平野謙 (野球)

平野 謙(ひらの けん、1955年6月20日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手外野手、右投両打)、指導者、評論家。妻は元タレント秋本理央、姉はエッセイスト内藤洋子

平野 謙
群馬ダイヤモンドペガサス 監督 #89
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市中村区道下町[1]
生年月日 (1955-06-20) 1955年6月20日(62歳)
身長
体重
179 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1977年 ドラフト外
初出場 1981年4月4日
最終出場 1996年6月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

目次

経歴編集

プロ入り前編集

両親は平野金物店を営んでおり、6歳上の姉・洋子がいる4人家族だった。母に似て幼少期から運動能力が優れ、4歳の頃に父が買ったビニール製のグラブキャッチボールを始めた[2]。小学校4年で野球チームに入ると5年生で選抜チームの遊撃手を務めるようになり、「将来は絶対プロ野球選手になれる」との高い評価を受ける[2]。なお、小学生時代は王貞治に憧れ、部屋に貼ったポスターの前で素振りをしていたという[3]

一方で1961年肝硬変で亡くなった父に続き、1967年には母が胃ガンで亡くなる。このため姉が高校を1年間休学して金物店を経営するようになり、謙も店を手伝った。中学校は敷地が狭くて野球部がなかったため、サッカー卓球バスケットボールなど複数の部活を掛け持ちしていた[3]。やがて近所に大型のスーパーマーケットが開店したこともあって経営が苦しくなり、姉弟は1970年の冬に金物店を廃業して土地・家屋を売り、犬山市に転居した。

謙は地元の犬山高校に進学し、強豪ではなかった同校野球部を投手として盛り立てた。特に2年生の夏は愛知県大会大宮龍男を擁する享栄高校を破り[4]ベスト4まで進んだが、この試合で3安打を放つも同学年の山倉和博を擁する東邦高校に敗れた[5]。高校時代の活躍が認められて名古屋商科大学特待生として進学し[6]、投手として登板しない試合では外野手で4番を打つこともあった[7]。エースだった3年次の秋季リーグ戦では8勝をあげてMVPを受賞している[5]愛知大学リーグでは投手として55試合に登板して19勝18敗、防御率2.31。打者として62試合に出場、145打数40安打、打率.276、2本塁打、18打点。

1977年のドラフト会議では中日ドラゴンズが指名した6選手中3選手が入団を拒否したため、球団はドラフト外での獲得を積極的に進め、その一環として平野の入団も決まった[8]。担当スカウトは山崎善平で、契約金、年俸はそれぞれ1,400万円、264万円、背番号は81だった[9]。一方で三菱重工名古屋への就職が内定していたため大学との間で問題となり、野球部OB会から除名されるとともに免除されていた学費も卒業時に一括納入している[4]

プロ時代編集

中日時代編集

1年目の1978年投手としてウエスタン・リーグで登板し、2勝を挙げた。しかし大学時代に死球で痛めた右肘が春先に痛む事もあり、2年目の春季キャンプでコーチの広野功外野手転向を勧められる[7]。紅白戦で自信を持って投げたストレート藤波行雄に簡単に打たれたのを契機に転向を決め、この年はウエスタン・リーグで35試合に出場し打率.276の成績を残している[7]。3年目の1980年は打撃不振に陥った事もあって俊足を生かすため右打ちからスイッチヒッターに転向し、広野とともに練習を重ねた。同年はウエスタン・リーグで61試合に出場し、出場機会は増えたが打率は.271とほぼ前年並みだった[7]

この年のシーズンオフには戦力外になりかけるが新監督に就任した近藤貞雄の進言により残留となる。近藤は打力偏重のチーム構成もあって野手の分業制を掲げ、守備や走塁のスペシャリストを発掘しようとした[10]。翌1981年オープン戦補殺を成功させたことなどから開幕一軍入りを果たし、シーズン中は主にチャーリー・スパイクス守備固めなどで試合に出場した。しかし引き続き打撃が課題だったため、この年は一軍に帯同して110試合に出場しながら昼は二軍の試合にも出場している[11]。同年オフにスパイクスとレイ・コージが解雇されると、左翼手には大島康徳がコンバートされ右翼手田尾安志がレギュラーだったものの、中堅手のポジションが空白となった。

