広島市立広島商業高等学校
広島市立広島商業高等学校(ひろしましりつ ひろしましょうぎょうこうとうがっこう, 英: Hiroshima Municipal Hiroshima Commercial High School)は、広島県広島市東区にある公立商業高等学校。
広島市立広島商業高等学校 | |
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国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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学区 | 広島市域 |
校訓 | 自主・誠実・忍耐 |
設立年月日 | 1921年 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | みらい商業科 |
学科内専門コース | 経理コース 金融コース 秘書コース 販売コース 観光コース 情報処理コース 情報企画コース 進学コース |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D134210000854 |
高校コード | 34175E |
所在地 | 〒732-0068 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
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広島県立広島商業高等学校(広商)と区別するために、「市商」もしくは「広島市商」の略称で親しまれている。
概要編集
市商での平和の教育について
広島市の平和教育についての考え方(平和教育の目標)→ヒロシマの被爆体験を原点として,生命の尊さと一人一人の人間の尊厳を理解させ,国際平和文化都市の 一員として,世界恒久平和の実現に貢献する意欲や態度を育成する。
まず市商では,大正10年(1921年)に広島市立商業学校として創立しました。昭和19年(1944年)戦争は翌年昭和20年(1945年)に終わるのですが,戦争末期には厳しい戦時体制が敷かれました。そして,労働力・国防要員としての役割が学徒にも求められるようになったのです。 本来の商業教育は戦時には不要のものとして否定され,全国で441校あった男子商業学校は48校(女子商業学校53校を含めても計101校)しか残らないという状況に陥ります。 沿革にもあるように,市商も広島市立造船工業学校と改称されました。商業を学ぶべく入学してきた先輩方は,造船または機械のどちらかに転科させられました。戦争は,先輩方から健全な商業教育を完全に奪ったのです。 商業高校の生徒として,知識を身につけスキルアップしていくためには,大前提として「平和」が不可欠です。市商が,広島市商ピースデパートの開催理念を,「平和学習・平和貢献を盛り込んだデパート」と定めた理由もここにあります。
※市商高校の沿革を通して平和を考える
昭和20年(1945年) 8月 全校舎焼失 (被爆当時は南観音町→翠町→仁保町丹那)
■校舎の被害…当時の校舎の場所:爆心地から約2km離れた南観音町 窓ガラスなどは一瞬にして破砕,二階建て校舎の階上は半壊。その後全焼。
■人的被害…下記の表の通り
区 別 | 教職員 | 生徒 | 備考 |
即死者 | 5人 | 約246人 | |
重軽傷者 | 重 6人
軽 2人 |
重 30人
軽 50人 |
員6人中,3人は10月中旬までに死亡 |
行方不明者 | 不明 | 不明 |
※材木町で建物疎開作業をしていた本校の教員5人・生徒194人は全員犠牲となりました。その中で何らかの理由で当時疎開作業に従事していなかった者だけが死を免れたのです。
- 校訓
- 「自主・誠実・忍耐」
教育目標
1.自らが課題を認識し、解決に向けて思考・判断し、行動できる「生きる力」を育成する。
2.ビジネス分野における新たな価値の創造に挑む、商業の「スペシャリスト」を養成する。
3.幅広い「教養」と豊かな「人間性」を身につけさせる。
- 校章
- 旧・広島市商業学校の校章を継承し、ギリシャ神話に登場する富の神ヘルメス(ローマ神話のマーキュリーと同一視される)が持っていた2匹の蛇が巻き付いた杖(カドゥケウス)をかたどったもの。 このヘルメスの杖の形が広島市の「市」の文字を表している。
ユネスコスクール
ユネスコスクールとは、1953年、ASPnet (Associated Schools Project Network)として、ユネスコ憲章に示された理念を学校現場で実践するため、国際理解教育の実験的な試みを比較研究し、 その調整をはかる共同体として発足し世界中の学校で形成されているネットワークです。我が国では、「ESDの推進拠点」と位置づけられています。
また、時代はESDを求めており、学習指導要領にもESDが位置付けられ、「持続可能な社会の創り手」の育成に向けた教育活動がすべての学校において取り組まれることとなっています。
