平木隆三
平木 隆三(ひらき りゅうぞう、1931年10月7日 - 2009年1月2日)は、大阪府堺市出身の元サッカー選手(ディフェンダー)・コーチ・監督。
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名前 | ||||||
カタカナ | ヒラキ リュウゾウ | |||||
ラテン文字 | HIRAKI Ryuzo | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1931年10月7日![]() | |||||
没年月日 |
2009年1月2日(77歳没)![]() | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
1948-1950 | 大阪府立岸和田高等学校 | |||||
1951-1956 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1957 | 湯浅電池 | |||||
1958-1966 | 古河電気工業 | 6 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1954-1963[1] |
![]() | 30 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
1965 |
![]() | |||||
1967-1969 | 日本ユース代表 | |||||
1962-1965 | 古河電気工業 | |||||
1992-1993 | 名古屋グランパスエイト | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1993年Jリーグ開幕当時の名古屋グランパスエイト監督。
来歴編集
現役時代編集
岸和田高校入学時から本格的にサッカーを始め、1950年には全国高等学校サッカー選手権大会に大阪府代表として出場。ポジションはインサイドFWであり、ベスト4に進出した。高校卒業後は1951年に関西学院大学へ進学し、早稲田大学との定期戦でレギュラーDFとなった。秋の関西学生サッカーリーグ、12月の東西学生王座決定戦では優勝を飾る。3年次の1953年には西ドイツ・ドルトムントで開かれたユニバーシアードに出場し、4年次の1954年に日本代表デビュー。天皇杯でも2度の優勝を経験し、大学卒業後は湯浅電池(1957年)を経て、1958年に古河電気工業へ入社。1960年には天皇杯で企業チーム初の優勝を果たし、同年夏の日本代表欧州ツアーではデットマール・クラマーから初めて指導を受けた。1961年には企業チーム初の天皇杯連覇を達成し、1963年からは監督を兼任。1965年には日本ユース代表監督も兼任し、1966年からは選手専任に戻ったが、同年限りで現役を引退。
日本代表では国際Aマッチ27試合1得点、Bマッチ3試合、Cマッチ40試合に出場した。その間、メルボルン(1956年)、東京(1964年)と二度の五輪代表メンバーに選出された。特に東京五輪では怪我のため試合出場は無かったが、主将としてベスト8進出に貢献。大会終了後に代表を引退。
指導者時代編集
引退後は日本ユース代表監督(1967年 - 1969年)、メキシコシティー・ミュンヘン・モントリオール日本代表コーチ(1967年 - 1968年, 1971年, 1975年)、日本B代表監督、名古屋グランパスエイト監督(1992年 - 1993年)を歴任。メキシコ五輪では対戦相手の偵察や戦力分析に手腕を発揮し、銅メダル獲得に貢献。日本B代表監督としては1974年のマラハリムカップ( インドネシア)でチームを優勝に導いた。また、日本サッカー協会のフロントマンとしても活躍し、天皇杯全日本サッカー選手権大会を現在のように協会登録チーム全てに出場資格を与える制度改正や、選手の年齢別チーム登録の推進など、現在の日本サッカーのシステム構築に地道に取り組んだという[2]。日本サッカー協会技術委員長時代には自国開催の1979 FIFAワールドユース選手権に携わった。名古屋監督1年目にJリーグのプレマッチとして行われたJリーグカップは、ジョルジーニョ、小倉隆史、森山泰行、中西哲生、岡山哲也らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、3位の成績を収めた[3]。なお、この年の天皇杯では、翌年のJリーグ参加が決定していた10チームの中で唯一1回戦で敗退した。2年目の1993年はハンス・オフトの助言を受けた小倉がオランダへ留学した[3][4]。5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では、浅野哲也とリネカーのゴールによって日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに2-1で勝利[5]。同16日にJリーグ開幕戦を迎え、鹿島にジーコのハットトリックを喫するなど0-5で敗れる[6]。19日の第2節で浦和を相手に初勝利、チーム初得点は森山泰行であった[7]。序盤は勝利数が先行するも、7月には敗戦数が勝利数を上回る借金生活となる[7]。司令塔のジョルジーニョ頼みでチーム戦術も乏しく、期待されたリネカーも怪我がちで7試合に出場して1得点で終わり[8]、チーム成績も低迷して同年退任。
