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広島タクシー運転手連続殺人事件

1996年に日本の広島県内で発生した連続殺人事件

広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、1996年平成8年)4月18日 - 9月14日の約5か月間に広島県広島市およびその近郊)内で女性4人が相次いで殺害され、遺体を山中に遺棄された連続殺人強盗殺人死体遺棄)事件[新聞 5][新聞 6]

広島タクシー運転手連続殺人事件
場所

日本の旗 日本広島県[新聞 1]

標的 売春目的で知り合った女性
日付

1996年平成8年)[新聞 1][新聞 2]

概要 借金返済に追われていたタクシー運転手の男が約5か月間で4人の女性を殺害して遺体を山中に遺棄した。第1の事件の動機は強盗目的だったが、やがて殺人そのものに快楽を見出すようになっていった。
攻撃手段 首を絞める
攻撃側人数 1人
武器 ネクタイ
死亡者 女性4人(16歳 - 45歳)
損害 現金約24万円(4人から奪った金額)[新聞 3]
犯人 タクシー運転手の男H(逮捕当時34歳)[新聞 1][新聞 4]
動機 強盗快楽殺人
対処 逮捕起訴
謝罪 あり
刑事訴訟 死刑執行済み[新聞 5][新聞 6]
影響 加害者Hの勤務先だったタクシー会社が嫌がらせを受け業務に支障が出たり[新聞 7]、広島市内で夜間のタクシー利用率が落ち込むなど風評被害が発生したた[新聞 8]
管轄

広島県警察(県警本部捜査一課および後述の各警察署)・広島地方検察庁

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概要編集

 
 
A殺害
 
A遺棄
 
B殺害
 
B遺棄
 
C殺害
 
C遺棄
 
D殺害
 
D遺棄
各殺人事件現場。遺体遺棄現場はいずれも直径約35キロメートル(km)以内に点在していた[新聞 10]
事件の経過
月日 事柄
1996年 04月18日 A事件発生。
05月06日 広島市安佐南区内で被害者Aの遺体が発見される(A事件発覚、5月14日に身元断定)。
広島県警広島北署が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。
08月13日 B事件発生。
09月07日 C事件発生。
09月14日 D事件発生。同日、湯来町(現:広島市佐伯区)内で被害者Dの遺体発見(D事件発覚、9月14日に身元断定)。
広島県警廿日市署が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。
09月18日 広島県警廿日市署捜査本部がD事件の殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状を発行。
09月21日 逃走中だった被疑者Hが窃盗(自動車盗)容疑により山口県防府市内で山口県警防府署に逮捕される。
09月21日 被疑者H、広島県警廿日市署捜査本部にD事件の殺人・死体遺棄容疑で逮捕される。
10月01日 被疑者Hの自供により被害者Cの遺体が発見される(C事件発覚、10月4日に身元断定)。
10月05日 被疑者Hの自供により被害者Bの遺体が発見される(B事件発覚、10月8日に身元断定)。
10月01日 被疑者Hが被害者Aの殺害を自供する。
10月12日 広島地検がD事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを広島地裁に起訴。
10月15日 C事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。11月5日に広島地検が追起訴。
11月06日 B事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。11月27日に広島地検が追起訴。
12月04日 A事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。12月24日に広島地検が追起訴。
1997年 02月10日 広島地裁刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判。
11月05日 広島地裁、第10回公判で被告人Hの精神鑑定開始を決定する。精神鑑定により公判は一時中断。
1999年 02月24日 第11回公判開廷、公判再開。
10月06日 論告求刑公判で検察側(広島地検)が被告人Hに死刑求刑。
11月10日 弁護人による最終弁論が行われ結審。
2000年 02月09日 広島地裁刑事第2部(戸倉三郎裁判長)、被告人Hに死刑判決
02月24日 被告人Hは控訴期限(2000年2月23日)までに広島高裁へ控訴しなかったため同日付で死刑が確定。
2006年 12月25日 広島拘置所で死刑囚Hの死刑執行(44歳没)。

加害者の男H(逮捕当時34歳・タクシー運転手)は広島市中区遊郭跡にある歓楽街流川新天地薬研堀)一帯で深夜、売春を通じて被害者女性を次々と誘っては、タクシーの車内で首を絞めて殺害し遺体を山中に遺棄した[1]

本事件はその凶悪さから広島の繁華街をパニックに陥れ[書籍 2]、地元紙『中国新聞』(中国新聞社)が「中国地方でも稀に見る凶悪事件」と表現したほか[新聞 11]、作家・丸山佑介は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』(彩図社・2010年)にて「タクシードライバーによる殺人行脚」[書籍 3]「『誰もが利用する交通機関』であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容した[書籍 4]

元死刑囚H編集

本事件加害者の男・元死刑囚Hは1962年昭和37年)4月に宮崎県宮崎市で生まれ[新聞 12]2006年(平成18年)12月25日法務省法務大臣長勢甚遠)の死刑執行命令により収監先・広島拘置所にて死刑を執行された(44歳没)[新聞 13]

事件当時は34歳・広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった[新聞 14]

生い立ち編集

Hは多くの山林を持つ地元有数の資産家で3人兄弟の末っ子[新聞 11](三男)として生まれ[書籍 5]、小中学校時代はソフトボール野球部で活躍し[新聞 11]、中学時代には野球部の主将を務めた[新聞 12]。また特に日本史が得意で、1978年(昭和53年)4月に入学した県立高校(県内トップの進学校)では「クラスの上位15番以内に入る成績」を維持しており[新聞 12]、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名が知られていた[書籍 5]

一方で両親は子供に甘く[新聞 11]、Hは末っ子だったことから「小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境」で育ったため[新聞 12]、親類は事件後に『中国新聞』の取材に対し「両親がHを甘やかしていたから我慢できないような子供になったのではないか?」と証言した[新聞 11]。また地元は国立大学志向が強く教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代に無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があった[書籍 5]

1981年(昭和56年)3月に高校を卒業したHは「教師か公務員になりたい」と大学受験に臨んだが[新聞 12]、志望していた筑波大学の推薦入試に加えて第二志望の福岡教育大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた私立大学の福岡大学法学部にしか合格できなかった[書籍 5]。Hは1981年4月に福岡大学へ入学したが[新聞 12]、大学受験に失敗して以降は「私立大学ではたとえ教師になっても尊敬されない」と大きな挫折感を味わい[書籍 5]、このころからは高校時代までの友人たちと音信不通になり同窓会にも出席しなくなった[新聞 12]。また福岡大学でも「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んだが、4年生になるとそれが仇となり、かつて見下していた同級生たちが国家公務員・都道府県職員へと就職していった一方で自身は留年が確実となり[書籍 5]、「このままでは市役所職員にもなれない」と強い挫折感を抱えていた[書籍 6]

大学中退後編集

福岡大学入学から4年2か月後となる1985年(昭和60年)6月末、Hは授業料滞納を理由に4年生に留年したまま[新聞 12]大学を中途退学した[書籍 6]。その後、学費を援助していた兄により宮崎市の実家に連れ戻されてからは[新聞 12]、周囲に対し「司法試験に失敗した」と嘘を言い張りつつ、宮崎市役所に臨時職員として就職したが、飲酒・女遊びに溺れるなどの荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された[書籍 6]

その後も遊ぶ金欲しさにひったくりを繰り返していたHは当時24歳だった1986年(昭和61年)1月25日12時過ぎに会社員宅へ侵入してその妻に包丁を突き付け現金2万円・預金通帳を奪った[書籍 6]。この強盗事件で逮捕起訴されたHは懲役2年の実刑判決を受けて刑務所に服役し、出所後に故郷の宮崎県を離れ[書籍 6]、それ以降実家に帰ることはなかった[新聞 12]

出所後の1989年(平成元年)4月[新聞 12][書籍 6]、Hは叔父を頼って広島県広島市内へ移住し[書籍 6]、叔父宅に身を寄せた[新聞 2]。同月、Hは広島市内のタクシー会社に運転手として就職し「一からやり直そう」と決心して働こうとしたが[新聞 12]、大企業のエリート社員を客として乗せて働き続ける毎日のうちに「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間じゃない。筑波大学に合格できていれば今ごろは国家公務員として地位・名誉を約束された生活を送っていけたはずだ」とコンプレックスを募らせ続けていた[書籍 6]

またHはタクシー会社就職後に一人暮らしを始め[新聞 2]、当時の月収は手取りで約30万円だったが、その大半を飲酒・女遊びに浪費した上[新聞 2][書籍 6]消費者金融(サラ金)から借金を重ね続けていた[新聞 2][書籍 6]

結婚生活とその破綻編集

1992年(平成4年)、当時29歳だったHは叔父の紹介で当時30歳(Hより1歳年上)の女性と結婚した[書籍 6]。1992年初めごろ、サラ金からの借金の総額は500万円に達していたが、Hはこの膨大な借金を「安佐南区の新興住宅地に建てた建売住宅を購入した上で、その住宅ローンを実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作る」ことで[書籍 6]、同年7月に完済した[新聞 2]

これが転機となって生活が徐々に改善していったHは[書籍 7]1993年(平成5年)4月に長女が誕生して1児の父親になった[書籍 6]。Hはこのころ「家も持ったし子供もできた。これで世間も認めてくれる」と希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後には産褥期の妻が突然意味不明な言葉をつぶやき続けたり時折奇声を上げたりなど精神疾患を発症した[書籍 6]。Hはその後、妻を精神科病院に入院させて娘を妻の実家に預けたが、再び飲酒・ギャンブル・女遊びを繰り返す荒れた生活に戻っていった[書籍 6]

その後Hは再びサラ金から借金を繰り返し、1994年(平成6年)末には200万円の借金を抱えたため、実家の兄に借金を肩代わりさせた[書籍 6]。妻は一時、病状が改善したために退院したが[書籍 6]、翌1995年(平成7年)10月以降[新聞 15]、再び長期入院するようになった[書籍 6]。精神疾患を患った妻に回復の兆しが見られなくなったこと、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから、Hの生活は荒れていく一方だった[書籍 6]。これに加えて「筑波大学の推薦入試を受けたほどの自分が」、強盗事件の前科で故郷を追われ、借金で首の回らないタクシー運転手にまで「身をやつした」ことについて、激しい劣等感を感じていた[書籍 6]

最初にA事件を起こした1996年4月当時[新聞 2]、サラ金などから抱えた多額の借金の返済が迫って追い詰められていたHは[新聞 2]、「自殺して生命保険保険金で返済しよう」とまで考えたが、結局は自殺すらできず「己の不運は全て周囲のせい」にしていた[書籍 6]

人物像編集

職場の上司・同僚ら関係者はHの人物像を「あまり付き合いは良くないが真面目な人間だった」と証言した[新聞 12]。また1日の売り上げは平均約45,000円と[新聞 12]、社内でもトップクラスの営業成績で、勤務時間も他の運転手たちより1日2時間ほど長かった[新聞 16]。このほかHは他のタクシー会社の草野球チームに[新聞 12]助っ人として参加していたり[新聞 11]、近所の町内会に積極的に参加するなど、周辺には温厚な印象を与えていたほか[新聞 10]、住んでいた団地の住民からは「子煩悩な父親」[新聞 11]、関係者からは「妻子とともに買い物に行ったり公園で遊んだりするなど、家族仲は良好なように見えた」という証言もされていた[新聞 16]

一方で間近に接していた同僚からは「酒に酔うと服を脱ぐなど人格が変わった」「理由もなく突然怒り出すことがあった」という証言もなされたほか[新聞 11]、被害者を物色していた流川地区では「タクシーの男」として知られており「タクシーを泥酔状態で飲酒運転していたりシートにビールの缶が転がっていることもあった」という証言が報じられた[1]。また「客にならなくても毎晩のように訪れてくる」ことでも有名で、事件の3, 4年ほど前からは頻繁に歓楽街に姿を見せるようになり、一時は毎週のように遊び歩いていたが、1996年になってからは遊ぶ金が尽きたためか「たまに姿を見せても冷やかしだけで帰っていく」ようになっていた[新聞 12]

またA事件以降、Hは逮捕されるまでタクシーで乗務を続けながら次々と新たな犯行に手を染めていたが、同僚は『中国新聞』の取材に対し「(Hは当時)タイヤのホイールを頻繁に交換していた。今思えば狭い道を走っていたのかもしれない」と証言した[新聞 17]

事件の経緯編集

最後の被害者Dを除く被害者3人(A・B・C)は次々と姿を消していた一方で周囲から異常に気付かれず、うち2人(A・B)の家族・身内からは捜索願も出されていなかった[新聞 17]。このことから加害者HはA・B両被害者を殺害後に「行方不明になっても誰も不思議に思わないような女性を殺害しても、遺体をうまく隠すなどすれば自分が警察に疑われることはない」と確信してさらに犯行を積み重ねていった[新聞 2]

