平賀 隆宗(ひらが たかむね)は、戦国時代武将安芸国人領主平賀氏当主。父は平賀興貞

 
平賀 隆宗
時代 戦国時代
生誕 大永4年(1524年
死没 天文18年7月3日1549年7月27日
別名 通称:新四郎→太郎左衛門尉
戒名 天巌、高源
墓所 平賀氏菩提寺明道寺跡
広島県東広島市高屋町高屋堀1065)
官位 左衛門尉
主君 大内義隆
氏族 藤姓平賀氏
父母 父:平賀興貞
兄弟 隆宗広相梨羽景行隆保
女(香川元景室)
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生涯編集

大永4年(1524年)、安芸国の国人領主・平賀興貞嫡男として生まれる。家の慣例に倣い、大内氏の当主・大内義隆より「隆」の偏諱を受けて隆宗と名乗った。

父・興貞が頭崎城主になった後、大内氏・尼子氏への対応で大内派の祖父・平賀弘保と尼子派の父が争う事態となった。隆宗は弟の新九郎(後の平賀広相)と共に祖父に味方した。この争いは合戦にも発展し、天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就が介入して頭崎城を落とし、父・興貞は出家、隆宗が平賀氏の家督を継承した。

天文12年(1543年)、備後神辺城主の山名理興が大内氏に反旗を翻した(神辺合戦)。隆宗は他の大内傘下の国人領主らと共に討伐に向かったが、天文18年(1549年7月3日に陣中で病死した。享年26。家督は義隆の介入によって、小早川氏庶流の平賀隆保が継いだ。

参考資料編集