1982年は前年に打率.292を記録した豊田誠佑と中堅手の座を争ったが、オープン戦で豊田が死球を受けて負傷している間に好成績を残し、2番・中堅手として開幕スタメン入りした[12]。開幕戦では自打球を右膝に当てて負傷し途中交代したが、翌日の試合ではテーピングをして本塁打を放つほどの気迫で[13]そのまま2番打者として1年間レギュラーに定着した。同年は1番打者の田尾が174安打で最多安打に輝き、平野は当時のシーズン記録となる犠打51個を記録している[14]。得意の守備では最多補殺を記録し、打撃面でもチーム3位の打率.288の成績を残してドラゴンズの優勝に貢献した。なお、この年の日本シリーズでは「石コロ事件」と呼ばれる珍プレーの当事者となっている。

1983年から背番号が前年オフで引退した富田勝が着けていた3となり、2番打者として活躍。1982年には初のゴールデングラブ賞に選ばれている。1984年のオフに田尾が西武に交換トレードされると、1985年からはトップバッターを務めるようになった[15]。同年は初の打率3割を記録し、2回目のゴールデングラブ賞も受賞している。さらに1986年には48盗塁で最多盗塁のタイトルを獲得し[16]、初のオールスターゲーム出場も果たすなど、セントラル・リーグを代表する外野手となっていった。またオフにはチームの野手で最高額となる年俸4,000万円[17]で契約を更改し、鈴木孝政の後任としてドラゴンズの選手会長に就任している。

しかし1987年は左ふくらはぎアキレス腱を痛めてキャンプの調整から出遅れ、さらに4月16日の対広島戦で北別府学から死球を受けて右手小指の付け根を亀裂骨折し、一軍登録を抹消される[18]。6月に一軍に復帰したがその間に彦野利勝が台頭し、平野の復帰後は右翼手のレギュラーとなった[18]。この年から監督に就任した星野仙一は選手に闘争精神を強く求め[18]、平野の淡白な初球打ちや出塁時のリードが小さく投手を揺さぶらないプレー、そして練習量に文句を言う姿勢などが問題視された[19][18]。さらに7月21日に3.5ゲーム差で迎えた首位巨人との直接対決で、3対3の4回1死にウォーレン・クロマティが打ち上げた打球を遊撃手の宇野勝と譲り合うような形でヒットにしてしまい、この回に3点を奪われると平野はそのままベンチに下げられた[13]。この試合の敗戦を機に不動のレギュラーの座を失い、同年の出場試合数は90試合にとどまった。

秋季キャンプ中の11月18日に星野からトレードを告げられ、小野和幸との交換トレードで西武ライオンズに移籍した[20]。当初は個人的な好き嫌いでチームを放出されたのではと星野を恨みもしたが[20]、実際は石毛宏典AK砲をつなぐ2番打者として森祇晶の方が積極的に平野を欲しがっていた[20]。平野の後任の選手会長には宇野勝が就任した。なお、夫人は実家が熊谷市であり、同じ県内に本拠地を置く西武への移籍を喜んだという[20]。中日時代の応援歌の原曲は、名前にちなんで『狼少年ケン』であった[21]

西武時代編集

森監督は現役時代に巨人で見ていた森永勝也らへの悪質ないじめを反面教師として移籍選手に気を配り[20]、平野には「全130試合に出場してもらう」と声をかけていた[20]。合同自主トレでもベテランとして調整は自由に任されていたが、周囲がベテランもハードなトレーニングをしているのを見て意識を改めた[22]。数ヶ月もせずに「自分以上にひょうきん」と石毛に言われるようになるなど西武のチームカラーにもなじみ[23]、移籍初年の1988年は自己最高の打率.303を記録するとともに、リーグ最多の41犠打を成功させている。この年は活躍の一方で体力の消耗も激しく、日本シリーズの頃にはやつれこけながらもシリーズ全5試合に出場した[22]

以後は西武で2番・右翼手に定着し、1989年には出場98試合ながら、日本記録まであと2つと迫るシーズン21補殺を記録した[24][20]。翌1990年には吉田義男の日本記録を更新する通算265個目の犠打を決め、1988年から1992年まで5年連続でパ・リーグの最多犠打を記録している。こうして西武黄金時代になくてはならない存在となり、本人も中日時代には成し遂げられなかった日本シリーズ優勝を4度も経験した。1992年オフには巨人吉村禎章とのトレードが報じられ、強打者のオレステス・デストラーデが退団し若い大塚光二が成長していた事もあって、平野自身もトレード成立の可能性は否定しなかったという[25]

1993年クラウチングスタイルへの変更などを試行した[4]が打率.239と年齢的な衰えを見せ始め、6年連続9回目のゴールデングラブ賞を受賞したものの日本シリーズでは第7戦でスタメンを外れた。前年の契約更改で1億円となった年俸[26]もネックとなり、チーム若返りを目指す西武からオフに戦力外通告を受けてチームを去った。