また『中国新聞』は本事件を「加害者Hは各犯行動機を『金銭上のトラブル』『金を取ろうと思った』と自供しているが、被害者4人から奪った現金はそれぞれ数万円だから合計で十数万円のために4人の人命を奪っていた。実際にHと親しかった知人は『被害者が大金を持っていないことは知っていたはず。最初から金だけが目的だったとは思えない』と疑問を呈している。5か月間も加害者・被害者双方の周囲に異常ランプが灯らなかった事実が、本事件の特異さを表している」と報道した[新聞 2]

A事件(第1の事件)編集

  • 被害者:少女A(事件当時16歳の女子高生・広島県賀茂郡黒瀬町切田在住、広島県立広高等学校定時制課程1年生)[新聞 18]
    • 被害者Aは1995年(平成7年)に地元の中学校を卒業してから町内の美容院などで働き[新聞 18]、1996年4月9日に広高校定時制の入学式へ出席した[新聞 19]。その後は高校の新入生歓迎会があった1996年4月16日まで[新聞 20]学校に姿を見せていたが[新聞 19]、同日に登校後はそのまま帰宅せず、翌17日に広島県安芸郡音戸町(現:呉市)内から自宅に電話して以降は消息が途絶えた[新聞 20]
    • 欠席が続いたため担任教諭が被害者A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話しており、被害者Aの家族からは警察への捜索願は出ていなかった[新聞 19]。なお被害者Aは1996年3月から[新聞 18]昼間、呉市内のファミリーレストランでアルバイトの研修を受けていたが[新聞 20]、4月14日以降は欠勤していた[新聞 18]
    • またAの上下6番目の大臼歯4本には治療痕があったほか[新聞 21]、歯のうち下側5番目の小臼歯2本は「数十人に1人の体質」とされる「先天性欠如歯」(乳歯のままで永久歯が出ない)だったため、広島県警は身元特定の際に大きな手掛かりとして注目した[新聞 21]。結果、4本中2本を治療した黒瀬町内の歯科医師がAの歯形模型を残していたため、それが身元確認の決め手となった[新聞 18]
  • 殺害現場:広島県呉市上二河町・広島県道31号呉平谷線沿い空き地[新聞 2][新聞 22]
  • 死体遺棄現場:広島県広島市安佐南区沼田町大塚・林道脇側溝(幅1.5メートル〈m〉×深さ1m、水深10センチメートル〈cm〉)[新聞 23]

一連の事件を起こしたころ、Hは昼間に広島市中心部の八丁堀で、夜は中国地方最大の繁華街である流川薬研堀界隈(いずれも中区)でそれぞれタクシーを停車して客待ちをしていたが、特に新天地広場では昼間 - 深夜まで客待ちしながら長時間停車しており、手当たり次第に女性を誘う姿が目撃されていた[新聞 24]。また1996年春、Hの同僚は女性客からHを名指しされ「先日、車内で1万円札を見せられて誘われた。注意しておいてほしい」と苦情を受けていた[新聞 24]

1996年4月18日20時、勤務中だったHは流川・薬研堀一帯をタクシーで流していた中で売春援助交際のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかったところで少女Aを見つけ[書籍 1]、Aに「遊ばないか」と声を掛けた[書籍 1][書籍 8]。Hは料金2万円で応じた被害者Aを[書籍 4]、タクシーに誘い乗車させるとコンビニエンスストア缶ビールを買ってラブホテルに入った[書籍 1]。そのまま2人で缶ビールを飲んだが、Aは嗚咽交じりに「父親の借金を返済するため大阪から働きに来た。あと10万円返せば完済できる」[書籍 1]、「今日はその返済日だから10万円を用意してこれから呉駅(広島県呉市JR西日本呉線)に行く」と身の上話をした[新聞 2][書籍 9]

Hはこの話を聞き、内心「やられた」と思いつつも、「なんか(セックス)するのが悪いね」と言い、お人よしのタクシー運転手を装って呉駅まで送っていくことを約束した[新聞 2][書籍 1]

被害者Aをタクシーの助手席に乗せ[書籍 10]、広島市中心街から約20km先の呉市方面へタクシーを走らせたHは、「Aの言う通り所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して計12万円あるはずだ。それだけあれば今月の借金の返済は賄える」と考え[書籍 1]、呉駅に向かう途中で借金返済のためにAの現金を盗もうと考えた[新聞 2]。しかし窃盗を行えば発覚次第、被害届を出されて逮捕されることを恐れたため[新聞 2]、「いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えた[書籍 10][書籍 1]。Hは当時、飲酒・女遊びにより約350万円の借金を抱えており、月々15万円を返済していた[書籍 1]

被害者AはHに対し「(親族は)大阪に祖母がいるだけ」と話していたが、Hは「身寄りのないよそ者なら、殺して金を奪ってもばれないだろうから好都合だ」と考えた[書籍 1]。呉市街地の街灯りが見えるようになるとHは人気のない道に乗り入れ[書籍 1]、殺害現場の空き地でタクシーを停車した[書籍 1]。Hはその上で、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Aを油断させる目的で、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを悪用してエンストを装い、修理を口実に後部座席にいた被害者Aに対し[新聞 25]、「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた[書籍 1]

被害者Aが身をかがめ[書籍 1]、後部座席に回ったところ[書籍 10]、Hはネクタイを緩めて運転席を降りた[書籍 1]。そして22時50分[書籍 1]、Hは背後から被害者Aに忍び寄り、ネクタイを首に巻き付けて被害者Aの首を絞め、被害者Aを窒息死させて絞殺した[書籍 1][新聞 2][新聞 22]

被害者Aを殺害した直後、Hは「咄嗟の判断でやったにしてはうまくいった」と思いつつ[書籍 10]、被害者Aの所持品を改めたが[新聞 2]、被害者Aの所持していた現金はHの予想していた12万円とは異なり、わずか5万円しかなかった[書籍 1]。Hは、「嵌められた」と思いつつ[書籍 1]、その現金約5万円を奪った上で[新聞 2][新聞 22]、タクシーに被害者Aの遺体を乗せたまま殺害現場から約25km離れた広島市内まで戻り[書籍 1]、広島市安佐南区沼田町大塚の雑木林へ辿り着いた[新聞 2][書籍 1]。その林内に田圃脇水路の土管があったため[書籍 1]、Hは被害者Aの遺体を土管内に遺棄した[新聞 2][書籍 1][新聞 22]

HはAの遺体を遺棄した後、タクシー会社に戻って虚偽の運転日報を作ったが[新聞 2]、奪った金を使って広島市中区内の繁華街で飲酒した上で自分の軽自動車を飲酒運転し、翌1996年4月19日早朝には広島市中区流川の路上に駐車してあった原動機付自転車(原付)に衝突する物損事故を起こした[新聞 25]。同日9時ごろ、通報を受けて広島東警察署広島県警察)管内交番の警察官が原付に衝突したまま車内で寝ていたHを発見したが、Hは事情聴取できないほどに泥酔していたものの、目撃者がいなかったことから飲酒運転が立証できなかったため立件されず、結局は交番がHの勤務先(広島市東区内のタクシー会社)に連絡し、上司に連れて帰らせた[新聞 25][注 1]翌1996年4月20日、Hは遺体遺棄現場に2回行き遺体がうまく隠されていることを確認した[新聞 2]

前述のように被害者AはHに「大阪在住」と語っていたため、Hは「殺しても(身元は)バレないだろう」と考えていた[書籍 8]。しかし殺害から18日後の1996年5月6日に少女の遺体が発見され[書籍 11]、後述のように広島県警広島北警察署は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した[新聞 23]

遺体発見・身元判明をニュースで知ったHは「大阪の女じゃなかったのか」と驚き、同時に「自分の身辺に捜査の手が迫るかもしれない」と考え[書籍 11]、それ以降は「(Aが自分と)同じ県内に住んでいたとなると、自分も疑われて逮捕されるかもしれない」と恐怖していた[書籍 8]。しかし6月・7月と時間が経過して梅雨が明けても[書籍 11]、A事件の報道は数なくなっていた一方[新聞 2]、Hの周囲に警察の動きはなかったため、日が経つにつれてHは「警察の捜査能力にも限界がある。行きずりの売春婦なら自分と接点はない。現に警察は何もわかっていない」と安堵して逆に自信を深めた[新聞 2][書籍 11]

B事件(第2の事件)編集

  • 被害者:女性B(事件当時23歳・広島市安佐南区八木八丁目在住)[新聞 26]
    • 被害者Bは1985年(昭和60年)3月に安佐南区内の別の地区から事件当時の住居へ両親・妹弟計5人とともに転居しており[新聞 27]、近隣住民によれば「挨拶をきちんとするさっぱりした性格」で夜間に出掛けることが多かった[新聞 28]。飲食店でアルバイトをするなどしていた一方[新聞 26]、1996年8月12日(事件当日)以降は行方が分からなくなっていたが[新聞 29]、家族から捜索願は出されていなかった[新聞 30]
  • 殺害現場:広島県広島市安佐南区八木・「太田川橋」(一級河川太田川に架かる)橋付近[新聞 2][新聞 27][新聞 31]
  • 死体遺棄現場:広島県広島市安佐北区白木町小越・関川(太田川水系三篠川支流)沿い斜面(広島県道46号東広島白木線の脇)[新聞 32]
    • 現場は雑木が茂った急勾配で、加害者Hは取り調べに対し「(この地点ならば)絶対に見つからないと思った」と供述した[新聞 33]。B宅から北へわずか数km[新聞 27]東広島市との市境から北方約700m地点で、周辺の民家はわずか3軒だった[新聞 34]

A事件から約3カ月が経過した1996年8月になってもHの周囲には捜査の手が及ばなかったため、やがてHは「自分は絶対に警察になど捕まらない、悪運の強い特別な人間だ」という自信や「『他人の死をも支配できる』という一種の満足感・快感」を覚えるようになった[新聞 2]

しかしその一方でHはA事件後も借金返済に悩んでいた上、借金が妻や親類にも発覚したため[新聞 2]、家族は消費者金融に対し貸付の停止を申し入れた[新聞 2][新聞 35]。これにより、Hは金融業界の「ブラックリスト」に載り借り入れができなくなったため[新聞 35]、不満が募って自暴自棄になっていた[新聞 2]

1996年8月12日夜、再び新天地に向かったHは繁華街をタクシーで流しながら次の標的を物色した[書籍 7]。新天地公園には当時、男から声を掛けられるのを待つ売春婦が何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった[書籍 7]。Hは「金でセックスさせる女なら捜索願も出ないだろう」と思いつつ、新天地公園でスナックバー勤めの23歳女性Bを見つけて声を掛けた[書籍 11]。Hは被害者Bに車中で現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入ったが、被害者BはHを「素行不良のタクシー運転手」とみなして牽制しようとしたためか「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した[書籍 11]。Hは「それは怖いね」と感心したそぶりで頷きながら被害者Bと性行為をし、2人は翌1996年8月13日になってラブホテルを出た[書籍 11]

その後コンビニに立ち寄ったHは缶ビール・軍手を購入した上で山道に入ると[書籍 11]1996年8月13日0時50分ごろ[新聞 2]、被害者B宅から北にわずか数kmの「太田川橋」付近で[新聞 2][新聞 27][新聞 31]、何の前触れもなく路側帯に突然タクシーを停車した[新聞 2][書籍 11]。そしてA事件の時と同じく、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンを自動的に停止できる仕組みを悪用してエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた[新聞 25]

Hは「(この車は)よく故障するんだよ」と苦笑いしつつ、被害者Bに床のシートをめくるよう頼んだ[書籍 11]。そして買ったばかりの軍手をはめ後部座席に体を滑り込ませると、被害者Bの背後からネクタイで被害者Bの首を絞めた[書籍 11]。被害者Bは「さっきの話は嘘だ。父親はヤクザではない。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hは気にも留めずに被害者Bの首を絞め続け、被害者Bを窒息死させて絞殺した[新聞 2][書籍 11]。Hはこの時、軍手をはめていたためか「A事件の時よりさらに強い力で」被害者Bの首を絞めていた[書籍 11]

そしてHは被害者Bの遺体を物色して所持金52,000円を奪った上で[書籍 11]、安佐北区白木町小越の関川沿い斜面に被害者Bの遺体を遺棄した[新聞 2][新聞 16]。被害者Bの遺体はC事件直前の1996年8月下旬になっても発見されなかったため、Hはさらに殺人への自信を深めていった[書籍 11]

