平 良繇(たいら の よしより[1]、よししげ。生年は元慶2年(878年)9月6日?[2]、没年未詳)は、桓武平氏高望流の一族。平良茂とも書かれる。平良孫と書かれることもある。

平高望(高望王)の子(四男[1][3]または七男[4])であり、兄弟に平国香(良望)・平良兼平良将平将門の父)・平良広平良文平良茂平良正らがいる(兄弟についても系図によって様々でありこの項では詳細は割愛する)。

良繇について、その詳細はほとんど分かっていない。

官職 編集

寛永諸家系図傳』では鎮守府将軍[1]、『系図纂要』では下野[4]になったとある。ただしその信憑性はない[5]

子孫 編集

『寛永諸家系図傳』には掲載はない[1]が、『系図纂要』の平氏系図では、平忠光[6]平経邦(つねくに)が良繇の子に位置付けられている[4]。但し、後者の経邦に関しては、『尊卑分脈』では平良広の子としており[3]、『系図纂要』でもその旨は書かれている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d 『寛永諸家系図傳』平氏系図
  2. ^ 須藤春峰『東北中世史 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年
  3. ^ a b 尊卑分脈
  4. ^ a b c 『系図纂要』平氏系図
  5. ^ 『平将門と東国武士団』鈴木哲雄 2015年 吉川弘文館
  6. ^ 『系図纂要』では常陸掾になったとしている。息子の名前は『系図纂要』では平常高、『尊卑分脈』では平恒高(但し、忠光の父は平良文)となっているが、いずれも「たいら の つねたか」と読めるという点では共通している。

参考文献 編集