平岡美津子

三島由紀夫の妹

平岡 美津子(ひらおか みつこ、1928年(昭和3年)2月23日 - 1945年(昭和20年)10月23日)は、三島由紀夫の妹[1]。17歳で病死し、その死の痛手が青年時代の三島由紀夫の執筆活動に特に大きな影響を与えた[2][3][4]。三島の小説や戯曲には、妹をモデル、または投影させた作品が少なからず散見される[3][5]

ひらおか みつこ
平岡 美津子
19歳の兄・三島と16歳の美津子
(1944年9月9日、三島の学習院卒業式の日)
生誕 1928年2月23日
日本の旗 日本東京府東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)
死没 (1945-10-23) 1945年10月23日(17歳没)
日本の旗 日本・東京都淀橋区大久保町
東京都立大久保病院(現・東京都保健医療公社大久保病院
死因 腸チフス
墓地 日本の旗 日本多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 三輪田高等女学校聖心女子学院専門部
平岡梓(父)、倭文重(母)
親戚 公威(兄)、千之(弟)
平岡定太郎橋健三(祖父)
平岡なつ、橋トミ(祖母)
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生涯 編集

1928年(昭和3年)2月23日東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に、父・平岡梓農商務官僚)と母・倭文重漢学者橋健三の次女)との間に長女として誕生[6]。3歳上に、1925年(大正14年)1月14日生まれの兄・公威(のちの三島由紀夫)がいた。1930年(昭和5年)1月19日に弟・千之が生まれる[7]

1933年(昭和8年)8月、美津子が5歳の時に祖父母の定太郎なつが2、3軒離れた四谷区西信濃町16番地(現・新宿区信濃町8)の借家に住むことになり、8歳の兄・公威がそこへ移り、美津子や千之、両親と別居することになった[8][9]

1937年(昭和12年)4月上旬、美津子が9歳の時に両親が渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の西洋館風2階建ての借家へ転居するのを機に、12歳の兄・公威もそちらに伴うことになり、美津子や千之と同居することになった[9][10]

1944年(昭和19年)3月、4月、16歳の美津子は、19歳の兄・公威と歌舞伎仮名手本忠臣蔵』『大楠公の最期』『大楠公夫人』『二人袴』などを見に行くなど、仲がいい兄妹であった[11][12]1945年(昭和20年)1月10日から東京帝国大学勤労報国隊として群馬県中島飛行機小泉製作所に勤労動員された兄・公威への手紙でも、芝居を一緒に見にゆくことを綴ったり、普段はお転婆だったが、しおらしく「ワイシャツによいものを同封したとか、ホロリとするやうなこと」を書いたり、兄に頼まれ、兄の愛「デコ」の面倒を代りに見ていた[13]

三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)を経て、聖心女子学院専門部在学中だった1945年(昭和20年)10月10日、17歳の美津子は、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する[2]。同時に発病した学友が5、6人いたが、美津子だけが重篤となった[14]。母・倭文重公威が交代で看病するが、同月23日、大久保町避病院東京都立大久保病院)で死去。兄・公威は号泣した[2]

人物 編集

平岡美津子は、三輪田高等女学校に通っていたが、その時の同級生には、湯浅あつ子の妹・板谷諒子がおり、彼女たちと親しくしていた[15][注釈 1]。美津子が女学生だった当時を知る湯浅あつ子は、三島が妹をとても可愛がり、美津子が三島とは違い、「思ったことをハキハキいえ、きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった」と述べ[15]、渾名の“ヒラメ”のように、「軽やかに海中を泳ぐがごとく、学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので素晴らしかった」と美津子の性格を語っている[15]

そしてそんな美津子が、勤労動員中に飲んだなま水で体調を崩して、一人だけ腸チフスになり死んでしまった当時と、その後の三島について湯浅あつ子は次のように語っている[15]

三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、力をこめて、「お兄ちゃま!有難う」と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。父も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての “愛”だったのだと思える。 — 湯浅あつ子「ロイと鏡子」[15]

また、美津子と聖心女子学院で同級生だった佐々悌子によると、美津子は、小説家を目指していた兄・公威と、それを大反対していた父親の関係について、「かわいそうなの、うちのお兄ちゃま。(中略)お父さまは、小説家なんかにならずに役人になれっていうし、お兄ちゃまが小説を書いていると、いい顔をしないの。ひどいのよお父さまったら、お兄ちゃまの原稿用紙をみつけると、片っ端から破って捨てちゃうの。ほんとうにかわいそう。(中略)お兄ちゃまがお父さまに反抗すると、想像もつかないほど怒り狂うのよ、お父さまは」と語っていたという[16]