C事件(第3の事件)編集

  • 被害者:女性C(事件当時45歳・長崎県諫早市出身・広島市中区宝町在住)[新聞 28]
    • 被害者Cは事件の10年前から宝町のマンションに住んでいたが、付近の繁華街で店員を務めていた同居相手の男性は県警の捜査に対し「1996年9月上旬ごろから帰宅していなかった」と証言した[新聞 28]
  • 殺害現場:広島県山県郡加計町穴(現:広島県山県郡安芸太田町穴)・国道191号の脇道[新聞 36]
  • 死体遺棄現場:広島県山県郡加計町加計(現:広島県山県郡安芸太田町加計)・町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸法面斜面[新聞 37][新聞 38]、コンクリート製の溝の中[新聞 38]
    • 広島駅から北北西約30km・被害者Dの遺体発見現場から北約20kmに位置する地点で[新聞 38]温井ダムから下流約1kmの山中[新聞 39]。夜間はほとんど人通りがない町道の脇だった[新聞 40]

面識のない女性2人を相次いで殺害したHはB事件から日数が経過しても被害者Bの遺体が発見されなかったことで「自分が警察に疑われることはない」と確信し[新聞 2]、1996年8月下旬ごろ以降は遊興費を入手するために女性を物色するようになったが[新聞 25][新聞 2]、このころから「人を殺すこと自体が極めて強い刺激となり、快感を感じるほど」になっていた[新聞 2]

Hは1996年9月7日深夜[書籍 11]、広島市南区松川町の路上で[新聞 36]、以前から顔見知りだったホステスの45歳女性Cをタクシーに誘い入れた[書籍 11]。Hはこの時点で既に被害者Cを殺害・遺棄する目的でCを尾行していたが[新聞 2]、被害者CはHと顔見知りだったためかすぐにHのタクシーに乗り込んだ[書籍 11]。Hが「どこか遠くで遊ぼうか」と提案し、3万円を渡した上で「タクシーの中でしてもいいかな」と提案すると、被害者Cはこれに応じた[書籍 11]。また事前に缶ビールを飲むのがHの「儀式」だったため、Hはその後コンビニに立ち寄って被害者Cに缶ビールを買わせた[書籍 11]

その後、Hは真っ暗な山道にタクシーを停車すると、被害者Cに「俺は後ろからするのが好きなんだ。四つん這いになってくれ」と後背位で性行為をするよう求めた[書籍 11]。1996年9月7日23時50分ごろ[新聞 2]、被害者Cは申し出を承諾して後部座席で背を向けて下着を脱いで腰を突き出したが、Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めると、唸り声を上げながら被害者Cにのしかかった[書籍 11]。被害者Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げた[書籍 11]。被害者Cは激しく抵抗したがHは躊躇せず、被害者Cが白目を剥いて失神するまでベルトで首を絞めつけ、最後にネクタイで被害者Cの首を絞めつけることで被害者Cを窒息死させて絞殺した[書籍 11]

その後Hは現金約82,000円を奪い[新聞 2]、殺害現場から約10km離れた滝山川左岸の法面斜面に[新聞 37][新聞 38]被害者Cの遺体を遺棄し[新聞 36]、遺体発見を遅らせようと近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した[新聞 33]

D事件(第4の事件)編集

  • 被害者:主婦D(事件当時32歳・広島市中区鶴見町在住)[新聞 41]
    • 加害者Hとは事件前に何度か遊んだことがある間柄で、Hからは「アイちゃん」の愛称で呼ばれていた[新聞 25]。また事件6年前(1990年)に前夫と離婚したが、その前に生まれた娘2人とマンションで暮らしており、事件当時はナイジェリア人の男性と再婚していた[新聞 42]
  • 殺害現場:広島県広島市佐伯区五日市町大字上河内・広島県道41号五日市筒賀線路上(殺害現場)[新聞 43]
  • 死体遺棄現場:広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)・国道433号旧道東側法面(遺体遺棄現場)[新聞 44]
    • 国道433号・広島県道41号五日市筒賀線魚切ダム付近を経由)の交差点から南方約3.5km地点の田畑・民家が点在する田園地帯[新聞 44]。現場付近は旧道に並行して新道が走っており[新聞 44]、旧道から1mほど斜面を下った草むらで遺体が発見された[新聞 45]。広島駅から北西約25kmの山間部で周囲には民家が点在していたが[新聞 45]、現場付近の旧道は付近の住民が散歩で通る程度で[新聞 46]、車や人の通りは少ない道だった[新聞 45]
    • 現場周辺は日ごろ静かな山間の集落だったため、本事件は近隣住民らに対し「殺人事件なんて他人事だと思っていた」と大きな衝撃を与えた[新聞 46]

HはC事件後に「今までに3人も殺した以上は(最高裁判所判例として示された死刑適用基準「永山基準」の観点から見ても)もし警察に逮捕されたら間違いなく死刑になる」と恐怖していた一方、被害者Aの遺体が発見されて以降は事件について続報がなく、B・C両名の殺害に関してはこの時点で発覚すらしていなかったため「俺は超人ではないか?絶対に捕まることはないだろう」と自信を持った[書籍 11]

Hは「自分には嫌疑が掛けられず、小遣い稼ぎもできる」という理由だけでなく殺害行為に一種の快感を感じるようになっていたことから4人目に殺害する女性を探しながらタクシー乗務を続けていた[新聞 2]。時には運転中にも湧き上がる殺人衝動を抑えられない自分に恐怖して「いつもと違う自分だったら殺人衝動も収まるだろう」と乗務用の白手袋を脱いで乗務したこともあったが、結局は殺人衝動・「女性を絞殺する際の堪らない快感」に駆られ、売春婦を標的に新たな犯行に手を染めた[書籍 11]

C事件から1週間が経過した1996年9月13日22時ごろ、Hは「3人殺そうが4人殺そうが大して変わらない」などと考えつつ[新聞 2]、広島市中区内でタクシーに(被害者Dとは別の)女性客を乗車させた[新聞 25]。その女性客との会話からHは「この女性はまとまった現金を持っている」と判断して殺害を決意し、女性が入ったホテル近くにタクシーを駐車して出てくるところを待ち伏せたが、その女性を見失ったため断念した[新聞 25]。一方で被害者女性Dは同じく22時ごろに中区銀山町の路上で目撃された後、14日0時前後に近所の知人女性へ封筒に入れた現金数万円を「物騒だから預かってほしい。朝には受け取りに来る」と預けていた[新聞 47]

その後、Hは被害者女性Dを偶然見かけたため、殺害対象をDに変更し[新聞 25]、Dに声を掛けた[書籍 12]。Hは被害者Dをタクシーに乗車させ、停車した車内で10分ほど話をした後、缶ビールを買いにいったん車外に出たが、車に戻ってみたところ被害者Dの姿はなかった[書籍 12]。Hは「逃げられた」と舌打ちしたが、日付の変わった1996年9月14日0時すぎにホテルの前で再び被害者Dと邂逅した[書籍 12]。通常「最高額」の2万円は20歳代の売れっ子に限られており、通常の「相場」は1,5000円 - 20,000円未満だったため、32歳で人並みの容姿だった被害者Dは、Hから「相場の倍以上」となる4万円を提示されると快諾した[書籍 12]

Hは上機嫌で「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」とタクシーを発進させた[書籍 12]。その途中でHはコンビニに立ち寄って被害者Dに缶ビール・おつまみを買わせた後、広島市郊外の[書籍 12]、広島市佐伯区内のホテルへ投宿し[新聞 37]、性行為をした[書籍 12]

その後、H・Dの2人はホテルを出た[書籍 12]。Hはタクシーの後部座席にDを乗車させて廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日2時すぎに人気のない田舎道(殺害現場)に辿り着くとそこにタクシーを停車した上で[書籍 12]、A・B両事件の時と同じく、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンを自動的に停止できる仕組みを悪用してエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させた[新聞 25]。その上で、それまでに3人を殺害した際の経験から「プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく指示に従うこと」を知っていたため、同様に被害者Dに対し「足元のシートをめくってほしい」と申し出た[書籍 12]

Hは被害者Dが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたが、被害者Dが顔を上げて「なんか怖い」と言った[書籍 12]。これに対しHは被害者Dに笑みを浮かべつつネクタイを座席に掛けたが、被害者Dは「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開け、車外に出た[書籍 12]。「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ったHはタクシーを急発進させ[書籍 12]、そのまま徐行しつつ助手席の窓を開け、被害者Dに「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けた[書籍 12]。しかし被害者Dは速足で歩きつつショルダーバッグからいったんはHから代金として受け取った1万円札4枚(現金40,000円)を取り出し「もうお金はいらないから」と叫び、Hに投げつけると[書籍 12]、駆け出してHから逃げようとした[書籍 12]

これに対し「優しく言えば付け上がりやがって」と逆上したHはアクセルを踏み込んでタクシーを加速させ、被害者Dを追い越してその前に回り込んだ[書籍 12]。被害者Dの行く手を塞いで車外に出たHは、立ちすくんでいた被害者Dの襟首を掴み[書籍 12]、持っていた果物ナイフを[新聞 43]被害者Dの喉元に突き付け、さらに被害者Dを後部座席に連れ込むと右拳を握り締め、被害者Dの顔面を勢い良く計10発近く殴りつけた[書籍 12]

1996年9月14日2時10分ごろ[新聞 43]、被害者Dが失神するとHは被害者Dの首をネクタイで絞め、被害者Dを窒息死させて殺害した[書籍 12]。その上で被害者Dが所持していた現金約56,000円[新聞 43]・携帯電話を奪い[新聞 29]、「タクシーの座席がDの血液・(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を天井側部の手すりに結び付け、遺体を首吊りの格好で固定した[書籍 12]

Hはそのまま10分ほどタクシーを移動させ[書籍 12]、広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道から1mほど斜面を下った草むらに[新聞 45]被害者Dの遺体を投げ捨てるようにして遺棄し[書籍 12]、14日4時ごろにタクシーで広島市東区内の会社へ戻り、タクシー後部座席の客用シーツを新品と交換した上で古いシーツを持ち帰った[新聞 10]。Hはいったん自分の自家用車で帰宅した後[新聞 10]、翌日(1996年9月15日)も普段通り4時ごろに出勤して広島市内を中心に乗務していた[新聞 17]。同日は日曜日だったため早めに乗務を切り上げたが、平日並みの約35,000円を売り上げていた[新聞 17]

初動捜査編集

A事件発覚編集

A事件発生後・発覚前の1996年4月20日に被害者Aの母親がAの持っていたポケットベルへ発信したところ、居場所は明確ではなかったが応答があった[新聞 48]。また翌21日午後には海田警察署員が安芸郡海田町南部の路上[注 2]に落ちていた被害者Aの定期券(呉市営バス)を発見した[新聞 48]

1996年5月6日16時30分ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の林道沿い水路で[新聞 9]、山菜採りをしていた近隣住民が全裸で倒れている女性の腐乱死体を発見して110番通報した[新聞 23][新聞 50]。後に被害者Aと判明したこの遺体は身長約155cm・10歳代後半 - 20歳代で18金のネックレスを着け、おかっぱぐらいの長さの髪を紅いゴムひもで結んでいた[新聞 23]

遺体の死亡時期は腐乱状況などから死後約1週間[新聞 9] - 6か月以内と推測されたほか、遺体発見翌日(5月7日)の司法解剖でネックレス・左耳に着けたピンクのピアス・歯の治療痕などが確認されたが、外傷確認・死因特定はできなかったほか、現場周辺を捜索しても着衣など身元特定の手がかりは発見できなかった[新聞 51]広島県警察捜査一課・広島北警察署は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始し、遺体発見現場の状況などから「車を使用した犯行」とみて不審な人物・車両の目撃者などを捜査した[新聞 23]

初動捜査で女性の身元を特定する手掛かりが発見できなかったため、広島県警(捜査一課・広島北署)は「捜査が長期化する可能性が高い」として1996年5月8日に捜査本部を設置し[新聞 52]、164人態勢で捜査に当たった[新聞 53]。捜査本部は同日に解剖・鑑定の結果「女性の血液型はO型」「盲腸には手術痕がある」と断定したほか、歯4本の治療痕に着目した[新聞 52]。これを受けて捜査本部は広島県歯科医師会に対し特徴に該当する患者がいるかどうか情報提供を要請したほか[新聞 53][注 3]、下側5番目の小臼歯2本について「先天性欠如歯」に該当する女性患者がいないかどうかを重点的に調べた[新聞 21]。一方で8日には現場周辺で捜査員80人が遺留品捜索・近隣住民らへの聞き込みを行ったが、遺体の身元確認につながる有力な情報は得られなかった[新聞 53]

また捜査本部が家出人の調査・女性が身に着けていたネックレス・ピアスの入手先などを調べたところ[新聞 53]、県内外から家出人に関する情報が58件寄せられた上[新聞 21]、ネックレス・ピアスは大手宝石店で売買されていたものであることが判明したため、捜査本部から広島市内などの店舗に照会がなされたが、遺体発見から1週間となる1996年5月13日までに購入先は判明しなかった[新聞 21]