ロッテ時代編集

子供に野球選手としての姿を見せたいとの思いもあって現役続行を希望した[27]ため自由契約の身分となり、八木沢荘六監督からチームのまとめ役として誘われ[28]1994年千葉ロッテマリーンズに入団。なお、かつてのトレード相手の小野和幸も同時にロッテに移籍している。翌1995年にはコーチ兼任となった。1996年5月23日の対近鉄戦(ナゴヤ球場)で史上初の通算450犠打を達成するが、6月頃に移動の際に乗った新幹線のテーブルに右手小指をはさんで骨折し一軍登録抹消となった。同年限りで現役を引退している。

引退後編集

引退後はそのままロッテに残ってコーチに就任し、さらに1999年から2001年までは二軍監督2002年はヘッドコーチを務めた。二軍監督をしていた時は、選手のケガに気をつけながら、勝つ喜びと負ける悔しさを教えてチームプレーの自覚を促すことを目標とした[29]。勝負にこだわりながらもファームは育成の場と割り切って、不慣れなポジションを守らせたり、マウンド度胸を付けさせるために打ち込まれても投げさせるなどの手法も取っていた[29]。自身の経験も踏まえ、個人の実力がなければチームプレーも成立せず、技術を磨いた上でチーム力を上げる存在となるよう指導を心がけたという[29]

ロッテ退団後の2003年住友金属鹿島硬式野球部のコーチに就任し、2004年からは総合コーチとしてベンチ入りしている。また平野と同時期にロッテから礒恒之も入部した。2004年は都市対抗への出場を逃したものの、悔しさをバネに真夏も猛練習を行い[30]秋の日本選手権に18年ぶりに出場した。翌2005年都市対抗への出場とベスト8進出を果たしたが、北海道日本ハムファイターズのコーチに誘われたことから同年限りで退部している。なお、住金鹿島時代は東海テレビ放送東海ラジオ放送J SPORTS東京メトロポリタンテレビジョン野球解説者中日スポーツ評論家も務めた。

2006年は日本ハムの一軍外野守備走塁コーチ(一塁ベースコーチ)に就任。監督のトレイ・ヒルマンが目指したスモールベースボールと合致し、25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に大きく貢献している[31]。翌2007年はチームの盗塁、盗塁成功率、犠打が前年より向上し、失策はリーグ最小を記録するなど、守り勝つ野球のさらなる徹底に尽力した。特に田中賢介にはバントをつきっきりで指導し、田中は平野自身が記録していたシーズン犠打のパ・リーグ記録を塗り替えるまでに成長した[32]2008年に一軍打撃コーチに転任したが、チームの打撃不振のため解任された。

2009年からは再び解説者となり、東海テレビ・東海ラジオに加え日本ハムコーチを務めた縁から北海道放送でも解説者を務める。また北海道文化放送の日本ハム戦の解説にも登場。他の解説者と比べると華やかさはないものの、経験を活かした実直で分かりやすい、冷静な解説が持ち味。比較的ひいきなく解説する[要出典]。なお、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersでプレーしていた。2010年にはTVhファイターズ中継でも解説者として登場した。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された[33]

2010年11月3日放送のHBCラジオファイターズDEナイト!」に出演、2011年シーズンは起亜タイガースのバッティングコーチを務める旨を自ら語った。同月の日向市キャンプよりチームに帯同し、2011年1月起亜と正式にコーチ契約を結んだが、1年限りで退任した。

2012年からは中日の一軍外野守備走塁コーチを務めることが決定し、三塁コーチャーを務める[34]。25年ぶりの中日への復帰となった。しかし、走塁ミスやサインミス等により5月19日に三塁コーチャーを外され、一時的に二軍に降格された。なお、一軍への復帰後には一塁コーチャーに専念。2013年には、正式に一塁コーチャーへ配置されたが、10月15日に球団から来季の契約を結ばないことを通告された[35]2014年からは再び野球評論家となり、東海ラジオとSTVラジオの解説者を務める。

2015年2月18日BCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスの野手コーチに就任[36]2016年より監督を務める[37]。2016年は、群馬はリーグ東地区で前後期連覇し[38]、地区チャンピオンシップ[39]、リーグチャンピオンシップもそれぞれ制して初年度にして年間総合優勝を達成した[40]四国アイランドリーグplus優勝チームの愛媛マンダリンパイレーツと対戦したグランドチャンピオンシップも初戦2連敗からの3連勝で制し、チーム初の「独立リーグ日本一」を達成した[41]