三島由紀夫への影響 編集

精神的空白 編集

兄妹の父親の平岡梓は、二人が時々喧嘩をしながらも仲が良く、三島は妹を可愛がり、美津子もそんな兄を敬愛してよく兄の指示に従っていたと語り、美津子が入院した時の三島の看病ぶりについて、「あの時の倅の妹思いと申しますか、その心のやさしさには、僕も倅に手をついてお礼をしてやりたいくらいの気持でした」と述べ[14]、いよいよ美津子が死ぬ時に、「お兄様アリガトウ」とやっと言い残して逝ったのを、三島が妹の口に「吸い込み」をあてながら聞いていた姿を述懐しつつ、その後も、その微かな「アリガトウ」という言葉が耳について離れないと三島が言っていたと語っている[14]

美津子の早世は、後の三島の生活や文学活動に様々な影響を与えたが、三島は、1945年(昭和20年)から戦後数年にかけての自身の精神的危機状態について次のように語っている[2]

昭和二十年から二十二三年にかけて、私にはいつも真夏が続いてゐたやうな気がする。あれは兇暴きはまる抒情の一時期だつたのである。(中略)私は妹を愛してゐた。ふしぎなくらゐ愛してゐた。(中略)ある日、妹は発熱し、医者は風邪だと言つたが熱は去らず、最初から高熱がつづき、食欲が失くなつた。(中略)チフスと診断が確定すると、当時隔離病室が焼けてゐたので、そのまま避病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看護したが、妹は腸出血のあげくに死んだ。死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちやま、どうもありがたう」とはつきり言つたのをきいて、私は号泣した。(中略)
戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。種々の事情からして、私は私の人生に見切りをつけた。その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今思ひ出しても、ゾッとせずにはゐられない。年齢的に最も溌剌としてゐる筈の、昭和二十一年から二・三年の間といふもの、私は最も死の近くにゐた。 — 三島由紀夫「終末感からの出発―昭和二十年の自画像」[2]

佐藤秀明は、この一文について、「看病に明け暮れた三島は号泣した。頭が下がるほど一生懸命に看病したと、父の梓は書いている」と述べ[17]、それに比し、三島がごくあっさり書こうとしている分、「三島の内的な昂ぶりが尋常でないことを窺わせる」とし、20歳の三島が、「苦しく辛い感情を引きずって戦後を出発しなければならなかった」と解説している[17]

三島は他のエッセイ『心ゆする思ひ出――「銀座復興」とメドラノ曲馬』(1953年)でも妹の死について触れており[18]、自決の前年の1969年(昭和44年)1月の『毎日グラフ』のインタビューでは、「泣かれたことがありますか?」と問われ、「昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない」と答えている[19]

恋人・妻選び 編集

様々な証言や恋人選びから、三島が交際した女性やには、亡くなった17歳の妹の影をどこかで求めていたような節があるという[15][20]

妹・美津子の死後、1946年(昭和21年)6月から1948年(昭和23年)2月頃まで、三島は妹の聖心女学院での同級生だった紀平悌子佐々淳行の姉)と交際し[21][22]、また、1950年(昭和25年)10月から1951年(昭和26年)までには、同じく妹の三輪田高等女学校時代の同級生だった板谷諒子と交際をしていた[23][24]

また、三島が1954年(昭和29年)8月頃から1957年(昭和32年)5月まで真剣交際していた女性・後藤貞子(旧姓・豊田貞子。19-22歳)について湯浅あつ子は、「彼女はとても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた」としている[15][注釈 2]

三島と結婚した杉山瑤子に会ったときの第一印象について美輪明宏は、「私、瑤子さん見たとき、びっくりしましたもの。亡くなった妹さんの写真にそっくりで」と述べている[20]

川島勝(講談社の編集者で25年間、三島と交流があった)は、自分の妻と美津子が女学校時代の同窓だったことを知った三島から、声をかけられた当時を述懐して次のように語っている[25]

たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。母倭文重からその話を聞いた三島は「あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか」と言った。(中略)この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑤子夫人の手料理の歓待を受けた。(中略)三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを思い出していたのか心なしか寡黙にみえた。 — 川島勝「三島由紀夫の豪華本」[25]