1996年5月13日になって「Aの母親」と名乗る女性の声で広島北署捜査本部に「娘がいなくなっている」と電話があったため、捜査本部が遺体の特徴など調べたところ血液型(O型)・身に着けていた装飾品(ネックレス・ピアスなど)が少女Aの特徴と酷似し、身長も一致した[新聞 54]。これに加え被害者A宅に残された指紋[新聞 18]・髪を遺体と照合したり[新聞 54]、虫垂炎の手術痕・胸のX線写真などを照合するなどしたところ[新聞 20]、翌1996年5月14日になって遺体の身元が被害者Aと断定された[新聞 18][新聞 20][新聞 19]。被害者Aの遺体は自宅・学校・アルバイト先から離れた場所で衣服を身に着けていない状態で発見されたため、捜査本部は「車などで運ばれて現場に遺棄された可能性がある」と推測し、被害者Aの交友関係を中心に聞き込み捜査を行ったが[新聞 18]、遺体発見当日までの足取りについて有力情報は得られなかった[新聞 55]。また前述のように4月21日には海田町内でAの通学バス定期券が発見されたが、当時はその時点までAが生存していたか否か(実際には既に殺害されていた)も判明しなかった[新聞 55]

聞き込み捜査などで有力な情報が得られなかったため[新聞 55]、広島北署捜査本部は被害者Aの写真が入ったチラシ6,000枚を製作し[新聞 56]、1996年5月31日からそのチラシを広島市内を中心に(Aが事件前に行った可能性がある)呉警察署広警察署海田警察署西条警察署の各管内などに貼り出して情報提供を求めた[新聞 55]。しかしその後は有力な情報提供がないまま未解決事件となっており、後に被疑者Hが自供した時点では迷宮入り寸前だった[1]

D事件発覚編集

被害者Dが殺害されてから5時間後となる[書籍 12]1996年9月14日7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原(現:広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道東側法面で近隣住民が犬を散歩していたところ、仰向けに倒れ死亡している若い女性の遺体を発見した[新聞 57][新聞 44]。発見者女性からこれを知らされた近所の男性が119番通報したほか[新聞 46]、広島県警廿日市警察署にも通報した[新聞 45][新聞 58]。遺体に目立った外傷はなかったが[新聞 45][新聞 58]、顔面に鬱血・首に絞められた跡が確認されたため[新聞 44]、広島県警捜査一課は「女性が絞殺された」と判断した上で殺人・死体遺棄事件として廿日市署に捜査本部を設置して捜査を開始した[新聞 45][新聞 58]

捜査本部が同日中に広島大学医学部で遺体を司法解剖して詳しい死因・身元などを調べた結果[新聞 45]、死因は「首の圧迫による窒息死」と判明し[新聞 44]、死亡推定時刻も「14日4時ごろ」と断定された[新聞 47]。また首には手で絞めたような痕跡・首の骨が折れた形跡とも確認できなかったため「幅のある帯状の物で首を絞められた可能性が高い」と推測された[新聞 59]。このほか遺体の特徴は「20歳 - 45歳女性・身長約160cm・体重70kg」で[注 4]、薄い栗色の髪を肩まで伸ばし[新聞 44]、緩いパーマをかけ[新聞 45]、靴は焦げ茶色の革靴を片側だけ履いていた[新聞 45]。また遺体左耳には十字架の形をした銀色のピアス[新聞 45]、右手薬指にはサティヤ・サイ・ババ(サイババ)の指輪を装着していた[新聞 44][注 5]

着衣の乱れが少なく死亡推定時刻 - 遺体発見時刻の間隔が短かったため[新聞 44]、捜査本部は「女性は他の場所(広島市かその周辺)で殺害されて車で現場へ運ばれた可能性が高い」[新聞 41]「14日未明 - 早朝に遺棄された可能性がある」と推測したほか[新聞 44]、犯人像を「地元の地理に詳しい人物で、被害者Dを遺体発見現場付近で殺害した可能性がある」と推測し[新聞 60]、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた[新聞 44]。その後、1996年9月14日20時ごろになって被害者Dの長女から広島県警へ「母親と連絡が取れない」と110番通報があったため[新聞 42]、広島県警はD宅マンションで採取した指紋と遺体の指紋を照合したほか、親類を立ち会わせて「遺体の身元は被害者女性D」と断定・確認した[新聞 41]

身元確認を受けて捜査本部が被害者Dの13日夜 - 14日未明にかけての足取り・交友関係について捜査を開始したところ[新聞 61]、「13日22時ごろに中区銀山町(D宅から北約1km)のホテル近くの路上でDらしき女性を見た」「14日0時ごろに中区弥生町の路上で目撃した」という目撃証言が寄せられた[新聞 41]。また捜査本部は1996年9月15日9時30分から遺体発見現場周辺にて約100人態勢で遺留品などを捜索したが[新聞 61]、被害者Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは遺体周辺では発見されなかった[新聞 42]

逮捕・起訴編集

逃亡・D事件で逮捕編集

Hは犯行を重ねるにつれて次第に金を奪うことよりも殺人への快楽に惹かれるようになっており[新聞 2]、一連の連続殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていた[書籍 13]、4人目の被害者Dの遺体が発見されたことで事態が急展開した[新聞 2][書籍 13]

被害者Dの遺体が確認された直後に「14日1時ごろ、遺体発見現場付近かつHの自宅付近で被害者DがHと一緒にいた」とされる証言が得られたほか[新聞 60]、ホテルへの聞き込み捜査の結果により[新聞 1]「被害者Dが1996年9月14日未明に事件2, 3年前から親しくしていた知人であるHとともに佐伯区内のホテルに投宿していたこと」[新聞 37]「2人はその後、Hのタクシーでホテルを出ていたこと」が判明した[新聞 1]

広島県警廿日市署捜査本部は以下の点からD殺害を被疑者Hの犯行と断定し[書籍 12]、1996年9月18日には殺人死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状を請求し[新聞 62][新聞 63][新聞 64]、その行方を追った[新聞 60][新聞 4]

  • 「被害者Dの死亡推定時刻(4時ごろ) - 遺体発見時刻(7時ごろ)が近接しており、遺体発見現場はH宅から直線距離約5kmにある。また遺体は服装の乱れが少なかったため『被害者Dは土地勘のある人物により、発見現場付近の車内で殺害された』と推測できる点」[新聞 60]
  • 「被害者Dが行方不明になる直前に知人のHに会っていた点」[新聞 4]
  • 「被疑者Hは遺体発見現場周辺の状況に詳しいとみられる一方、事件後に行方が分からなくなっている点」[新聞 60]

一方でHはD事件発覚翌日の1996年9月15日にも平然と広島市内などで乗務していたが[新聞 10]、捜査が間近に迫ったことを察知し[新聞 12]、追い詰められたことから自殺を考えた[書籍 13]。しかし結局は死にきれず[書籍 13]、1996年9月16日には九州方面への逃走を開始した[新聞 2]

またHはD事件発覚後は自宅に帰らず、勤務先のタクシー会社にも連絡を入れなくなり[新聞 65]、1996年9月17日にはタクシー会社から解雇された[新聞 66]。事件発覚から1週間が経過した1996年9月21日までに捜査本部は「県外を含めてHが立ち回る可能性のある場所」の特定を急ぐとともに、被害者Dが被疑者Hと接触するまでの行動や「D・Hには互いに面識があったか否か」などの点について詰めの捜査を行っていた[新聞 65]

Hは出身地の九州各地を転々とした後[新聞 66]、1996年9月20日にいったん広島市内の自宅へ帰ろうとしたが、そこで警察官が張り込みをしていたために断念して再び九州への逃亡を目論み[新聞 2]、同日夜には広島市中区幟町の路上で乗用車を盗み、その車で逃亡しようとした[新聞 66]。しかしHは1996年9月21日早朝4時30分ごろ[注 6]山口県防府市富海の国道2号で乗用車を運転中[新聞 66]、当時「秋の全国交通安全運動」の一環などで夜間・早朝の取り締まり強化のため山口県警察が実施していた交通検問を無視して強行突破しようとしたため[新聞 64]防府警察署員により約10kmにわたって追跡され[新聞 66]、行き止まりへ追い詰められた末に防府署まで任意同行させられた[新聞 64]。その後、車が同日未明に盗まれた盗難車であることが判明したため[新聞 64]、被疑者Hは5時25分ごろに窃盗容疑で防府署に逮捕された[新聞 67]。この逮捕後、被疑者Hは妻と離婚した[新聞 16][1]

1996年9月21日、被疑者Hが広島県警廿日市署捜査本部による取り調べに対し「被害者Dとは2, 3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから遺体遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述したため[新聞 64]、捜査本部は同日11時過ぎにに被疑者Hを被害者D殺害事件における殺人・死体遺棄容疑で逮捕し、身柄を廿日市署へ移送した[新聞 67]。廿日市署は1996年9月23日に被疑者Hを殺人・死体遺棄容疑で広島地方検察庁へ送検したほか[新聞 68]、取り調べにより「(被害者Dが普段持ち歩いていたが遺体発見時にはなかった)バッグを湯来町峠の国道433号沿い山林(遺棄現場から約2km南方)に捨てた」という自供を得たため、翌24日には署員ら36人を動員して遺留品捜索を実施した[新聞 69]

一方で被疑者HはD事件の取り調べを受けていた中で捜査員に対し自ら「D事件とは関係ない地名・日時」を口に出したため、捜査員がその言葉について追及したところ次第に話の辻褄が合わなくなり、さらにその点を追及されたHは新たに別の被害者女性3人の殺害を自供した[新聞 70]。この点について捜査本部は「被疑者Hは短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱して証言に矛盾をきたした」と推測し、被疑者Hをさらに追及した[新聞 70]

また後の第4回公判(1997年4月23日)で明らかにされた検察官調書によれば、被告人HはD事件で逮捕された時点ではまだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由について「刑事から『他に隠していることはないか?』と訊かれたので『警察は既に遺体の在処を把握している。自分の情状のために自分から言うのを待っているのだろう』と思ったが、(被害者が)4人になることを話すのはあまりにもセンセーショナルなので、自分なりに自供する時期について迷った」と供述していた[新聞 71]。被告人Hの供述が結果的に早期の事件解決のきっかけとなったが、本事件を取材した作家・祝康成(現:永瀬隼介)は「この動機は被告人Hの何ともお粗末な勘違いだ。被告人Hの『卑しい自己本位の性根』が透けて見える言葉だ」と非難している[書籍 12]

C事件発覚編集

その後、被疑者Hは捜査本部の取り調べに対し「1996年8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で被害者Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30km離れた山県郡加計町(現:安芸太田町)加計までその女性を連れて行き、首を絞めて殺害し山中に遺体を遺棄した」と自供したため[新聞 37][新聞 38]、捜査本部が1996年10月1日に加計町加計の山中にて滝山川(太田川支流)法面を捜索したところ、正午過ぎに白骨死体(死後・推定3週間 - 半年)が発見された[新聞 72]。遺体は「40歳代女性・身長約155cm・中肉中背、肩ほどまでの茶髪」と推測され、ブレスレット・指輪・Tシャツ・靴下を身に着けていたほか[新聞 37]、司法解剖により「女性の右上・右下の歯にはそれぞれ1本ずつ治療痕が確認されたこと」「歯垢が溜まっていたこと」から「被害者女性は生前に喫煙習慣があった」と推測された[新聞 40]

なお被疑者Hは動機などについて以下のように自供したほか「被害者女性とは2,3年前から面識があった」と供述した一方で[新聞 73]「女性の住所・氏名は知らない」とも供述したため[新聞 37][新聞 40]、捜査本部は「被疑者Hは『広島市繁華街で顔見知りの女性をタクシーに乗せて人気のない郊外で首を絞める』という手口で2人を殺害した」との見方を強めた[新聞 40]

  • 「被害者女性は生前、九州訛りがあった。女性を街で見かけて顔を知っていた」[新聞 37]
  • 「被害者女性とは金銭トラブルがあり、金を取ろうとして殺害した」[新聞 72]

また被疑者Hは自分に不利な供述にも拘らず「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と現場の地図を丁寧に描いたほか、被害者の似顔絵作成も自ら手伝っていた[1]。捜査本部はその供述を基に作成した女性の似顔絵・身に着けていた白い半袖Tシャツなどを公開し[新聞 40]、行方不明者名簿などから遺体の身元特定を進め[新聞 37]、1996年10月3日に遺体の身元を「広島市中区在住の40歳代女性である可能性が高い」とほぼ特定した[新聞 73][新聞 74][新聞 75]。そして歯の治療痕・女性Cが事件6,7年前に広島市内の病院で撮影した頭部レントゲン写真を照合したり、Cと同居していた男性に遺留品のブレスレットを見せて確認するなどして裏付けを行ったほか、被疑者Hに被害者Cの顔写真を見せて「間違いない」との供述を得たため[新聞 76]、1996年10月4日には遺体の身元を「被疑者Hと顔見知りだった45歳被害者女性C」と断定・発表した[新聞 28]。しかしCと同居していた男性が「Cは9月上旬からいなくなっていた」と証言していた点が被疑者Hの「8月中旬ごろに殺害した」という供述と矛盾したため、捜査本部はさらに被害者Cの足取り・殺害時期・動機などを追及しつつ、被疑者Hが被害者Dへの殺人・死体遺棄容疑で起訴されてから改めて被害者Cへの殺人・死体遺棄容疑で再逮捕する方針を決めた[新聞 76]。またその後の捜索でCが持っていたとみられるバッグなどが加計町内で発見されたが、財布・現金は入っていなかった[新聞 29]

