平塩熊野神社

山形県寒河江市にある神社

平塩熊野神社(ひらしおくまのじんじゃ)は、山形県寒河江市にある神社である。養老5年(721年行基により勧請されたと伝わる古社である。

平塩熊野神社
所在地 山形県寒河江市平塩1
位置 北緯38度21分31.8秒 東経140度14分34.2秒 / 北緯38.358833度 東経140.242833度 / 38.358833; 140.242833 (平塩熊野神社)座標: 北緯38度21分31.8秒 東経140度14分34.2秒 / 北緯38.358833度 東経140.242833度 / 38.358833; 140.242833 (平塩熊野神社)
主祭神 素盞嗚尊
伊弉冉命
伊弉諾尊
社格 郷社
創建 (伝)養老5年(721年
例祭 4月3日
地図
平塩熊野神社の位置(山形県内)
平塩熊野神社
平塩熊野神社
平塩熊野神社 (山形県)
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歴史 編集

 社伝によれば、養老5年(721年行基により熊野三社を勧請して開山し、行基の高弟勝覚が別当として補佐したという。前九年の役に当たり、源頼義義家が戦勝を祈願し、康平5年(1061年)田畑・山林と鏡二面を寄進した。また応徳3年(1086年後三年の役の時再建されたという。

 平安時代境内地に経塚が築かれ、出土した石製八角柱形石鐘から康治年間(1142年1143年)のものだと判明している[1]文治5年(1189年寒河江荘地頭となった大江氏寒河江氏)から社領を与えられ、寒河江大江氏の譜代の家臣であった長崎中山氏の保護を受けた。中山氏は最上川流域の開墾によって7000石と称する地域を有し、平塩熊野神社を祈願所として定め、北目(山辺町北垣)・高屋(寒河江市高屋)[2]・伏熊(大江町三郷)に平塩熊野神社の分社をおいて郷の鎮守とした。元々は熊野三所権現にならい、護摩堂・内御堂・如法堂に分かれていたが、明応年間(1492年1501年)に現在地に合祀された。 大江氏が滅ぶと中山氏は最上氏に属し、平塩熊野神社も最上氏の保護を受け、最上氏改易後は幕府より149石余の御朱印地を与えられた。 明治に入ると神仏分離令により神社となり、村人の葬礼を担当する平塩寺(へいえんじ)を設立した。廃仏毀釈の際、十王像を隠匿するため裏山へ埋めた[3]といい、その後掘り起こされ祀られた。また、廃仏毀釈において主尊釈迦如来像が失われた[4][5]。十王像2躯は痛みが激しかったことから、平成18年(2006年)から三か年をかけて京都国立博物館文化財保存修理所で補修が行われ、平成20年(2008年)帰還した。帰還の際には修復帰還祭が執り行われた。

平塩寺 編集

 
平塩寺木鼻・頭貫・拳鼻

江戸時代の明暦元年(1655年)2月、如法堂を平塩寺と改め熊建山(ゆうごんざん)平塩寺と称した。寒河江氏のもとでは日野式部が別当を務めていたが、寒河江氏の滅亡により穏退し[6]、替りに伊達氏15代晴宗の孫にあたる宥実が別当となって、真言宗宝幢寺の末寺となり行財政面を担当した[7]。別当は妻帯せず、代替わりの際は宝幢寺から別当を入れた[8]

明治の神仏分離により平塩寺是観は神主となって建部を名乗り、村民の要望により弟子の円明が平塩寺を継いだ。この時一山の阿弥陀如来像(分離以前は大阿弥陀堂に安置されていた[4])・大般若経・仏具等を譲り受け、以降葬祭を担うこととなった。

  • 宗派
真言宗智山派
  • 本尊
阿弥陀如来坐像(脇侍:観音菩薩立像・勢至菩薩立像)
鎌倉時代後期から室町時代の作
「阿弥陀三尊像」山形県指定文化財。平成28年12月6日指定[9]
  • 本堂
寛政8年(1796年)に再建されたもので、向拝・木鼻の彫刻は巧緻を極める。
  • 大般若経
奥書には平塩、伏熊の民衆のほか、宮城県牡鹿郡の漁村の人々、宮城県石巻・梅渓寺の僧、最上郡金山の人名が見える[10]