人物編集

現役時代より気取らない性格と人柄の良さで知られる。西武時代は後輩から「謙さん」と呼ばれ、慕われていた。

西武時代に居を構えた所沢市の自宅から、ロッテでは浦和市(現・さいたま市南区)の練習所や千葉市の球場へ通勤していた。

プレースタイル編集

打撃編集

スイッチヒッター転向の際はコーチの広野功がつきっきりで指導し、左打席ではとにかくダウンスイングで思い切りボールを叩いた。当初は前に打球が飛ばず、右足のはコブだらけになったという[7]

また、生涯犠打数451はプロ野球史上2位の記録である[42]。バントの際には打球の勢いを殺すことを意識しすぎるよりもコースが重要だと考え、フィールディングが良くなければ投手の前に転がすのが良いと語っている[12]。また、走者を送った後にクリーンアップが凡退すると落胆も大きいが、試合に勝てば自分が安打を打たなかった事など気にならなかったという[22]

守備編集

ゴールデングラブ賞を9回、最多補殺も5回記録しており、プロ野球史上屈指の強肩・好守の外野手であった。西武で右翼手として中堅手秋山幸二と構成した右中間守備は史上最強とまで評され[43]、守備範囲の分担もスムーズだった。

外野守備の見せ場は普通に守備範囲に飛んできた球を簡単に捕る事だと述べており[44]、打球を予測する状況判断能力と、打球を追う際に頭が上下動しないフットワークの良さを、外野守備に重要な能力として挙げている[44]。捕球後はいかに早く送球できるかを重視し、普通の外野手が5、6歩ステップするところを3歩で送球できるようになった事で進塁を防ぐ機会が増えた[11]。また、素早い送球のために井手峻コーチとゴロ捕球の研究を重ね、ダッシュして右足を前にした時の歩幅の中にボールが入るような体勢で捕球するという、当時の定説と異なるスタイルを確立している[11]

現役時代は強肩の評価が高く、俊足の広瀬哲朗をライトゴロに仕留めたこともある[44]。投手時代の経験から、無理な体勢でも必ず送球方向を見ていたためコントロールも良かった[45]補殺1989年の21個をピークにその後は減少しているが、強肩を恐れて進塁を控えるほうが次打者を抑える可能性があって望ましかったという[43]

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1981 中日 110 121 110 28 26 2 2 0 32 4 8 6 7 0 2 0 2 16 0 .236 .263 .291 .554
1982 125 514 448 58 129 13 5 4 164 33 20 9 51 2 12 0 1 60 1 .288 .307 .366 .673
1983 127 495 434 63 107 26 0 7 154 30 14 11 27 2 25 0 7 65 2 .247 .297 .355 .652
1984 108 442 381 54 111 11 1 3 133 31 30 5 36 2 21 0 2 37 8 .291 .330 .349 .679
1985 130 591 527 69 158 26 5 6 212 49 17 8 28 4 31 2 1 57 10 .300 .337 .402 .740
1986 130 576 541 56 146 15 1 11 196 44 48 21 6 0 27 5 2 58 6 .270 .307 .362 .669
1987 90 344 317 28 85 12 3 4 115 26 13 6 11 0 16 2 0 42 5 .268 .303 .363 .666
1988 西武 130 589 508 75 154 24 2 7 203 46 18 8 41 3 37 0 0 59 9 .303 .349 .400 .748
1989 98 437 365 49 98 21 7 2 139 32 6 4 36 1 35 1 0 52 8 .268 .332 .381 .712
1990 123 532 445 55 119 21 4 2 154 42 23 8 50 2 34 0 1 72 2 .267 .320 .346 .666
1991 125 552 459 60 129 19 6 3 169 41 13 5 50 3 40 0 0 59 5 .281 .337 .368 .705
1992 122 512 436 57 122 19 1 4 155 45 15 7 48 3 24 0 1 65 9 .280 .317 .356 .672
1993 100 361 309 17 74 11 2 0 89 25 4 2 29 2 20 0 1 44 3 .239 .286 .288 .574
1994 ロッテ 81 258 229 25 52 5 4 0 65 15 1 0 14 3 12 0 0 31 6 .227 .262 .284 .546
1995 61 141 120 12 27 4 0 0 31 12 0 2 8 1 12 0 0 30 7 .225 .293 .258 .552
1996 23 59 47 6 14 5 0 0 19 4 0 0 9 1 2 0 0 12 0 .298 .320 .404 .724
通算:16年 1683 6524 5676 712 1551 234 43 53 2030 479 230 102 451 29 350 10 18 759 81 .273 .316 .358 .674
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号編集