別の殺人疑惑編集

なお被害者Cの遺体発見現場(加計町の山中)から北西約30kmに位置し同現場と国道191号で結ばれた島根県美濃郡美都町宇津川(現:益田市美都町宇津川)の山中では[新聞 77]、1996年8月27日に国道191号沿いのガードレール下で[新聞 16]身元不明女性(30歳代 - 40歳代)の腐乱した他殺体が発見されていた[新聞 77]

本事件発覚当時、島根県警察益田警察署に捜査本部を設置して殺人・死体遺棄事件として捜査していた同事件についても[新聞 16]被疑者Hの一連の事件と同じく国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど共通点が見られたため[新聞 77]、広島県警廿日市署捜査本部は「被疑者Hによる連続殺人事件と何らかの関連性がないか?」と関心を寄せていたほか[新聞 16]、島根県警側も「同事件の被害者が広島県内の女性である可能性もある」と推測して捜査員を広島県警へ派遣し、相互に情報交換を行いつつ捜査を進めていた[新聞 34]

しかし被疑者Hはこの事件について「その事件は知っているが、自分はやっていない」と供述して関与を否定したほか[新聞 16]、Hの犯行として立件された4事件ではいずれも被害者の遺体が「水路もしくは道路と河川の間の法面」に放置されていた一方、島根の事件では河川のない崖に遺棄されていた[新聞 78]。そのため廿日市署捜査本部は「Hが関与した可能性は低い」と判断し[新聞 78]、同事件については結局立件しなかった。

B事件発覚編集

C・D両事件で追及された被疑者Hは1996年10月4日 - 5日にかけ[新聞 10]、新たに3件目の殺人(=第2の殺人・B事件)を自供した[新聞 77][新聞 31][新聞 79][新聞 16]。捜査本部が被疑者Hの供述に基づいて5日夜に広島市安佐北区白木町小越の山中を捜索したところ、20時50分ごろになって県道脇を流れる関川沿いの斜面から[新聞 32]Hの自供通り新たに若い女性の白骨遺体が発見された[新聞 34]

被疑者Hは同事件の経緯・動機について以下のように供述した[新聞 34]

  • 「今年7月中旬か8月中旬に広島市中区の繁華街(新天地)で営業走行中に声を掛けてタクシーに乗せ、安佐南区内の太田川橋付近に停車したタクシー車内で首を絞めて殺し遺棄した」[新聞 34]
  • 「(動機について)金が欲しかった」[新聞 34]
  • 「女性は自分とは面識はなく、タクシー車内で『安佐南区八木か安佐北区可部地区に住んでいる』と聞いていた」[新聞 80]

遺体は20歳代 - 30歳代・身長152cm - 160cmの茶髪で[新聞 31]、青色のツーピース・下着を着けていたほか[新聞 34]、遺体付近には18金の指輪が落ちていた[新聞 31]。またそれまでに判明していたC・D両事件が顔見知りで30 - 40歳代の女性を狙った犯行だったことに対し、A・B事件では面識のない若い女性が殺害されたため[新聞 10]、本事件は「幅広い女性を標的とした連続殺人事件」であることが判明した[新聞 34][注 7]

捜査本部は1996年10月7日にこの女性の似顔絵を公開したほか[新聞 70]、司法解剖により「遺体の推定年齢は20歳代 - 40歳代・血液型はA型。生前には喫煙の習慣があった」という点が判明した[新聞 70]。その後、女性Bの知人から情報が提供されたことに加え、歯の治療痕・着衣もいずれもBのものと判明したため[新聞 81]、1996年10月8日には「白骨遺体の身元は23歳女性B」と断定・発表した[新聞 81][新聞 27]。この時点でA・C・Dの3被害者は既に身元が判明していたため、これをもって被害者4人全員の身元が判明した[新聞 30][新聞 26]

A事件自供編集

B事件に加え、被疑者Hは1996年10月4日 - 5日にかけ「1996年4月18日ごろ、若い女性(=被害者少女A)を殺害して己斐峠周辺に遺体を遺棄した」とも供述したが[注 8]、遺体で発見されていた被害者Aは4月18日以降に消息が分からなくなっており[新聞 34]、Hの自供した殺人の時期と一致することに加え[新聞 49]、遺体発見現場も己斐峠に近かった[新聞 34][注 9]。遺体発見現場また道路脇に遺体を遺棄するなどの手口がそれまでに判明した3事件と共通していたため[新聞 31]、捜査本部は「A事件も被疑者Hによる犯行である可能性が高い」と推測してさらに追及を進めた[新聞 34]

このように被疑者Hが新たに2件の殺人を自供したことで一連の連続殺人事件は過去にあまり例のなかった「女性を狙った連続殺人事件」の様相が濃厚となったため[新聞 16][注 10]、1人目(被害者D)の遺体発見当時は100人体制だった捜査本部は新たに50人を追加動員して150人体制となったが、事件を担当した捜査員からは「事件の広がりは予測がつかない」という声も出た[新聞 16]

またそれまでにB・C・Dの3被害者が広島市中心部の繁華街でタクシーに乗車させられていたことが判明していたため、捜査本部が「被害者Aもタクシーに乗車させて殺害・遺棄したのではないか?」と被疑者Hを追及したところ、Hは「4月18日夜に中区新天地の公園付近で被害者Aをタクシーに乗車させた」と供述したため、捜査本部はHの供述を総合して「Hはタクシーに乗せた直後に被害者Aを殺害した可能性もある」と推測し、タクシーの検証などにより走行経路・殺害方法などを調べた[新聞 82]。またほか3人の被害者の遺体とは異なりAだけが一部の装飾品を除き衣服を身に着けていなかったため、捜査本部は「被害者Aは最も早い時期に殺害されたため、初めての犯行に動揺したHが身元をわかりにくくする目的で着衣を脱がせた」と推測した[新聞 82]。その後、被害者Cは上半身の衣服だけを身に着けた状態でビニールシートにより覆い隠され、被害者Dは(衣服を身に着けたまま)ガードレールのある道路から法面へ蹴り落とされていたため、捜査本部は「加害者Hは当初、身元判明を遅らせるために被害者の衣服を取ったり、場所を選んだりして息を重ねていたが、次第に大胆に遺棄するようになっていった」と推測した[新聞 33]

これに加え、被害者Aの通学定期券(呉市営バス)がAの通学経路から外れた海田町内(広島市中心部 - A宅への経路上)で発見されていたため、捜査本部は「加害者Hが被害者Aをタクシーに乗車させて通ったか、所持品を捨てるなどした可能性がある」と注目し、裏付け捜査の鍵としてHを追及した[新聞 49]。また捜査本部はHの供述に基づき、被害者Aの遺体が発見された水路から南に数km離れた山林内で被害者Aの遺留品(バッグ・化粧品など)を発見した[新聞 83]

連続殺人の全容解明・起訴編集

遺体遺棄現場がいずれも直径35km以内に点在していたため、捜査本部は「Hはプロのタクシー運転手として土地勘を利用し、人目に付きにくい場所を選んで遺体を遺棄した」と推測した[新聞 10]。また加害者Hは取り調べに対し「C・D事件は金銭関係のトラブルが動機で、B事件についても金が動機だった」と供述し[新聞 16]、特に被害者Dについては「殺害後に財布から現金を奪った」などと自供していたため[新聞 82]、捜査本部は強盗容疑でも立件すべく捜査を進め[新聞 34]、その裏付けのため被害者Dが持っていたとされるバッグの発見を急いだ[新聞 82]

その一方で被害者から金を奪ったとはいえ、その金額は合計しても24万円程度だったため[新聞 3]週刊誌AERA』1996年10月21日号(朝日新聞社出版本部、編集部記者:烏賀陽弘道)は「『金目当てというより諍いのうちに殺害し、金はついでに奪った』という方が正確なようだ」と報道した[1]。その上、面識のない若い女性(A・B)を殺害した点については「若い女性が多額の現金を持っていることは考えにくい」ため、捜査本部は「新天地の公園付近にいた被害者2人をいたずら目的で誘った後、トラブルが起きた可能性がある」とにらんで動機を精査した[新聞 78]。また加害者Hは「被害者4人とも首を絞めて殺害した」と供述したが、遺棄直後に発見された被害者Dを除き遺体は白骨化・腐敗しており死因が特定できなかったため、捜査本部は供述を裏付けるため凶器の特定捜査・所持品捜索を続けた[新聞 78]

このほか捜査本部の取り調べの結果、被疑者HがD事件後(9月15日)にタクシー後部座席の乗客用シーツを外して自宅に持ち帰ったことが判明したほか、被害者Dの遺体の顔には血液の付着した傷があったため、捜査本部は「Hは後部座席でDを絞殺したが、際にシーツに血痕が付着したため、それを隠そうとした可能性が大きい」という見方を強めた[新聞 59]。またHは取り調べで「被害者の女性にはすまないことをした。(自分の)人生にはもう夢も希望もない」と述べたほか[新聞 16]、「どうせ、俺なんか」と自暴自棄な発言もしていたが、後者の言葉は『毎日新聞』で「Hは大学入試など人生での挫折経験を自分で乗り越えることができず『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を心の奥底に引きずって生きてきたのだろう」と言及された[新聞 12]

広島地方検察庁は1996年10月12日にD事件(殺人・死体遺棄容疑)で逮捕されていた被疑者Hを強盗殺人死体遺棄罪で広島地方裁判所起訴した[新聞 84][新聞 43]

広島県警捜査本部は1996年10月15日に「被害者Cを殺害して現金を奪った」として、D事件で起訴されていた被告人HをC事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[新聞 85][新聞 36]。広島地検は1996年11月5日に被疑者・被告人HをC事件における強盗殺人・死体遺棄罪で広島地裁へ追起訴した[新聞 86][新聞 87]

広島県警捜査本部は1996年11月6日に「被害者Bを殺害して現金を奪った」として、B事件における被疑者・被告人Hを強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕し[新聞 88]、11月8日に同容疑で広島地検へ送検した[新聞 89]。広島地検は1996年11月27日に被疑者・被告人HをB事件における強盗殺人・死体遺棄罪で広島地裁へ追起訴した[新聞 90][新聞 91]

広島県警捜査本部は1996年12月4日に「被害者Aを殺害して現金を奪い遺体を遺棄した」として、被疑者・被告人HをA事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕し[新聞 92][新聞 22]、1996年12月14日にはHの供述に基づき遺体遺棄現場を検証した[新聞 93]。そして広島地検が1996年12月24日に被疑者・被告人HをA事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で広島地裁へ追起訴したため、被告人Hが自供した4件の殺人事件はすべて起訴された[新聞 94][新聞 95]

刑事裁判(広島地裁)編集

初公判・証拠調べ編集

1997年(平成9年)2月10日、広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判が開かれた[新聞 96][新聞 97][新聞 98][新聞 2][新聞 25][新聞 99][新聞 100][新聞 14][新聞 101][新聞 102]

検察側(広島地検)は冒頭陳述で事件の経緯などを詳述した上で[新聞 96][新聞 98][新聞 2]、以下のように各犯罪事実を主張した。

  • 被告人Hは「妻に消費者金融からの借金を知られたくない」と思う一方で「夜の繁華街で遊びたい」という相反する欲望から約350万円もの借金を抱え[新聞 14]、遊ぶ金欲しさに繁華街で知り合った女性を狙った[新聞 101]
  • 被告人Hが約5カ月間に4人の女性を次々と大胆に殺害した連続殺人の心理については以下のように主張した[新聞 96]
    • 警察の捜査能力にも限界があり、被告人Hは「自分は絶対に逮捕されない悪運の強い特別な人間だ」と思い込むようになった[新聞 96][新聞 98]
    • 街で声を掛けた女性を殺しても、「自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない」ということから、(B事件以降は)「他人の死をも支配できる」という一種の満足感・快感を覚えた[新聞 96][新聞 98][新聞 101][新聞 102][新聞 2]
  • (A・B・D各事件の手口について)燃料切り替えスイッチを操作するだけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを利用し、修理を口実に後部座席に移動した[新聞 25]。その上で後部座席にいた被害者に「足元の配線を見てほしい」と言い、エンジンの仕組みを知らない被害者を油断させ、無防備な前かがみの姿勢になったところを背後から首を絞めるなど、巧妙な手口を使って犯行に及んだ[新聞 25]