なお、三島は女性の好きな言葉遣いとして、美津子がよく使っていた、語尾に「ことよ」と付ける言い方に触れている[26]

私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院にゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。 — 三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」[26]

杉山瑤子と見合いする前には、美津子のいた聖心女子大学の卒業式を参観し[27]、そこを首席で卒業した正田美智子とお見合いをしたこともあった[28][29]

確かな存在 編集

三島と妹との関係について野坂昭如は、妹・美津子は三島にとって「確かな存在だった」と述べて、三島が8歳、美津子が5歳までは一緒だったが、ほとんど祖母の部屋に居た三島と美津子は「家庭内別居の状態」で、三島が8歳から12歳までは住まいが別となり、その後、「兄妹の意識はうすいまま」三島が12歳の春にようやく、妹と同居するようになった経緯や資料を辿って次のように解説している[5]

十二歳で三島は、九歳の妹を持った。はっきり異性を意識したろう。それまで、祖母の妹たちの、いずれも子沢山の中の、女の子たちと遊ぶ機会はあっても、祖母の傘のうちでしかない。妹であればこその、男としての愛し得ない障害の予感が、三島を昂ぶらせた、保護者の快さもある、活字でしかしらなかった女の、初々しいながら、すべての萌芽を妹はしめす。
美津子にしても、女の勘で、およその事情、兄の立場を理解、のみこんでいた。弟よりはるかに消息通だった。風変りな、気の毒な人とながめていたのが、一緒に暮してみれば、三島の、いち早く切り替えた、両親の膝下にあっての良い子面のせいもあり、けっこう活発だし、なにより頭が良い。妹の目からすれば、知らないことのない印象。はほとんど家をかえりみない、平岡家にとにかく、男があらわれたのだ。他人の期待にそって、そつなく役割をこなすことは、およそ父性を具体的に知らぬながら、三島にはできた。美津子の求めに、先んじて応対するなど、なつのそれに較べいかに容易なことか。妹の満足そうな表情に、三島も充足感を覚える。「お転婆」「おしやま」「あきつぽさ」「わがまま」「驕慢」のそのすべてが、好ましい。しかも、中等科へ入れば、才能を認めた教師の寵を受け、はるか年上の文芸部員が、対等のつき合いをしてくれる。(中略)そして肩肘張ったその疲れを、美津子が癒した。 — 野坂昭如「赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫」[5]

作品への影響 編集

三島の小説戯曲には、美津子をモデルにしたもの、投影させたものなどが少なからず散見され、以下のようなものがある。

三島は美津子の幽霊を登場させた短編『朝顔』を1951年(昭和26年)に書いているが[30]。『朝顔』には次のような記述がある。

妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、今日まで規則正しくつづいてゐる。(中略)夢の中では妹は必ず生きてゐた。医者から見離された身が、はからずも奇蹟的に助かつて、私たち家族のまどゐのなかに再び見出されたりするのである。「よかつたね、治つてよかつたね」 さういひながら、私は一脈の不安をぬぐえずにゐる。もしかこれが夢ではないかと疑ふ気持をぬぐえずにゐる……。私は永い旅を終へて家へかへつた。(中略)しばらくして玄関を出て来たのは妹である。 — 三島由紀夫「朝顔」[30]

三島の戯曲『朱雀家の滅亡』(1967年)のヒロイン・璃津子(りつこ)を演じた村松英子は、この女学生のヒロインの名が「美津子」と似ていることから、「この作品は先生のノスタルジーですね」と三島に尋ねてみると、三島は優しく微笑し、「そうだよ。僕のノスタルジーだよ」と言ったという[31]。また、三島の戯曲には他にも『美濃子』(1964年)という恋愛劇がある[32]

短編『岬にての物語』(1946年)は、兄と妹の愛を暗示しているとされている[33]。他にも、短編『家族合せ』(1948年)、『罪びと』(1948年)、長編『幸福号出帆』(1955年)、『音楽』(1964年)、戯曲『熱帯樹』(1960年)など、兄と妹の異性関係、近親相姦を描いた作品がある。粉川宏(集英社の三島担当編集者)は『熱帯樹』に関し、「亡き妹・美津子さんに寄せる思いが、戯曲のかたちで告白されているように感じられてならなかった」とし[34]瀬戸内寂聴は、「兄と妹の近親相姦を書いた『熱帯樹』という戯曲があるけれど、妹さんを思う気持ちは強かったんですね」と語っている[20]。三島は『熱帯樹』の劇場プログラムの中で、「肉慾にまで高まつた兄妹愛といふものに、私は昔から、もつとも甘美なものを感じつづけて来た」とも記している[35]