系譜と法系 編集

伊達晴宗
 
国分盛重
 
宥実
 
宥快
 
宥厳
 
及辨
 
照海
 
運貞
 
宥都
 
楽観
 
明観
 
宥成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楽範
 
信詮
 
公観
 
耕裕
 
啓津
 
法如
 
是観
 
円明
 
祐真
 
良栄
 
良仁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

文化財 編集

県指定文化財 編集

  • 木造伝十王坐像(2躯)
    12世紀半ばの作とされる。日本における十王信仰の最初期の作で、画像・彫像を通じて最古の作例であろうといわれる。閻魔王像:坐高133.5cm、全高166.3cm。太山府君もしくは五道大神:坐高121.8cm・全高154.0cm。一木造り。

県指定無形民俗文化財 編集

出土品 編集

  • 1号経塚
    • 八角柱形石鐘(1基)、大刀子(3振)、石製儀鏡(1面)、珠洲焼経筒外容器(1点)、石皿(縄文時代・2片)[1][11]

年中行事 編集

 
御塞神(塞の神)
  • 御塞神祭(おさいじんさい)
    2月下旬(旧暦1月15日)に行われる除災招福の行事。松の木で男根を型どった御神体を彫り、入魂後塞の神に(神社参道の東はずれにある石)供え、集まった人々に撒かれる。拾った人には福が訪れると伝えられ、激しく奪い合う姿は圧巻。 (2016年2月22日 御神体争奪20:30~)
  • 平塩舞楽(ひらしおぶがく)[12]
    4月第1土曜日[13]に行われる舞楽。十番の舞が披露される。(ただし太平楽は旧暦の閏年のみ)

逸話 編集

  • 参詣者の便を図るために建立された一対の常夜燈には、一晩中燈火がつけられていた。この点火役は、平塩一山の衆徒たちの大事な役で、一年交代で勤めていた。現在の常夜燈の建立は文化元年(1804年)4月3日。この油料は実相坊が寄進した「油田」 による。最後の点火役を勤めたのは昭和16年(1941年)の梅本坊である。夕方になると薬缶に入れた菜種油を火袋の燈心皿に注ぎ、それに火を灯したという。その後、常夜燈は電燈に代わり何百年と続いた衆徒の役割を終えた。[14]
  • 参道脇にある沼ではかつて、沼に住む竜神への雨乞いの儀式を行ったという。
  • 木造伝十王坐像(2躯)は節があることから、かつて境内にあったご神木から掘り出した像であろうと推測される。
  • 御塞神から鳥居を経て社殿までのおよそ600mはほぼ直線となっており、御塞神から鳥居までは水路が流れ家々が立ち並ぶ。寒河江市史編さん委員宇井啓によれば、社殿の建設に合わせて計画的に設計されたものだという。
  • 御塞神の北方約600mには最上川が流れ、かつて牛前の渡し(船場)と呼ばれる渡し場が存在した。渡し場がある一帯からは、「臥牛山」(がぎゅうざん)とも呼ばれる月山が美しく見えるため、地名が「牛前」になったという(寒河江市大字平塩字牛前)。江戸時代には年貢米の積み出し場としてもにぎわった。昭和35年(1960年)渡し場に平塩橋が掛けられた[15]

脚注 編集

  1. ^ a b 『寒河江市平塩熊野神社境内経塚発掘調査現地説明会資料」國學院大學博物館額研究室
  2. ^ 高屋熊野神社は元熊野大権現と称し、天正年間大江氏から4石余を寄進され、36石余を有した。西運寺(寒河江市)が土地を支配した。宝暦5年(1755年)再建された。「寒河江町誌」『寒河江市史編纂叢書 第5・6集』pp.63
  3. ^ はじめ山中の白山堂に隠したが、発見を恐れて土中に埋めたともいう。
  4. ^ a b 『平塩の歴史と民俗』(2006,p.p.53)
  5. ^ 普賢・文殊菩薩が平塩寺に残された。
  6. ^ 『平塩の歴史と民俗』(2006,p.p.49)
  7. ^ 平塩寺パンフレット
  8. ^ 『平塩の歴史と民俗』(2006,p.p.52)
  9. ^ 山形県HP最近指定された文化財
  10. ^ 『平塩の歴史と民俗』(2006,p.p.54)
  11. ^ 第1次、第2次発掘調査による。
  12. ^ 春の訪れ、厳かに - YouTube(山形新聞社提供、2017年4月3日公開)
  13. ^ 寒河江市HP「今も続く平塩舞楽」
  14. ^ 寒河江市HP「寒河江むかしさがし」より。
  15. ^ 山形橋物語 最上川第3部[4]

参考文献 編集

  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 中巻』、1999
  • 鈴木正栄 『平塩の歴史と民俗』、2006

関連項目 編集

外部リンク 編集