広島東照宮

広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう)は、広島県広島市東区にある神社(東照宮)である。

広島東照宮
広島東照宮01.JPG本殿
所在地 広島市東区二葉の里2-1-18
位置 北緯34度24分13秒
東経132度28分32秒
座標: 北緯34度24分13秒 東経132度28分32秒
主祭神 東照大権現(徳川家康
創建 1648年慶安元年)
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鳥居および参道

目次

概要編集

1648年慶安元年)創建。JR広島駅北側の二葉山中腹にある[1]。西側に広島県神社庁、裏手に金光稲荷神社がある。

祭神は東照大権現(徳川家康)で、没後50年ごとに「通り祭礼」という式典が行なわれる。

1945年昭和20年)広島市への原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ。

沿革編集

徳川家光日光東照宮を建立後、諸大名に東照宮の造営を勧めたため、全国各地に東照宮が創建されていった。広島東照宮もその中の一つである。浅野氏広島藩2代藩主浅野光晟は、生母である正清院(振姫)が家康の三女であることから特に造営に熱心で、正保3年(1646年)に東照宮の造営を開始し、慶安元年(1648年)7月に創建された[2][3]

明治維新後、しばらく荒廃したが明治末期に再建されている[3]

太平洋戦争当時、南下の参道には東練兵場が広がり、境内には大日本帝国陸軍第二総軍通信隊の通信兵約20人が常駐していた[1]。また空襲の可能性が低い区域のため、民間だけではなく公共機関の避難所にも指定されていた。ただ、安全性が高いことから疎開しなかったため、社宝もそのまま置いていた。

1945年(昭和20年)8月6日被爆。ここは爆心地から約2.10km(広島市公式)に位置した。爆風により建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが通信兵の手により更なる延焼から免れ全焼は回避された[1]。また社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた。翌日8月7日には境内南下に広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた。幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は7日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書(「原爆被災時のノート」[1])を記し、後日それを元に小説『夏の花』を執筆した。

翌年1946年(昭和21年)3月頃から境内を片付けはじめ、境内の半焼松材や市内の不要となった電柱を使って、仮拝所が設けられた。その後、1965年(昭和40年)東照公350年祭を期に社殿を再建、1984年(昭和59年)に本殿および拝殿などを建て替えた[2]

2008年平成20年)から2011年(平成23年)にかけて、被爆により傾いた唐門と翼廊を文化財建造物保存技術協会の指導のもと、保存修理工事が行われている[1]

文化財編集

全体的に江戸時代初期の特徴が見られる。

  • 本殿 - 4坪。現在のものは1984年に建て替え。
  • 拝殿 - 10坪。本殿と同様に1984年に建て替え。
  • 幣殿 - 12坪。本殿と同様に1984年に建て替え。

以下のものが広島市の重要文化財に指定されている。

  • 唐門、翼廊 - 1646年建立。木造本瓦葺き。1951年までに被爆被害の修復が行われた。2010年現在、被爆による傾きを修正する保存修理工事が行われている。
  • 手水舎 - 1648年建立。本瓦葺きの木造切妻造。1951年までに被爆被害の補修が行われた。1979年に保存修理工事がなされた。
  • 御供所 - 1648年建立。本瓦葺きの木造入母屋造。1951年までに被爆被爆の補修が行われた。1997年に保存修理工事がなされた。
  • 本地堂 - 1648年建立。本瓦葺きの木造宝形造。被爆被害の修理が行われた後、1984年に保存修理工事がなされた。

また、被爆関連の碑がいくつか存在する。

  • 二葉の里慰霊塔 - 1966年8月6日建立。建立者は宮司の久保田幸重。被爆当時、参道の石段横に湧く僅かな清水を求めて多数の避難者が集まり、死んでいった被爆者を慰霊するために建立された。遺骨は納められていない。
  • 原爆65周年追憶碑 - 2010年7月建立。詩人原民喜が被爆翌日にここで一夜を過ごした際にメモに刻んだ一節が刻まれている。揮毫秋葉忠利[1][4]
  • 玉垣 - 1995年建立。高さ1.00m×0.15m×0.15mで御影石。25基に2首ずつ、計50首の反核および平和を願う短歌が刻まれている。

参道並木編集

 
1945年米軍作成の広島市地図。"Hiroshima Station"(広島駅)西側を北へまっすぐ伸びる道の終点に"Tōshō-gū"(東照宮)があった。"ENKŌ-BASHI"(猿猴橋)は広島駅の真南にある。

かつて、猿猴橋東詰の西国街道との交点からここの鳥居までの参道筋には約500メートル規模の並木が存在した。

まず、慶長元年(1648年)神社創建時に参道にはマツが植えられた[5]。このマツ並木は枯れたことにより[5]西国街道側1/3がマツ、残り2/3の神社までがサクラ並木となった。このマツ並木は東松原と呼ばれ[5]現在の南区松原町の由来である。ちなみに参道筋から街道筋へとマツ並木は続き、街道筋の並木は別にいろは松原と呼ばれた[5]

このサクラおよびマツ並木は江戸時代の天明年間(1795年頃)の地図に記載されており[6]戦前絵葉書[2]にも登場している。参勤交代の際にこの東照宮に参拝した大名が通っている[2]

第二次世界大戦終戦まで存在していたものの、被爆により全滅した。現在は道路改良により道筋自体が変わっている[2]

交通編集

出典編集

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  1. ^ a b c d e 避難次々境内で救護 広島東照宮”. 読売新聞 (2010年8月29日). 2010年9月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e 広島の歴史的風景 (PDF)”. 広島県立文書館. 2014年6月20日閲覧。
  3. ^ a b 広島案内記』 吉田直次郎、1913年2014年6月20日閲覧。
  4. ^ 原民喜の追憶碑除幕 広島東照宮”. 中国新聞 (2010年7月26日). 2010年9月2日閲覧。
  5. ^ a b c d 広島県史』 広島県、1924年、37頁。2014年6月22日閲覧。
  6. ^ 新修広島市史 第五巻の地図「天明年間の広島城下絵図」参考

外部リンク編集