また検察側は、被害者Dの2人の娘が「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と語っていたことや[新聞 14]、Dを殺害する直前には別の女性1人の殺害も計画し、広島市中心部でその女性を待ち伏せたことも明らかにした[新聞 98][新聞 2]

被告人Hは罪状認否で谷岡裁判長から起訴事実に関する間違い・反論について聞かれると「間違いはありません」と答え[新聞 96]、4件の強盗殺人・起訴事実について全面的に認めた[新聞 96][新聞 97][新聞 98][新聞 99][新聞 100][新聞 101][新聞 102][書籍 14]

被告人Hが犯罪事実認定を争わなかったため[新聞 97][書籍 14]、弁護人には刑法第39条に基づき心神喪失・心神耗弱による無罪・死刑回避を狙う以外に手段は残されなかった[書籍 14]

弁護人は「被告人Hは事件当時、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張して被告人調書を証拠採用することを留保した上で[新聞 14]精神鑑定申請も視野に入れて責任能力の所在を争う姿勢を示した[新聞 14]

1997年4月23日に第4回公判が開かれた[新聞 103][新聞 104][新聞 71]。検察側は「被告人Hは、『殺害した被害者4人・待ち伏せした女性1人とは別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする検察調書を明らかにした[新聞 104][新聞 71]。その検察調書によると被告人Hは、逮捕直前の1996年8月 - 9月ごろにかけ、被害者4人・およびD事件直前に待ち伏せされた女性1人とは別に[新聞 103]、広島市内の繁華街にいた顔見知りの女性2人を強盗殺人の対象として考えていたが[新聞 71]、途中で見失うなどしたために断念した旨を供述した[新聞 104]。この検察調書では被告人HがD事件で逮捕された際、まだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由が新たに判明したほか[新聞 71]、被告人Hが「被害者遺族は一刻も早く死刑になることを望んでいると思うが、自分も当然だと思う。潔く裁判を受け、刑に服することが唯一の償いだと思う」と供述していたことも判明した[新聞 104]。同日から被告人質問も始まり、弁護人が被告人Hに対し、生い立ちなどについて質問した[新聞 103]

1997年5月21日に第5回公判が開かれ、被告人質問が行われた[新聞 15]。弁護人側が被告人Hに対し、犯行に至るまでの経緯などを質問したところ、被告人Hは「検察側主張においては妻の病気・借金によるストレスなどが動機とされているが、そうではなく『自分が前向きな人間ではなかったから』だ。1995年10月に妻が入院し、その後も病気がちだったために自分は酒に溺れ、サラ金に手を出した。その結果積み重なった借金がさらにストレスの源となり、更に酒浸りになる悪循環に陥った」と証言した[新聞 15]。その上で、最初のA事件当時について「当時は借金が350万円に膨れ上がり、『自分の行動が周囲を不幸にしている。人生の生き地獄だ』と思い、自殺も考えた。殺人を犯した当時は正常な判断ができず、『自分ではない』ような感じがした」と述べた[新聞 15]

第6回公判は1997年6月18日に開かれた[新聞 15]

精神鑑定実施編集

弁護人側は1997年10月30日付で[新聞 105]以下のように「動機がはっきりとしないため責任能力の有無を問いたい」として広島地裁に対し被告人Hの精神鑑定を行うよう請求した[新聞 106][新聞 107][新聞 105]

  • 検察側は「金銭目当ての犯行」を主張しているが被害者4人とも奪った額は数万円程度で、普通はこの程度の額のために強盗殺人を犯すとは考えられない[新聞 108][新聞 105]

これを受けて1997年11月5日の第10回公判で[新聞 108][新聞 109]広島地裁(谷岡武教裁判長)は弁護人側による精神鑑定請求を認める決定をした[新聞 110][新聞 108][新聞 109][新聞 106][新聞 107][新聞 105]。広島地裁はこの理由について以下のように説明した。

  • 犯行の動機に曖昧な点があり、事件当初の精神状態を調べる必要性がある[新聞 110][新聞 108]。各犯行状況を鑑みてその動機をはっきりさせるためにも精神鑑定が必要だ[新聞 110][新聞 105]

弁護人側による申請に対して検察側は犯行動機について「遊興費など借金返済に窮した末の自暴自棄な犯行であることは明白だ」と異議を唱えたものの、精神鑑定の決定には異議を唱えなかった[新聞 108]。この決定により審理は一時中断し[書籍 15]、広島地裁が精神科医山上皓(当時・東京医科歯科大学教授)に依頼して精神鑑定を実施した[新聞 111][新聞 112]。精神鑑定では「被告人Hの事件当時の精神状態」に加え「被告人Hが殺人に至った動機」についても解明が試みられ[書籍 16]、精神鑑定を担当した山上は結果的に以下のように結論を出した[新聞 111][新聞 112]

  • 被告人Hは「男性としての自身に欠けた」とする挫折感を抱き「暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したい」という性癖があり、犯行はこの空想を実行に移したものである[新聞 113]
  • 被告人Hの挫折感は『青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折』に端を発しており、そこで自分自身に失望した反面で絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており「自分の力を証明する方法」として女性を殺害することを思いついた[書籍 16]
  • 被告人Hは一時期「神経症的な葛藤が高まったり、気分の高揚した状態で刹那的な行動を繰り返す」など「通常とは異なる精神状態」だった可能性がある[新聞 114]。その人格には著しい偏りがあるが「責任能力に影響を及ぼしうるような病的なもの」とはみなされない[新聞 114][新聞 111][新聞 112]

1999年(平成11年)2月24日に広島地裁(谷岡武教裁判長)で第11回公判が開かれ[新聞 114][新聞 113][新聞 111]、約1年3か月ぶりに公判が再開された[新聞 114][新聞 113][新聞 112]。同日の公判で精神鑑定の結果が報告・提出され証拠採用されたが[新聞 114][新聞 113][新聞 111][新聞 112]、その鑑定結果は心神喪失による無罪・心神耗弱による減軽を狙った弁護人側の思惑とは裏腹に[書籍 15]、前述の「責任能力が認められる」というものだった[新聞 114][新聞 113][新聞 112]。検察側・弁護人側とも鑑定書の証拠採用に同意したが[新聞 114]、弁護人側は同日「鑑定書には疑問点や確認したい点がある」として[新聞 111]山上の証人申請をした[新聞 114][新聞 111]

広島地検が被告人Hに死刑求刑編集

1999年10月6日に広島地裁(戸倉三郎裁判長)で論告求刑公判が開かれ、広島地検は被告人Hに死刑を求刑した[新聞 115][新聞 116][新聞 117][新聞 118][新聞 119][新聞 120][新聞 121]

広島地検・地裁管内における刑事裁判で死刑が求刑されたのは福山市女性強盗殺人事件(1992年3月発生、1994年6月求刑)以来約5年半ぶり、中国地方全体では1998年12月(岡山県赤磐郡山陽町の団地で発生した4人殺傷事件)以来だった[新聞 116]。同地検次席検事・片山博仁は『中国新聞』の取材に対し「法定刑が死刑か無期懲役しかない強盗殺人罪が適用される本事件において、全ての事情を考慮しても死刑以外に選択の余地はない」と明言した[新聞 116]

論告で検察側は以下のように主張して被告人Hの犯行を非難した。

  • 被告人HはA事件以降も金銭強奪などを目的に犯行を重ねるうち、自分に捜査の手が及ばなかったことから「俺は警察に捕まらない悪運の強い特別な人間だ」と無根拠な自信を深め、「他人の死をも支配する一種の満足感・快感」を抱くようになった[新聞 116]。その上で遊興費などを得ようとさらに女性を物色して次々に3人を殺害・遺棄した[新聞 121]
  • 落ち度のない被害者4人を次々に殺害した自己中心的な犯罪だ[新聞 119]。犯罪史上稀に見る残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない[新聞 119]
  • わずか5か月間に4人もの被害者女性を殺害した凶悪な犯行で[新聞 116][新聞 117]社会的影響・被害者遺族の精神的打撃は大きく、犯行動機の悪質さ・殺害方法の残虐性などを考慮すると[新聞 116]自らの生命をもって償うしかない[新聞 116][新聞 117]

被告人Hは公判閉廷後に収監先・広島拘置所内で行われた職権面接において「死刑求刑は当然だ」などと述べた[2]

最終弁論・結審編集

1999年11月10日の公判で弁護人による最終弁論が行われて結審した[新聞 122][新聞 123][新聞 124]

弁護人側は以下のように主張して情状酌量による死刑回避を訴えたが[新聞 122][新聞 123][新聞 124]、その主張は自ら死刑を望んでいた被告人Hの希望に反するものだった[書籍 17]

  • 被告人Hは最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで精神的に極度に追い詰められ自暴自棄の心理状態にあった[新聞 122][新聞 124]。完全責任能力を認めた精神鑑定結果・検察側主張には疑問がある[新聞 122]
  • 被告人Hは幼少期の家庭環境にも恵まれておらず被告人1人の責任とは言えない[新聞 122]
  • 被告人Hは捜査・公判とも誠実に協力しており、求刑通りの死刑判決は重すぎて量刑不当であり、情状酌量により死刑適用を回避するのが相当である[新聞 122][新聞 125][新聞 126]

最終弁論後に[書籍 18]最終意見陳述が行われ[新聞 123][新聞 124][書籍 18]、その陳述の場で「連続殺人鬼」として法廷に立った被告人Hは[書籍 2]涙を流しながら以下のように懺悔の言葉を述べ[書籍 2][書籍 18]、自ら死刑を希望する意思を示した[書籍 19][新聞 122][新聞 124][新聞 127][新聞 125][新聞 126]

  • 自己中心的な考え・困難に立ち向かう勇気のなさ・命の尊さへの無理解から引き起こした犯行で[新聞 122]、一切弁解の余地はない[新聞 122][書籍 18]。今すぐ命を絶って詫びたいが、それでも被害者・遺族から許されるとは思っていない[書籍 18][新聞 124]
  • (求刑通り死刑判決を受けることで)一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい[新聞 122][書籍 18][新聞 124][新聞 127][新聞 125][新聞 126]。被害者に深く謝罪し冥福を祈るしか術がない[新聞 122]
  • (死刑判決の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで「被害者の恐怖・苦痛の何分の一か」を味わいたい[新聞 122][書籍 18][新聞 124]
  • 「自分はいったい何のためにこの世に生まれてきたのか」「どのような生き方をしてきたのか」を考えると辛く悲しい気持ちでいっぱいだ[書籍 18]

祝康成(現:永瀬隼介)の評価編集

本事件の刑事裁判を取材していた作家・祝康成(現:永瀬隼介)は同日の公判で開かれた最終弁論・最終意見陳述を傍聴しており、その後には広島拘置所に収監されていた被告人Hから手紙を受け取った[書籍 18]

被告人Hは一貫して弁護人以外との面会を拒否しており、永瀬に手紙を送ったのはこの1度だけだったが[書籍 18]、その手紙には以下のような心境がつづられていた[書籍 18]

  • 「(逮捕されてから)これまでの3年間は何百回と想い悩み苦しみ、眠れない夜もたくさんあったが、今はもう何も申し上げることはない」[書籍 18][書籍 2]
  • 「これまでは担当の弁護士以外の誰とも面会・文通などの交流はしておらず、今後もお願いするつもりはない」[書籍 18]

永瀬は後に市川一家4人殺人事件犯行当時少年の死刑囚を取材したノンフィクション小説『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で「市川一家4人殺人事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[書籍 2]

死刑判決編集

2000年(平成12年)2月9日に判決公判が開かれ[新聞 127]、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は検察側(広島地検)の求刑通り被告人Hに死刑判決を言い渡した[新聞 5][新聞 128][新聞 129][新聞 130][新聞 131][新聞 132][新聞 133][新聞 125][新聞 126][新聞 134][新聞 3][新聞 135][新聞 136][新聞 137]

死刑判決を言い渡す際は判決主文を後回しにして判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は異例の冒頭主文宣告を行った[注 11][新聞 132][新聞 133][新聞 134]。広島地裁は主文言い渡し後に朗読した判決理由にて以下のように厳しく各情状を指摘した[新聞 134]

  • 「教師を目指していた被告人が『大学受験の失敗・結婚後の妻の病気へのストレス』から『行き場のない挫折感』を募らせていった境遇には同情の余地があるが、わずかな金を奪うため人の生命を奪ったのはあまりにも短絡的で最大限の非難に値する」[新聞 134]
  • 「犯行は冷酷非情で被害者の無念さは想像を絶する」[新聞 125][新聞 126]
  • 「短期間に4人の命を奪った稀に見る凶悪事案だ。計画性は明白で酌量の余地はない」[新聞 3]

その上で量刑について以下のように結論づけた[新聞 134][新聞 3]

判決を言い渡した後、戸倉は被告人Hへ以下のような説諭の言葉を掛けた。

  • 「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは心の底から出たものと信じている」[新聞 133]
  • 「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」[書籍 19][新聞 134][新聞 3]