仮面の告白』の園子は、三島の初恋の女性・三谷邦子(三谷信の妹)がモデルとなっているが、野坂昭如はそれに関し、「園子には、妹の投影があった、犯してはならないというためらいがあった」とし、「しかるに園子は、敗戦後すぐに婚約、その年の暮、結婚している。美津子を作品の中で、娼婦に仕立ててしまうのは、この園子の女心の変転ぶりに、自分がひたむきであっただけ、絶望し軽蔑し、これを、妹にも及ぼしたのだろう」と、三島が短編『家族合せ』(1948年)において、妹を娼婦にしている理由と並行しながら作品分析している[5]

三島は、短編『罪びと』(1948年)で、リヤカーで荷物運搬中に飲んだ水が原因でチフスになり亡くなるミッション・スクールの「郁子」を登場させているが、この美津子をモデルにしている郁子は主人公の許婚という設定となっている。また、郁子に水を飲むことを勧めた同級生は、主人公と夏休みに避暑地であやまちを犯したという設定で、三島と軽井沢で接吻をした三谷邦子(『仮面の告白』の園子)をモデルとしているが、このことについて村松剛は、「妹の死」と「失恋」という2つの主題が、この小説では混ぜ合わされていると述べている[3]。また、村松剛が、『熱帯樹』に登場する妹の名も「郁子」、『純白の夜』のヒロインのも「郁子」で、この3作品に同じ名前を付けたことに何か特別な意味があるのかと三島に尋ねた時に、「そんなことに気がつくのは、君くらいのものだろう」と三島が苦笑し、そのことについてあまり言いたくないという感じだったので、村松は話題を転じたという[3]

松本徹は、「天使的な純粋無垢さへの切実な希求」(『苧菟と瑪耶』、『サーカス』、『岬にての物語』、『頭文字』、『盗賊』、『翼』など)と、「退廃的な色彩、同性愛を扱ったもの」(『中世』、『煙草』、『殉教』、『仮面の告白』、『禁色』など)、という2つの三島の相反する作品系列を挙げながら、さらにそこに、もう一つの平行する系列として、「近親相姦を扱ったもの」(『軽王子と衣通姫』、『春子』、『家族合せ』、『火宅』、『灯台』、『聖女』、『熱帯樹』など)を挙げている[36]。そして、『家族合せ』の作中、兄が〈僕の体は十歳の子供にすぎないんだ〉と言う場面に松本は注目し、「彼は〈純潔〉という不能に掴まれた〈十歳の子供〉」で、「してはならぬ行為へと誘われた時、禁忌を犯す恐怖によって、不能に陥ったまま、今に至っている」として以下のように解説している[36]

この兄に等しい人物たちが、他の二つの系列の作品では、ひたすら「純潔」を目指すか、性的欲望を満たすため同性へと向かう。単純化すれば、こういう道筋が見えてきそうに思われます。すなわち、近親相姦への恐怖によって、女への性的要求を自ら封じ込め、不能に陥るが、同性愛者と自分を規定することによって、その領域においてのみ欲望を解放した、と。基軸になるのは、実は近親相姦への恐怖なのかもしれません。そこから、『仮面の告白』とか『禁色』になったと見ることができそうです。 — 松本徹「多面体としての性―『禁色』『潮騒』『家族合せ』など」[36]

そして松本は、「近親相姦とか不能」といったことに言及したが、それは、三島の「感受性が鋭敏で、倫理意識が常人以上に厳しいからこそ、こうなった」と考察しながら、三島が「男が成人する道筋をゆっくり、さまざまな角度から照らし出し、克明に補佐しながら、たどった」とし[36]、その性は詳細に見ると「多面体」であり、「そこから三島は、幾多の優れた作品を生み出している」と解説している[36]

家族・親族 編集

父・平岡梓農商務官僚
母・倭文重漢学者橋健三の次女)
兄・公威作家
弟・千之外交官

系譜 編集

平岡家系図
初代孫左衛門
 
2代目孫左衛門
 
初代利兵衛
 
2代目利兵衛
 
3代目利兵衛
 
太左衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太吉
 
 
萬次郎
 
 
こと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公威(三島由紀夫
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺岡つる
 