  • 81 (1978年、1999年 - 2002年)
  • 57 (1979年 - 1982年)
  • 3 (1983年 - 1987年)
  • 24 (1988年 - 1993年)
  • 8 (1994年 - 1996年)
  • 87 (1997年 - 1998年)
  • 82 (2006年 - 2008年)
  • 89 (2011年、2015年 - )
  • 75 (2012年 - 2013年)

関連情報編集

関連書籍編集

  • 『わが故郷は平野金物店』(内藤洋子著、エフエー出版、1991年3月、ISBN 4872080041

出演番組編集

登場作品編集

脚注編集

  1. ^ 婦人公論、1991年9月号、P.402
  2. ^ a b 婦人公論、1993年5月号、P.276
  3. ^ a b 婦人公論、1993年5月号、P.277
  4. ^ a b c 週刊ベースボール、1993年3月1日号、P.112
  5. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月4日号、P.96
  6. ^ 婦人公論、1993年5月号、P.278
  7. ^ a b c d e Number、1991年11月5日号、P.78
  8. ^ Number、1991年11月5日号、P.77
  9. ^ 婦人公論、1993年5月号、P.279
  10. ^ Number、1991年11月5日号、P.79
  11. ^ a b c Number、1991年11月5日号、P.80
  12. ^ a b Number、1991年11月5日号、P.81
  13. ^ a b Number、1991年11月5日号、P.75
  14. ^ それまでの記録は1965年の近藤昭仁大洋)の41個。平野の記録は1988年に和田豊阪神)に破られた
  15. ^ Number、1991年11月5日号、P.73
  16. ^ 2007年荒木雅博が盗塁王を獲得するまで、中日選手として最後の盗塁王であった
  17. ^ 数週間後にトレードで移籍してきた落合博満に抜かれている
  18. ^ a b c d Number、1991年11月5日号、P.74
  19. ^ 星野就任以前のドラゴンズは、チーム全体がマイペースな練習を行っていた
  20. ^ a b c d e f g Number、1991年11月5日号、P.82
  21. ^ 2012年からは中日のチャンス時の応援歌に使用されている
  22. ^ a b c Number、1991年11月5日号、P.84
  23. ^ 週刊ベースボール、1988年7月18日号、P.120
  24. ^ シーズン20補殺以上は、1981年のジム・タイロン南海)の20補殺以来
  25. ^ 週刊ベースボール、1993年3月1日号、P.111
  26. ^ 婦人公論、1993年5月号、P.275
  27. ^ 婦人公論、1994年3月号、P.327
  28. ^ 週刊ベースボール、1993年12月27日号、P.112
  29. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年2月19日号、P.118
  30. ^ 住友金属鹿島野球部後援会 2005年12月リポート[リンク切れ]
  31. ^ 副官たちの熱い戦い
  32. ^ 【12月6日】1993年(平5) ゴールデングラブ賞なのに戦力外…平野謙、半額で新天地へ
  33. ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  34. ^ 来季のコーチングスタッフについて”. 中日ドラゴンズ (2011年11月21日). 2011年11月21日閲覧。
  35. ^ 来季の契約について中日球団公式サイト2013年10月15日配信
  36. ^ 野手コーチ就任のお知らせ”. 群馬ダイヤモンドペガサス (2015年2月18日). 2015年2月18日閲覧。
  37. ^ 新監督就任のお知らせ”. 群馬ダイヤモンドペガサス (2015年10月29日). 2015年10月31日閲覧。
  38. ^ “ペガサス完全優勝 6年ぶり BCリーグ東地区”. 上毛新聞. (2016年9月10日). http://www.jomo-news.co.jp/ns/6214734346468786/news.html 2016年9月10日閲覧。 
  39. ^ “ペガサス 東地区優勝 2年ぶり 21日に東西決戦”. 上毛新聞. (2016年9月17日). http://www.jomo-news.co.jp/ns/2514740386084671/news.html 2016年9月22日閲覧。 
  40. ^ “ペガサス 2年ぶりBCリーグ制覇 石川に3勝1敗”. 上毛新聞. (2016年9月26日). http://www.jomo-news.co.jp/ns/1114748198788838/news.html 2016年9月26日閲覧。 
  41. ^ ペガサス初日本一 (PDF) - 上毛新聞電子版2016年10月10日(2016年10月11日閲覧)
  42. ^ 1998年に川相昌弘巨人)によって破られるまでは歴代最多だった
  43. ^ a b 週刊ベースボール、2001年7月2日号、P.24
  44. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年7月2日号、P.25
  45. ^ Number、1992年2月20日、P.36

関連項目編集

外部リンク編集