市商では、広島市商ピースデパートを始めとした多くの活動が認められ、チャレンジ期間、国内審査を終え、令和3年5月24日付で、「ユネスコスクール・キャンディデート」に位置付けられました。これは、申請から認定までが長期化している現状を踏まえ、認定されているユネスコスクールと同等の活動を認めるため、新設されたものです。
・ユネスコの基本理念は、次の4分野です。
①地球規模の問題に対する国連システムの理解
②人権、民主主義の理解と促進
③異文化理解
④環境教育
・ユネスコスクールに期待されるものとして
①ユネスコの価値と目的を尊重
②生徒に「平和を守る心を醸成する」
③ユネスコスクール間の活発な交流
④ESDの実践モデル校
などが挙げられます。その質の担保として、年次報告書の提出や活動チェックシートを基にした自己評価と相互レビューがあり、自身の取り組みを科学的に振り返る絶好の機会と捉えています。
市商では引き続き、ビジネス活動の学び、ユネスコスクールとしての活動により多様なステークホルダーとの連携を深めながら、取組を続けていき、生徒ともに恒久平和、社会貢献を目指していく。
- 校歌
- 作詞・作曲は田中浩造、編曲は井上一清による。歌詞は2番まであり、校名は歌詞に登場しない。
- 設置課程・学科
- 全日制課程 1学科8コース
- みらい商業科 - 1年次は共通の科目を履修し、2年次から専門のコースに分かれる。
- 流通マーケティングコース
- 観光ビジネスコース
- 広報プロデュースコース
- 金融ライフデザインコース
- ビジネス実務コース
- 会計マネジメントコース
- ITエンジニアコース
- ネットビジネスコース
- みらい商業科 - 1年次は共通の科目を履修し、2年次から専門のコースに分かれる。
- 部活動
- 珠算部は全国レベル。2017年(平成29年)全国3位。
- 商業研究部が2015年に全国商業研究大会出場。
- コンピュータ部は全国情報処理競技大会に25年以上連続出場。
- 演劇部が2017年(平成29年)第55回中国地区高等学校演劇発表会にて2位。
- 行事
- 体育大会では『市商音頭』という3年生の種目があり、生徒の中でも人気である。
沿革編集
- 1921年(大正10年)3月29日-広島市商業学校として設立認可。
- 同年 4月1日-広島市商業学校創立。(広島市南竹屋町)
- 同年 6月5日-旧制校歌制定。
- 1923年(大正12年)校旗制定。
- 1926年(大正15年)3月1日 - 広島市南観音町に新校舎が完成し、移転。
- 1942年(昭和17年)4月1日-広島市立第一商業学校と改称。
- 1944年(昭和19年)3月20日 - 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」(1943年(昭和18年)10月12日閣議決定)により「広島市造船工業学校」に転換。
- 1945年(昭和20年)
- 8月6日 - 広島市への原子爆弾投下により全校舎が焼失。
- 9月24日 - 広島市立第三国民学校(広島市立翠町中学校の前身[4])の校舎を借用し、授業を再開。
- 戦後 - 「広島市商業学校」に復称。
- 1948年(昭和23年)5月3日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、新制高等学校「広島県広島市商業高等学校」が発足。
- 1949年(昭和24年)4月30日 - 広島県高等学校再編により、観音と基町の両高等学校の商業科に編入。
- 1954年(昭和29年)9月1日 - 広島県広島基町高等学校より分離し、「広島県広島市商業高等学校」(再)を設置。
- 1959年(昭和34年)4月 - 定時制課程を広島県広島大手町商業高等学校として分離。全日制課程を広島市仁保に移転。
- 1965年(昭和40年)6月11日 - 広島市牛田(現在地)に移転。
- 1980年(昭和55年)4月1日 - 設置者である広島市の政令指定都市移行に伴い、「広島市立広島商業高等学校」(現校名)と改称する。
- 1988年(昭和63年)4月1日 - 情報処理科を新設し、トータルプランを開始。
- 1992年(平成4年)4月1日 - OA秘書科・ビジネス会計科を新設。
- 2003年(平成15年)4月1日 - OA秘書科・ビジネス会計科・情報処理科を情報ビジネス科・情報システム科へ改変。
- 2021年(令和3年)4月1日-新8コース設定。
出身著名人編集
交通機関編集
脚注編集
- ^ 商業教育資料76号(2007年5月5日発行)|実教出版じっきょう資料 PDFファイル
- ^ IPA 独立行政法人 情報処理推進機構:情報処理技術者試験:午前試験免除 基本情報技術者試験(FE)
- ^ “認定免除対象講座の一覧(PDF)”. 独立行政法人 情報処理推進機構. 2021年7月29日閲覧。
- ^ 広島市立第三国民学校は高等科のみを有する国民学校であったため、戦後の学制改革では小学校ではなく、新制中学校となった。