 
桜井ひさ
 
 
萬壽彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定太郎
 
 
 
 
 
 
杉山瑤子
 
 
威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井なつ
 
 
 
 
 
 
千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
むめ
 
 
義之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田中豊蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
儀一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 湯浅あつ子はのちにロイ・ジェームスの妻となり、湯浅の家のサロンは、三島由紀夫の小説『鏡子の家』のモデルとなった[15]
  2. ^ 豊田貞子と三島の交際の詳細については、岩下 2008岩下 2011猪瀬 2001に詳しい。

出典 編集

  1. ^ 有元伸子「平岡家」(事典 2000, pp. 572–575)
  2. ^ a b c d e 「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号)。28巻 2003, pp. 516–518
  3. ^ a b c d 「III 死の栄光――死の世界の再現」(村松 1990, pp. 283–304)
  4. ^ 越次倶子「平岡美津子」(旧事典 1976, pp. 340–341)
  5. ^ a b c d 「III」(オール讀物 1987年6月号)。野坂 1991, pp. 155–238
  6. ^ 「年譜 昭和3年2月23日」(42巻 2005, p. 17)
  7. ^ 「年譜 昭和5年」(42巻 2005, p. 19)
  8. ^ 「年譜 昭和8年8月」(42巻 2005, p. 29)
  9. ^ a b 「第一章」(年表 1990, pp. 9–30)
  10. ^ 「年譜 昭和12年4月」(42巻 2005, pp. 46–47)
  11. ^ 「芝居日記 19年」(1944年執筆。マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号)。26巻 2003, pp. 108–171
  12. ^ 「年譜 昭和19年」(42巻 2005, pp. 89–98)
  13. ^ 「平岡美津子・千之宛ての葉書」(昭和20年1月23日付)。38巻 2004, pp. 839–840
  14. ^ a b c 「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)
  15. ^ a b c d e f g h 「三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」(湯浅 1984, pp. 105–128
  16. ^ 「昭和16年12月」(日録 1996, p. 49)
  17. ^ a b 「第二章 戦中・戦後の苦闘」(佐藤 2006, pp. 39–72)
  18. ^ 「心ゆする思ひ出――『銀座復興』とメドラノ曲馬」(婦人公論臨時増刊「花薫る人生読本」1953年3月号)。28巻 2003, pp. 62–63
  19. ^ 「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」(毎日グラフ 1969年1月19日号)。35巻 2003, pp. 378–381
  20. ^ a b c 「ガンジス河の火葬場を描いた二人の作家」(びんぼん 2003
  21. ^ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(週刊朝日 1974年12月13日号-1975年4月18日号)。日録 1996, pp. 96–97
  22. ^ 「年譜 昭和21年6月-昭和23年2月」(42巻 2005, pp. 116–160)
  23. ^ 猪瀬直樹岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(オール讀物 1995年12月号)。猪瀬 2001, pp. 402–416
  24. ^ 「年譜 昭和25年10月-昭和26年」(42巻 2005, pp. 171–175)
  25. ^ a b 川島勝「三島由紀夫の豪華本」(9巻 2001月報)
  26. ^ a b 「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」(スタイル 1950年12月号)。27巻 2003, pp. 365–368
  27. ^ 「III 死の栄光――二つの事件――脅迫と告訴」(村松 1990, pp. 305–324)
  28. ^ 「第六章 『和漢朗詠集』の一句」(徳岡 1999, pp. 133–156)
  29. ^ 「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号)。岡山 2014, p. 31
  30. ^ a b 「朝顔」(婦人公論 1951年8月号)。ラディゲ 1980, pp. 221–228、18巻 2002に所収。
  31. ^ 「先生の予言どおりになったこと」(英子 2007, pp. 48–63)
  32. ^ 喜びの琴 附・美濃子』(新潮社、1964年2月)、24巻 2002に所収。
  33. ^ 渡辺広士「解説」(岬にて 1978, pp. 325–330)
  34. ^ 「同人誌『聲』その他の作家たち」(粉川 1975, pp. 153–160)
  35. ^ 「『熱帯樹』の成り立ち」(文学座プログラム 1960年1月)。熱帯樹 1986, pp. 296–297、31巻 2003, pp. 387–388
  36. ^ a b c d e 「第五回 多面体としての性」(徹 2010, pp. 63–75)

