広島新田藩
概略
編集享保15年(1730年)より広島藩の蔵米3万石を与えられ、広島藩4代・綱長の三男・長賢により立藩した。藩主は参勤交代を行わず江戸定府の大名であった。藩主家は江戸屋敷の所在地から青山内証分家(青山浅野家)と呼ばれた。元治元年(1864年)には吉田(現在の安芸高田市)に吉田陣屋を構えた。明治2年(1869年)、広島藩に併合され廃藩となった。
『幕末の風雲急を告げる文久2年、幕府は機構改革の名のもとに青山侯に、江戸を引き払い、広島藩内に帰住することを命じた。当時の状況から長州藩に備えるためと、同藩が藩祖発祥の地、吉田郡山を占領するとの風説をおそれて、吉田に陣屋を設ける.
そのため御本館建築が準備されるとともに、長厚は江戸を引き上げ、広島水主町所在の本藩下屋敷に住んで居館の竣工を待った。御本館の位置を郡山山麓、祇園社の東側に、家臣たちの居宅を郡山の山麓をはじめ天神山、青山などに決め、直ちに準備にとりかかった。・・・・
総坪2950坪のうち建坪は440坪で、本館の外に土蔵、板蔵、物置外に米蔵131坪で、土塁に囲まれた長方形の敷地内に高壮な本館がたち、数十の居室に分画されていた。また、東門内には時櫓、西御門近くに御物見などがある陣屋であった。東側の現在吉田小学校の敷地には講学所、家老屋敷、御厩などがあり、それについで家臣の屋敷がならんだ。また、西方にも稽古場、同じく家臣の屋敷がならんだ。南方現在吉田高校グランドになっている所に馬場が設けられ、これをめぐって毛利氏時代からの内堀があった.
浅野近江守長厚の吉田入城は次のように決定した。
12月16日、広島御城出発⇒祇園町で御弁当小休⇒緑井村御小休⇒可部町で御泊り。同17日、可部町御本陣御出発⇒大林村御小休⇒上根村御弁当⇒勝田村御小休⇒川本村御小休⇒吉田町御本館到着。
この御入城についての沿道村々の注意や、御本陣、御弁当、御小休みなどでの準備などについての詳細な心得は11日までに示達が完了した。
御本館の建築が陣屋として藩制時代最後のものであったと同様、3万石の大名が家臣団を引き連れての移住は、おそらく最後のものだったであろう。
幕末の風雲あわただしい時とはいえ、一宿場町であった吉田が、一躍城下町に変貌するわけである。近江守の供揃いは総勢182名、それに人足などを加えて450余名の行列となった。
おもな家臣は次の通りであった。
○御家老・岡田直之助 ○御番頭・寺西権六 ○御用立役・平池与三郎、吉田守登
○御物頭・小島金次郎、栗間佐太郎 ○御留守居・竹内肇、峯岸多喜馬
○御側頭・栗城岩之丞、長谷川静輔、坂原小三郎、高島八三郎
○御歩行頭・倉西盛登、武下織之丞 ○御目附・南条綱蔵、南条直三郎、高木富蔵
○御側詰・岡田清十郎、小嶋荘次郎、伊藤保之丞、、大野八十郎、平井正太夫、 神保大八、高島良輔、牧原弥十郎、西川次太夫、永田他人登、伊藤幸之進
○御小姓・秋山盤十郎、長谷川乕之丞、栗間直吉、岩田寺三郎、松村清太郎、
塚本鋠吉、高橋騰太郎、栗木鈔蔵、栗間鉉之丞、伊藤銀蔵、秋山乕太郎・・・・・・』
*(カッコ内は旅人さんの個人ブログからの引用です。(現在閲覧不可)真偽は不明です。研究の一助になればと思い転記します。)
歴代広島新田藩主
編集- 浅野家
3万石 (1730年 - 1869年)