平成輔
(烏丸成輔)
時代 鎌倉時代末期
生誕 正応4年(1291年
死没 元弘2年/正慶元年5月22日
1332年6月15日
別名 平宰相
戒名 (伝)昭徳院忠誉義道
墓所 (伝)神奈川県小田原市南町、報身寺
官位 参議正三位、贈従二位
主君 花園天皇後醍醐天皇
氏族 桓武平氏高棟流
父母 父:平惟輔
行輔、女子(左衛門佐局)?
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平 成輔 (たいら の なりすけ)は、鎌倉時代末期の公卿権中納言平惟輔の子。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。邸宅地に因んで家名烏丸と号する。また平宰相とも号した。

経歴編集

 
平成輔の墓所
 
平成輔の位牌(報身寺安置)

左衛門権佐五位蔵人兵部権少輔などを経た後、弁官として昇進。元亨4年(1324年)4月蔵人頭中宮亮に任じられる。正中の変直後の10月に辞職し、所労と称して籠居したが、花園上皇は「実事にあらざるか。諸人不審」[1]と訝しんでいる。嘉暦2年(1327年参議として公卿に列し、治部卿弾正大弼を兼任。同3年(1328年)1月従三位に叙され、3月丹波権守を兼ねた。元徳2年(1330年)1月正三位に叙されるも、間もなく父惟輔のに遭って参議を辞している。

後醍醐天皇の討幕の密議には、日野資朝日野俊基四条隆資花山院師賢とともに参加。同年(1330年)4月清水寺大判事中原章房暗殺されたが、これは、章房が討幕について諫奏したため、密議の漏洩を恐れた天皇の密命により、成輔が瀬尾兵衛太郎を刺客として殺害させたものという[2]元弘元年/元徳3年(1331年)討幕計画が露見したため(元弘の変)、8月24日天皇は京都を脱出して奈良に潜幸。これに供奉しなかった成輔は、翌25日六波羅探題により拘束され、丹後前司長井宗衡か)の許へ預けられる。元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から斬罪の処分が伝えられると、翌月河越円重に従って鎌倉へ護送され、その途次の相模早川尻(伊豆早川宿とも)で梟首された。享年42。

子の行輔は南朝に仕えたと思われるが[3]、明確な史料がないため、経歴など詳しいことは不明である。

墓所編集

現在、早川河口に近い神奈川県小田原市南町の報身寺に墓と伝承される石祠が建つ。初め潮音寺境内にあり、1908年明治41年)の廃寺により報身寺が相続。1916年大正5年)に改葬した際、後頭骨胸骨大腿骨などを検出したという。1931年昭和6年)12月21日従二位追贈され、没後600年に当たる1932年(同7年)4月には、県神職会・小田原町の主催による記念式典が同町高等女学校で開かれている。1957年(同32年)墓が市史跡に指定された。

小田原市市制50周年記念「ときめき小田原夢まつり」の開催期間中の1991年平成3年)5月22日には、当時の市長ら市関係者も出席し慰霊祭が行われた。かつて墓所の傍らには樹齢500年を超す松の巨木があったが、付近の開発に伴い、市が根を切ったことが原因で枯れてしまった。切り株は報身寺に残されている。

略譜編集

和暦 西暦 月日 事柄
正応4年 1291年 生誕。
応長元年 1311年 1月 春宮権大進に見任[4]
正和4年 1315年 5月 右衛門権佐に見任[5]
文保元年 1317年 3月4日 蔵人に補任。時に正五位下左衛門権佐
文保2年 1318年 2月11日 兵部権少輔に遷任。元民部少輔
元応元年 1319年 3月9日 右少弁に遷任し、蔵人・権少輔を去る。
元応2年 1320年 3月24日 右中弁に転任。
4月12日 従四位下に昇叙、修理右宮城使に補任。
元亨元年 1321年 1月5日 従四位上に昇叙。
4月6日 左中弁に転任。
6月6日 修理左宮城使に補任。
12月29日 備中介を兼任。
元亨2年 1322年 1月9日 記録所寄人に補任。
元亨4年 1324年 4月17日 正四位下に昇叙。
4月27日 蔵人頭中宮亮に補任し、左中弁を去る。
10月29日 蔵人頭・中宮亮を辞す。
嘉暦2年 1327年 3月24日 蔵人頭に還任し、治部卿に任官。
7月16日 参議に補任し、治部卿元の如し。
8月14日 弾正大弼を兼任。
嘉暦3年 1328年 1月5日 従三位に昇叙。
3月16日 丹波権守を兼任。
元徳元年 1329年 1月13日 弾正大弼を停任。
9月26日 治部卿を停任。
元徳2年 1330年 1月5日 正三位に昇叙。
2月11日 参議を辞す。
元弘元年/元徳3年 1331年 8月25日 六波羅探題に拘束される。
元弘2年/正慶元年 1332年 5月22日 相模早川尻で梟首、享年42。
昭和6年 1931年 12月21日 従二位を追贈。

脚注編集

  1. ^ 花園天皇宸記』元亨4年10月30日条(原漢文)
  2. ^ 島津家本・吉川家本・今川家本『太平記』巻1
  3. ^ 吉野拾遺』下に「平三位行輔卿」として登場する。
  4. ^ 公衡公記』別記
  5. ^ 『公衡公記』

参考文献編集