参考文献 編集

  • 『決定版 三島由紀夫全集9巻 長編9』新潮社、2001年8月。ISBN 978-4106425493 
  • 『決定版 三島由紀夫全集18巻 短編4』新潮社、2002年5月。ISBN 978-4106425585 
  • 『決定版 三島由紀夫全集24巻 戯曲4』新潮社、2002年11月。ISBN 978-4106425646 
  • 『決定版 三島由紀夫全集26巻 評論1』新潮社、2003年1月。ISBN 978-4106425660 
  • 『決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2』新潮社、2003年2月。ISBN 978-4106425677 
  • 『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684 
  • 『決定版 三島由紀夫全集31巻 評論6』新潮社、2003年6月。ISBN 978-4106425714 
  • 『決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10』新潮社、2003年10月。ISBN 978-4106425752 
  • 『決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡』新潮社、2004年3月。ISBN 978-4106425783 
  • 『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820 
  • 三島由紀夫『熱帯樹』新潮社〈新潮文庫〉、1986年2月。ISBN 978-4101050362 
  • 三島由紀夫『岬にての物語publisher=新潮社』〈新潮文庫〉1978年11月。ISBN 978-4101050263 
  • 三島由紀夫『ラディゲの死publisher=新潮社』〈新潮文庫〉1980年12月。ISBN 978-4101050294 
  • 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。NCID BN14429897 
  • 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185 
  • 猪瀬直樹『ペルソナ――三島由紀夫伝』小学館〈日本の近代 猪瀬直樹著作集2〉、2001年11月。NCID BA5430726X  - 付録が増補。
  • 岩下尚史『見出された恋 「金閣寺」への船出』雄山閣、2008年4月。ISBN 978-4639020240  - 文庫版(文春文庫)は2014年8月 ISBN 978-4167901639
  • 岩下尚史『ヒタメン――三島由紀夫が女に逢う時…』雄山閣、2011年12月。ISBN 978-4639021971 
  • 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年11月。NCID BN00378721 
  • 岡山典弘『三島由紀夫外伝』彩流社、2014年11月。ISBN 978-4779170225 
  • 川島勝『三島由紀夫』文藝春秋、1996年2月。ISBN 978-4163512808  - 著者は講談社での三島担当編集者。
  • 粉川宏『今だから語る 三島由紀夫』星の環会、1975年10月。NCID BN09329179 
  • 佐藤秀明『三島由紀夫――人と文学』勉誠出版〈日本の作家100人〉、2006年2月。ISBN 978-4585051848 
  • 徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』文藝春秋文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167449032  - 文春学藝ライブラリーで再刊、2015年10月 。ハードカバー版は1996年11月 ISBN 978-4163522302
  • 野坂昭如『赫奕たる逆光――私説・三島由紀夫』文藝春秋〈文春文庫〉、1991年4月。ISBN 978-4167119126  - ハードカバー版(文藝春秋)は1987年11月 ISBN 978-4163100500
  • 長谷川泉; 武田勝彦 編『三島由紀夫事典』明治書院、1976年1月。NCID BN01686605 
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫』文春文庫、1996年11月。ISBN 978-4167162047  - ハードカバー版(文藝春秋)は1972年5月 NCID BN04224118。雑誌『諸君!』1971年12月号-1972年4月号に連載されたもの。
  • 松本徹『三島由紀夫――年表作家読本』河出書房新社、1990年4月。ISBN 978-4309700526 
  • 松本徹『三島由紀夫を読み解く』NHK出版〈NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界〉、2010年7月。ISBN 978-4149107462 
  • 美輪明宏; 瀬戸内寂聴『ぴんぽんぱん ふたり話』集英社、2003年4月。ISBN 978-4087752953 
  • 村松英子『三島由紀夫 追想のうた ――女優として育てられて』阪急コミュニケーションズ、2007年10月。ISBN 978-4484072050 
  • 村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社、1990年9月。ISBN 978-4103214021  - 新潮文庫、1996年10月 ISBN 978-4101497112
  • 湯浅あつ子『ロイと鏡子』中央公論社、1984年3月。ISBN 978-4120012761  - 著者は幼馴染で、ロイ・ジェームス夫人。

関連項目 編集