある。

  • 本町一丁目〜六丁目(←幡ヶ谷本町)
  • 幡ヶ谷一丁目~三丁目(←幡ヶ谷中町・幡ヶ谷原町)
  • 笹塚一丁目~三丁目(←幡ヶ谷笹塚町)

1968年(昭和43年)1月1日に、住居表示を実施[10]。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目~三丁目が成立した。

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町名ともその一部)
本町六丁目 1968年1月1日 本町六丁目(全域)、本町一丁目、幡ヶ谷二丁目
幡ヶ谷一丁目 幡ヶ谷一丁目(全域)
幡ヶ谷二丁目 幡ヶ谷二丁目
幡ヶ谷三丁目 幡ヶ谷三丁目(全域)、幡ヶ谷二丁目

その他の主な事象編集

  • 1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設
1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加にともなって、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。
玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便をかこった。
京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)「幡代小学校前」、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。
  • 1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止
1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。

世帯数と人口編集

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
幡ヶ谷一丁目 2,359世帯 3,552人
幡ヶ谷二丁目 4,012世帯 6,327人
幡ヶ谷三丁目 3,680世帯 6,289人
10,051世帯 16,168人

小・中学校の学区編集

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]

丁目 番地 小学校 中学校 調整区域による変更可能校
幡ヶ谷一丁目 10~12番 渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立笹塚中学校
その他 渋谷区立西原小学校 渋谷区立代々木中学校
幡ヶ谷二丁目 1~19番
39〜42番
44番
46〜48番
50番
20~34番
36〜37番
渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立笹塚中学校
35番 渋谷区立中幡小学校 渋谷区立笹塚小学校
その他
幡ヶ谷三丁目 1~36番
38~81番
その他 渋谷区立笹塚小学校 渋谷区立中幡小学校

交通編集

幹線道路編集

幡ヶ谷地域内では東西方向に甲州街道国道20号)及び水道道路が走り、本町の北部では方南通りが通っている。また、南北方向には地域中央部で中野通りが、東端地域を山手通りが、西端のすぐ外側では環七通りが通っている。

鉄道編集

地内に甲州街道に沿って京王線が走っており、地域西部に京王線笹塚駅があり、地域中央部の甲州街道地下に京王新線幡ヶ谷駅がある。また、地域東部南縁の甲州街道地下には京王新線初台駅があって、本町の住民の多くが最寄り駅として利用している。
地域の北東部を都営地下鉄大江戸線が貫いており、本町三丁目~四丁目の住民にとっては同線の西新宿五丁目駅が最寄り駅になる。

路線バス編集

路線バス中野通り水道道路甲州街道沿いに多数のバス便があり、渋谷駅⇔中野駅、渋谷駅⇔阿佐ヶ谷駅、新宿駅西口⇔方南町⇔永福町、といった路線が利用できる。

主な施設編集

神社仏閣編集

  • 氷川神社(本町5丁目) 幡ヶ谷の鎮守の神様
  • 荘厳寺(本町2丁目) 幡ヶ谷不動尊で知られている
  • 清岸寺(幡ヶ谷2丁目)酒呑み地蔵がある

学校編集

公立小中学校編集

私立学校編集

官公施設編集

  • 東京消防庁消防科学研究所(幡ヶ谷1丁目)
  • 幡ヶ谷高齢者センター(幡ヶ谷2丁目)
  • 幡ヶ谷社会教育館(幡ヶ谷2丁目)

企業編集

その他編集

出身人物編集

参考文献編集

  • 『幡ヶ谷郷土誌』氷川神社社務所内「幡ヶ谷を語る会」、昭和53年(1978年)

脚注編集

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  1. ^ a b 住民基本台帳・外国人登録による人口”. 渋谷区 (2017年12月1日). 2017年12月22日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月22日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月22日閲覧。
  4. ^ 郵便番号簿や新聞などの印刷物では、便宜上「幡谷」とされる場合もある
  5. ^ 渋谷区史
  6. ^ 幡ヶ谷郷土史
  7. ^ 「幡ヶ谷の古狸」深夜、近辺の男が玉川上水の土手道を通っていると、向こうから提灯を持った老婆がやってきた。狭い道ですれ違う際に老婆はよろけて男につきあたって転倒し、そのまま土手下の大根畑に転落してしまった。男が畑に降りて老婆を助けおこそうと両手を引っ張ったところ、腕がすっぽり肩から抜けてしまい、腕のない老婆が男に向けて高笑いの声をたてた。男は驚いて逃げ出したが、翌日現場をあらためたところ老婆の姿はなく、ただ畑の大根が二本引き抜かれていたという。
  8. ^ 幡ヶ谷郷土史
  9. ^ 渋谷区史
  10. ^ 同年3月30日、自治省告示第54号「住居表示が実施された件」
  11. ^ 通学区域”. 渋谷区. 2017年12月22日閲覧。

外部リンク編集