判決を傍聴した被害者遺族からは「死刑は当然。絶対に許せない」「被告人Hは法廷で謝罪したが、もっと早く謝ってほしかった。死刑判決が出たことで娘の墓前に報告できる」など、犯行への憤り・判決を評価する声が相次いだ[新聞 134][新聞 133]。また被告人Hの元同僚であるタクシー運転手は『読売新聞』の取材に対し「度々公判を傍聴したが、被告人Hが自ら死刑を望む発言を繰り返していたのが印象的だった。死刑はやむを得ないだろう」と述べた[新聞 133]

甲斐克則広島大学法学部教授(刑法)は『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版記事中にて「『最高裁が死刑適用に慎重になっている流れ』に逆行するものだ。確かに犯行は悪質で被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は自首の成立・犯行後の改悛の情を認めており、『永山基準』などそれまでの判例が示した死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」と述べ、判決に疑問を呈した[新聞 133]

一方、藤田浩・広島経済大学経済学部教授(比較憲法)は同記事中にて「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では被告人の自供もあり冤罪の可能性は低い。犯行の悪質さ・被害者感情などを考えると死刑はやむを得ないのではないか」と評価した[新聞 133]

被告人Hは同日、収監先・広島拘置所に戻った直後に行われた職権面接において「判決を聞いたら足が震えた」「本日、こうして無事に判決の言い渡しを受けることができたのも、ひとえに(広島拘置所)職員の皆様のおかげであり、深く感謝しております」「控訴はせずに(死刑確定)判決を受け入れることになりますが、職員さんには絶対に迷惑をおかけするようなことはいたしません。死刑執行までの長い間お世話になりますが、今後ともよろしくお願いいたします」などと述べた[2]

控訴せず死刑確定編集

情状酌量による死刑回避を求めていた弁護人は判決後に『朝日新聞』の取材に対し「予想されたとはいえ厳しい判決だ。控訴するかどうかは被告人Hと早急に接見して決めたい」とコメントした[新聞 134]。被告人Hは公判後に収監先・広島拘置所で弁護人・二国則昭弁護士らと面会したが[新聞 138]、その際に広島高等裁判所への控訴をしない意思を伝えたため、弁護人らは控訴を断念する方針を決めた[新聞 138]

被告人Hは控訴期限の2000年2月24日0時までに広島高裁に控訴する手続きを取らなかったためにそのまま死刑判決が確定した[新聞 139][新聞 140][新聞 141][新聞 142][新聞 143][新聞 144]。この時点で最高裁判所広報課が調査した結果によれば、1989年から1999年までの11年間で第一審・地裁段階にて言い渡された死刑判決は全国で約50件だったが、そのうち被告人が控訴せずに死刑が確定した事例は確認できる限りで3件しかなかった[新聞 139][新聞 140]

死刑執行まで編集

死刑判決が正式に確定した直後の2000年2月25日、死刑囚Hは収監先・広島拘置所にて同日から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行することなどを拘置所職員から告げられると、直立不動の姿勢から一礼して「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた[2]。その直後の2000年3月3日に「心情などの把握」などを目的に行われた拘置所長との所長面接において、死刑囚Hは以下のように述べた[2]。その態度は終始冷静で、後に足立修一弁護士が起こした#国家賠償請求訴訟判決では「礼儀をわきまえて明るく振る舞っていたが、涙を流す場面もあった」と事実認定された[2]

  • 「自殺などで(拘置所職員の皆さんに)迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、本番(死刑執行の時)で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」[2]
  • 「(残された)娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。去年(1999年)の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。(娘は)『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。(娘は)小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」[2]
  • 「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」[2]
  • 「判決の時、キンタマが縮み上がりました」[2]

前述の所長面接から丸1週間後の2000年3月10日、死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人が広島拘置所に赴き、死刑囚Hとの接見を申し入れた[2]。これに対し広島拘置所長は「死刑判決が確定したため、弁護士2人と死刑囚Hは既に何の関係もなくなっているが、死刑囚Hが長期にわたり世話になった弁護士であれば心情安定につながり処遇上有益であろう」と判断し、死刑囚Hに接見の意思確認を行った上で同日9時22分から8分間、拘置所職員の立ち合いの下で特別面会として接見をさせた[2]。この接見の際、死刑囚Hは弁護士2人に対し「これでお会いすることはご遠慮願います。お世話になりました」と述べており、その後は2006年12月14日に国賠訴訟の原告・足立修一広島弁護士会所属の弁護士)が接見を拒否されるまでの間、死刑囚Hは弁護士との接見・信書の授受をしたことはなかった[2]。なお2002年(平成14年)2月9日、別の弁護士が死刑囚Hに来信を行ったが、これは拘置所長により「親族以外のものからの来信」として不許可とされたため、その信書は死刑囚Hには届かなかった[2]

死刑囚Hは2005年(平成17年)8月18日、広島拘置所長宛てに「今後、書信およびパンフレットなどは、親族からのもの以外は全て受け取りを拒否する」との願箋を提出した[2]。また、死刑執行2か月前の2006年(平成18年)10月16日には、担当者に「心の悩み」として「居室が変更になってから何もやる気がしない。請願作業にも身が入らないし教誨も休みたい」などと申し述べた[2]

死刑執行11日前の2006年12月14日、後述のように弁護士・足立修一が「死刑囚Hに再審請求・恩赦出願を行う意思があるかどうかを確認するため」として収監先・広島拘置所に接見を申し入れたが拒否された(#国家賠償請求訴訟の節を参照)[2]。その5日後の2006年12月19日(死刑執行6日前)、広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(以下「第二統括」)は「死刑囚Hの心情を把握する目的」で面接を実施した[2]。この際、死刑囚Hは「10月16日に『何もやる気がしない』などと悩みを吐露したこと」について、『現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません」と述べた[2]。また、「2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?」と尋ねられると死刑囚Hは「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」などと述べた[2]

足立との接見拒否から11日後の2006年12月25日法務省法務大臣長勢甚遠)の発した死刑執行命令により収監先・広島拘置所で死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された[新聞 6][新聞 13][新聞 145][新聞 146][新聞 147]。同日には東京拘置所でも死刑囚2人・大阪拘置所でも1人と、死刑囚Hを含めて死刑囚計4人の死刑が執行された[新聞 6][新聞 13][新聞 145][新聞 146][新聞 147]。死刑囚4人に対する同時執行は1997年8月1日、法務大臣(当時)・松浦功の死刑執行命令により永山則夫永山則夫連続射殺事件)・夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら計4人の死刑が執行されて以来、9年4カ月ぶりだった[新聞 6][新聞 13]共同通信記者・西條高生は「今回の死刑執行で1日の死刑執行人数が4人と多くなった背景には、前法務大臣・杉浦正健が1年近く死刑執行命令書にサインしなかったことが関係しているだろう」と指摘した[新聞 6]

国家賠償請求訴訟編集

広島弁護士会所属の弁護士・足立修一は後述の接見拒否当時は「死刑囚Hを含む弁護人選任依頼者から再審請求の弁護人に選任されたり、その依頼を受けていたわけではなく、死刑囚Hとの接見依頼も受けていなかった」状態だった[2]

2006年12月1日、足立は死刑廃止運動を行う市民団体に所属していた知人から「年末に死刑囚Hの死刑が執行されそうだから、死刑囚Hの元国選弁護人の氏名を教えてほしい」と依頼された[2]。足立はこれに対し「自分も『元国選弁護人のうち弁護士1人に連絡を取り、死刑囚Hと面会して恩赦・再審を申請できないか』と考えている」と伝えた上で、その元国選弁護人に対し「死刑囚Hと面会してほしい」と依頼した[2]

これを受けて死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人は2006年12月14日、「安否伺い」を理由に収監先・広島拘置所にて死刑囚Hとの接見を申し入れたが許可されなかった[2]。その話を聞かされた足立は「死刑囚Hへの死刑執行が近い時期に迫っている」と感じたため「再審請求を行う必要性が強い。死刑囚Hと接見して再審請求・恩赦出願の権利行使を促すべきだろう」と強く感じた[2]

これを受けて足立は死刑執行11日前の2006年12月14日15時10分ごろ、「再審請求についての説明・意思確認を行おう」と収監先・広島拘置所に出向き、「再審請求の弁護人となろうとする者」として死刑囚Hとの接見を申し入れた[2]。15時20分ごろ、広島拘置所第二統括の刑務官は「足立が死刑囚Hとの接見を申し入れている」ことを聞き、15時40分ごろになって接見係の副看守長からその要件を確認した上、首席に「原告の接見申し入れ内容は『再審請求の件』である」ことを報告した[2]

同日15時55分ごろ、首席は第二統括に対し「死刑囚Hは再審請求をしているわけではないため、足立は面会の相手方として該当しないため、面会を断るように」と指示した。これを受けて第二統括は足立に対し、「死刑囚Hは再審請求を提起していないため、面会はできません」と伝えた[2]。足立はこれに対し「責任者を呼んでほしい」などと求めた上で、職員応接室で対応した職員に「死刑囚H本人に自分が面会を希望していることを伝えてほしい。再審請求の意思があるかを確認するためにここに来たのだから面会をさせてほしい」「面会させないにしても『再審請求を起こす意思があるかどうか』について自筆で回答をもらって書面による意思確認をしてほしい」などと依頼したが、そのような対応は取られず[2]、職員は「これ以上話はできない」などとして足立の面会要請を拒否した[新聞 148][新聞 149]

職員のこの対応を「不当」と訴えた足立は国を相手取り、2007年8月2日付で慰謝料など約180万円の支払いを求めて広島地裁に国家賠償請求訴訟を起こした[新聞 150][新聞 148][新聞 149]。足立は提訴後に記者会見で「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されている現実に光を当てたい」とコメントした[新聞 148]

広島地方裁判所金村敏彦裁判長)は2009年12月24日、原告・足立の請求を棄却する判決を言い渡した[2][新聞 151][新聞 152]。広島地裁は判決理由で「死刑確定者は刑事訴訟法で規定された『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、元死刑囚Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には元死刑囚Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた[2][新聞 152]。足立は判決を不服として広島高等裁判所に即日控訴した[新聞 151][新聞 152]

広島高裁(小林正明裁判長)は2010年12月21日、第一審判決を支持して原告・足立の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 153]。広島高裁は判決理由で「元死刑囚Hは死刑判決を自ら受け入れていたことが認められる。原告は元死刑囚Hから再審請求の依頼を受けていないので接見交通権は保証されていない。一方的に死刑確定者(死刑囚)との接見を希望する弁護士には接見交通権を補償すべきではなく、拘置所側の裁量権に逸脱は見られない」と認定した[新聞 153]。原告・足立は判決を不服として2010年12月24日付で最高裁判所上告した[新聞 154]

最高裁第一小法廷桜井龍子裁判長)は2011年10月13日付で原告・足立の上告を棄却する決定を出したため、足立の敗訴が確定した[新聞 155][新聞 156]

事件の影響編集

かつてHが被害者らを物色した新天地公園に立っていた若い売春婦たちは事件後、携帯電話で馴染みの常連客と連絡を取り合うようになったため、事件から4年が経過した2000年時点では滅多に公園に立たなくなった[書籍 18]

廿日市警察署の対応編集

捜査本部が設置された広島県警廿日市警察署(署長:吉村一彦、署員115人)では1996年9月14日に管内の湯来町内でDの遺体が発見されたことを受けて150人態勢の捜査本部が設置され、同署からも刑事課を中心に多くの捜査員が本部入りした[新聞 157]。当時管内での殺人事件の発生は1993年8月以来だった上、署が保有していた1897年明治30年)以来の資料では「(管内で)連続殺人事件が発生した」とされる記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来前代未聞の大事件となった[新聞 157]

それだけでなく1996年10月12日に開幕を控えた秋の国民体育大会(国体)会場のうち柔道・剣道・山岳の各競技会場が廿日市署管内にあり、特に廿日市市スポーツセンターで行われた柔道競技には天皇皇后が見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った[新聞 157]。また新制度による初の国政選挙となった第41回衆議院議員総選挙(1996年10月20日投開票)では激戦の広島県第2区にて刑事課17人中3人が選挙違反監視を専従で行っており、かつてない忙しさに見舞われた廿日市署では署員から「目が回る」と悲鳴が上がっていた[新聞 157]

吉村署長は『朝日新聞』の取材に対し「事件では(県警本部の)捜査一課との連携も上手くいっている。いろいろと(事件などが)重なりきついのは確かだが、署員の士気も上がっており今後も最善を尽くしたい」と述べた[新聞 157]