晩年は愛知の東海スポーツサッカークラブの顧問にも就任し、若手の育成にも力を注いでいた[9]。
所属クラブ編集
- 大阪府立岸和田高等学校
- 関西学院大学
- 1957年 湯浅電池
- 1958年 - 1966年 古河電工
個人成績編集
日本サッカーリーグ
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 古河 | JSL | 0 | - | |||||||
1966 | 0 | - | |||||||||
通算 | 日本 | JSL | 6 | 0 | - | ||||||
総通算 | 6 | 0 | - |
代表歴編集
出場大会編集
- 1954 FIFAワールドカップ・予選
- アジア競技大会(1954、1958、1962)
- メルボルンオリンピック
- ローマオリンピック予選
- 1962 FIFAワールドカップ・予選
試合数編集
- 国際Aマッチ 30試合 1得点(1954-1962)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1954 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
1955 | 4 | 0 | 3 | 0 | 7 | 0 |
1956 | 3 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 |
1957 | 0 | 0 | 7 | 0 | 7 | 0 |
1958 | 4 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
1959 | 10 | 1 | 7 | 1 | 17 | 2 |
1960 | 1 | 0 | 12 | 1 | 13 | 1 |
1961 | 2 | 0 | 5 | 0 | 7 | 0 |
1962 | 3 | 0 | 4 | 0 | 7 | 0 |
通算 | 30 | 1 | 41 | 2 | 71 | 3 |
得点数編集
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1959年9月3日 | マレーシア、クアラルンプール | シンガポール | ○ 4-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
監督成績編集
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1963 | - | 古河 | - | - | 推薦辞退 | |||||
1964 | - | - | - | 優勝 | ||||||
1965 | JSL | 3位 | 14 | 20 | 10 | 0 | 4 | - | ベスト8 | |
1992 | J | 名古屋 | - | ベスト4 | 1回戦 | |||||
1993 | 9位 | 36 | - | 12 | - | 24 | 予選リーグ | ベスト8 |
その他
- 全国都市対抗サッカー選手権大会 優勝(1964年)
脚注編集
- ^ a b “平木 隆三”. サッカー日本代表データベース
- ^ 平木隆三さんの思い出(上) - 牛木素吉郎サッカー日誌、2009年1月7日
- ^ a b 富森揚介「ザ・フェース東海 小倉隆史」朝日新聞、1993年12月31日
- ^ 当初は半年の予定で、後に1年に延長している。
- ^ 「リネカー国内初ゴール」『中日新聞』1993年5月3日付朝刊12版、16面。
- ^ 今井康一 (2009年8月6日). 東洋経済新聞社: “J1名古屋グランパスの長すぎる低迷、Jでは「トヨタ流」の効力なし?”. 東洋経済ONLINE. 2021年4月15日閲覧。
- ^ a b “7月4日J1再開で名古屋グランパス通算400勝を決める!節目の勝利を振り返る”. 中日スポーツ. (2020年6月27日) 2021年5月19日閲覧。
- ^ “名古屋グランパス、歴代ガッカリ外国籍選手5人。リネカーだけじゃない…歴史に埋もれたW杯優勝メンバーも”. FOOTBALL CHANNNEL (2020年5月15日). 2021年4月26日閲覧。
- ^ 東海スポーツサッカー選手コース
- ^ “初代監督・平木氏死去”. 中日スポーツ (2009年1月3日). 2012年8月19日閲覧。[リンク切れ]
関連項目編集
外部リンク編集
- 平木隆三 - 国際オリンピック委員会 (英語)
- 平木隆三 - オリンピックチャンネル
- 平木隆三 - Olympedia (英語)
- 平木隆三 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 平木隆三 - National-Football-Teams.com (英語)
- 平木隆三 - WorldFootball.net (英語)
- 平木隆三 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 平木隆三 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- 平木隆三 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 平木隆三 - J.League Data Siteによる監督データ
- 平木隆三:日本サッカーアーカイブ