広島県タクシー協会の対応・風評被害編集

広島県タクシー協会(会長:濱田修)によれば[新聞 158]、事件発覚後には広島市内で繁華街を中心に夜間のタクシー利用が落ち込み、特に女性客のタクシー離れが顕著となった[新聞 8]。また、加害者Hが勤務していたタクシー会社(広島市東区)は中国運輸局から「日報・記録計(タコメーター)などによる日常の運行管理体制・運転手教育」などについて監査を受けたほか[新聞 159]、警察発表・新聞報道などでは詳細な住所こそ発表されなかったが、電話帳の情報・会社の建物写真などからすぐに会社が特定されてしまい、同社(車両数約30台)に対しては運転手に遺体遺棄現場へ案内させる嫌がらせ・無言電話・嫌がらせ電話が掛かるなどしたため、社員が退職したり休みを取ったりした[新聞 7]

広島県国体局長・和田凡生は「1人が起こした事件のせいで広島全体のイメージが悪影響を受けてはたまらない」としてタクシー業界に対し改めて「親切で気持ちいい応対」の徹底を呼び掛けたほか[新聞 17]、事件を受けて広島県タクシー協会広島支部(支部長:新谷英幸)は「ひろしま国体秋季大会開幕を控え、業界を挙げて信頼回復に乗り出そう」として[新聞 8]、1996年10月11日に広島市西区内のホテルで広島市内60社のタクシー会社の経営者ら約100人を招集して緊急会議を開いた[新聞 158]。会議では加害者Hが勤務していたタクシー会社の幹部が出席して陳謝したほか、[新聞 8]、濱田会長が「今回の事件で市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するために業界が一団となって努力していこう」[新聞 158]「国体開催で県外客が増える。サービス向上に心掛け汚名返上してほしい」と話した[新聞 8]、会議に出席した経営者からは「最近は『乗務員の接客態度が悪い』という苦情が多く寄せられる。事件を機に乗務員の再教育を徹底すべきだ」などの意見が出され[新聞 158]、最後に「協会に加盟する広島市内の全タクシー(約2,300台)に乗客向けの謝罪文・サービス向上や運転手教育徹底など再発防止策を盛り込んだチラシを車内掲示する」ことが決められた[新聞 8]。協会はその後も他の地域でも会議を開き信頼回復を呼び掛けた[新聞 158]

加害者Hの元上司は『朝日新聞』広島総局記者・樫山晃生の取材に対し「彼(H)の起こした事件に責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考えて会社を潰さないようにするだけでも必死だった。1996年12月時点では(事件発覚直後と比べて)事件に関する電話は少なくなり、売り上げは落ちたが社内の結束は強くなった」と証言した[新聞 7]。この取材結果を振り返り樫山は「新聞・テレビの報道では会社は匿名で報道されたが、結果的には会社がダメージを受けることとなってしまった。報道では真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と身が引き締まる思いがした」と振り返った[新聞 7]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ この上司は後に『中国新聞』の取材に対し「この一件について厳しく注意はした。営業中にこのような事故を起こしていたら解雇していた」と述べた[新聞 25]
  2. ^ 現場は広島市安芸区との市町境付近で、国道31号と合流して広島市街地方面へ向かう国道2号バイパス付近[新聞 48]。Aの自宅から約14km・広高校からは約17km地点で[新聞 48]、海田町はAの通学経路から外れていた一方、広島市中心部 - A宅への経路上に該当していた[新聞 49]
  3. ^ 捜査本部からの要請を受け、広島県歯科医師会は県内約1,280の診療所に対し女性の歯の状況を記した所見を送った[新聞 53]。捜査本部は歯科医院のカルテなどを調査した上で[新聞 20]、歯の治療痕を確認して被害者Aの身元確認に至った[新聞 54]
  4. ^ Dの遺体の服装は『中国新聞』では「グレーの長袖セーター・レンガ色ズボン」[新聞 44]、『読売新聞』では「ベージュのタートルネック長袖セーター・えんじ色のスラックス」と報道されている[新聞 45]
  5. ^ この指輪は1995年ごろまで全国的に流行し、広島市内のアクセサリーショップなどでも販売されていた[新聞 44]
  6. ^ 『中国新聞』1996年9月21日夕刊では「盗難車で逃走中の21日5時25分ごろに窃盗容疑で逮捕された」[新聞 67]、1996年9月22日朝刊では「21日4時30分ごろに検問を突破した」と報じられている[新聞 66]
  7. ^ またこの時点ではA事件を除きすべて具体的な殺害現場も判明していたが[新聞 34]、3事件とも「Hが乗務中に中区内の繁華街で声を掛けてタクシーに乗せ、車内で殺害していた」「被害者の多くが夜間の繁華街で頻繁に目撃されていた」「加害者Hは繁華街路上によく停車していた」という共通点から「加害者Hは無差別に女性へ声を掛けるなどして犯行を繰り返していた」ことが濃厚となった[新聞 10]
  8. ^ 被疑者Hはこの被害者女性(=A)について「名前は知らなかったが(遺体発見が報道された)前述のA事件も自分がやったと思う」と供述した[新聞 70]
  9. ^ 遺体発見現場から己斐峠までは約2kmしか離れておらず、地形的にも被疑者Hの供述と一致した[新聞 79]
  10. ^ 本事件以前には勝田清孝事件(1972年9月 - 1977年8月)、富山・長野連続女性誘拐殺人事件(1980年2月 - 3月・警察庁広域重要指定111号事件)、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年8月 - 1989年6月・警察庁広域重要指定117号事件。「宮崎勤事件」とも)、スナックママ連続殺人事件(1991年12月、警察庁広域重要指定119号事件)などがあった[新聞 79]
  11. ^ 裁判所が死刑判決を言い渡す際に主文を後回しにせず冒頭で言い渡した例は他に大久保清事件(大久保清)・藤沢市母娘ら5人殺害事件東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮崎勤)、附属池田小事件熊谷連続殺人事件などがある。

出典編集

新聞記事編集

※出典見出し中のうち加害者(元死刑囚H)の実名は姓イニシャル「H」に、被害者の実名はそれぞれ本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。
  1. ^ a b c d e f 読売新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面11頁「主婦絞殺・死体遺棄事件 元タクシー運転手を逮捕/広島県警」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 『中国新聞』1997年2月11日朝刊3頁「H被告初公判の冒陳要旨」「問題にならぬ責任能力――中京大教授 空井健三
  3. ^ a b c d e f g h 『毎日新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面11頁「女性4人連続殺害事件 H被告に死刑 広島地裁判決」
  4. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15頁「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」
  5. ^ a b c 中国新聞』2000年2月9日夕刊1面1頁「女性4人連続殺人 H被告に死刑判決 広島地裁 『生命軽視の犯行』」
  6. ^ a b c d e f 『中国新聞』2006年12月26日朝刊第二社会面28頁「H死刑囚ら4人刑執行 05年9月以来 安倍内閣で初」「解説:制度全体の情報開示を」(記者:共同通信・西條高生)
  7. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年12月25日朝刊広島県版「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(記者:樫山晃生)
  8. ^ a b c d e f 『中国新聞』1996年10月12日朝刊第17版第一社会面31頁「女性連続殺人 タクシー全車に謝罪文 協会広島支部 再発防止策を協議」
  9. ^ a b c d 『中国新聞』1996年5月7日夕刊第6版第一社会面3頁「広島市内 水路に若い女性死体」
  10. ^ a b c d e f g h i 『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版第一社会面23頁「H容疑者 わずか5ヵ月次々凶行 無差別に女性へ声? 発覚後も乗務続ける」
  11. ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<上> 容疑者の素顔 日常はまじめな姿 在学時から借金、親がかり」
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面21頁「[心想]広島・女性連続殺人事件 H被告、転落の軌跡」(記者:辻加奈子、谷川貴史)
  13. ^ a b c d 『読売新聞』2006年12月25日夕刊1面1頁「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」
  14. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1997年2月11日朝刊広島県版「証拠の採用を留保 精神鑑定申請、視野に 被告初公判 /広島」
  15. ^ a b c d e 『読売新聞』1997年5月22日朝刊広島県版「連続殺人事件公判 H被告が犯行経緯を証言」
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m 『朝日新聞』1996年10月7日朝刊第一社会面31頁「『被害者にすまない』 容疑者供述 広島の連続女性殺人【大阪】」
  17. ^ a b c d e 『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<下> 背景と波紋 金目当てに疑問も 業界、イメージ低下懸念」
  18. ^ a b c d e f g h 『中国新聞』1996年5月15日朝刊第17版第一社会面25頁「広島の女性死体 黒瀬町の高校1年生 歯の治療痕など決め手」
  19. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年5月15日朝刊広島県版「事件・事故両面で捜査 広島市安佐南区の女性遺体、身元判明 /広島」
  20. ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年5月14日大阪夕刊第二社会面14頁「広島の女性遺体 高1少女と断定」
  21. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年5月14日朝刊広島県版「下側二本は乳歯のまま、身元は依然不明 広島市の女性変死体/広島」
  22. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年12月4日夕刊第一社会面11頁「容疑者を再逮捕 連続女性殺人事件、4人目で 広島県警」
  23. ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15頁「林道わきの側溝に女性他殺体? 不審な車の目撃者を捜査/広島県警」
  24. ^ a b 『中国新聞』1996年10月8日朝刊第17版第一社会面23頁「緊急リポート 広島の女性連続殺人事件<中> 被害者との接点 『手当たり次第』誘う 盛り場で長時間、車止め」
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中国新聞』1997年2月11日朝刊第一社会面25頁「H被告初公判 検察冒陳 4人中3人同じ手口 わざとエンスト『足元見て』 修理装い後ろから絞殺」「遺族『厳しい処罰を』 “快楽殺人”に募る怒り」
  26. ^ a b c 『中国新聞』1996年10月9日朝刊第17版第一社会面27頁「女性連続殺人 白木の被害者 広島市の23歳と判明 歯の治療痕決め手」
  27. ^ a b c d e 朝日新聞』1996年10月9日朝刊広島県版「自宅近くの殺害に驚き 新たに被害者の身元判明 連続殺人 /広島」
  28. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月5日朝刊広島県版「殺された女性2人、容疑者と顔見知り 連続殺人事件 /広島」
  29. ^ a b c 『中国新聞』1996年10月10日朝刊第17版第一社会面29頁「女性連続殺人 H容疑者、殺害後に 『4人から十数万円奪う』」
  30. ^ a b 『中国新聞』1996年10月8日夕刊第6版第一社会面3頁「女性連続殺人 白木町の遺体 被害者は広島の23歳 歯の治療痕一致」
  31. ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年10月7日東京朝刊第一社会面39頁「女性4人殺害容疑 逮捕の元タクシー運転手 女子高生、主婦らも/広島」
  32. ^ a b 『朝日新聞』1996年10月7日朝刊広島県版「捜査員増強 容疑者、別の殺害をさらに自供 広島連続女性殺人 /広島」
  33. ^ a b c 『中国新聞』1996年10月17日朝刊第17版第一社会面31頁「Cさん殺害 H被告 遺体シートで覆う 発見を遅らせる目的か」
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m 『中国新聞』1996年10月7日朝刊第17版1面1頁「H容疑者 2女性殺害新たに自供 連続殺人計4人に 山中から1遺体 もう1人は女子高生か」
  35. ^ a b 『朝日新聞』1996年10月8日朝刊第一社会面31頁「『金目当てに殺害』 広島の連続殺人で容疑者供述 【大阪】」
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参考文献編集

国家賠償請求訴訟の判決文編集

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    • 原告被告
      • 原告:足立修一(広島弁護士会所属の弁護士)
        • 原告訴訟代理人弁護士40人:武井康年・大迫唯志・久保豊年・芥川宏・中田大・前川哲明・端野真・赤松範夫・生田博通・石口俊一・井上明彦・今枝仁・内田雅敏・胡田敢・遠藤憲一・奥苑泰弘・戸田慶吾・篠原健・外山佳昌・長尾俊明・中村順英・原田武彦・本田兆司・山下江・山田延廣・浅井正・五十嵐二葉・上田國廣・及川智志・金尾哲也・小坂井久・斎藤利幸・斉藤道俊・阪口剛・田口光伸・田中礼司・長谷川亮・福島康夫・若松芳也・大杉光子
      • 被告:日本国
    • 判決内容:原告側請求棄却(原告側控訴)
    • 裁判官金村敏彦裁判長)・福田修久・三貫納有子
    • 口頭弁論終結の日:2009年10月15日

書籍編集

  • 丸山佑介「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」『判決から見る猟奇殺人ファイル』彩図社、2010年1月20日、第1刷、52-61頁。ISBN 978-4883927180
  • 新潮45』編集部『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』新潮社、2014年2月20日(原著2002年3月1日)、24冊、287-308頁。ISBN 978-4101239132
    • 祝康成(現:永瀬隼介)が『新潮45』2001年1月号に寄稿した本事件の記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
  • 永瀬隼介(本名・祝康成からペンネーム変更)『19歳 一家四人惨殺犯の告白』角川文庫、2004年8月25日、217-218頁。ISBN 978-4043759019

関連項目編集

女性を標的とした主な連続殺人事件

外部リンク編集