広恵寺城(こうえじじょう)は岐阜県中津川市福岡町の植苗木の城ケ根山にあった福岡遠山氏日本の城。市指定史跡

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広恵寺城
岐阜県
Koueiji03.jpg
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 遠山景利
築城年 鎌倉時代元弘建武
主な城主 遠山氏
廃城年 不明
遺構 不明
指定文化財 中津川市指定史跡
(広恵寺跡と周辺一帯)[1]
位置 北緯35度34分15秒
東経137度28分6秒
地図
広恵寺城の位置(岐阜県内)
広恵寺城
広恵寺城

歴史背景編集

美濃国恵那郡岩村城を本拠地とする地頭遠山氏の一族である遠山景利元弘建武年間(1334年~1336年)に築き、現在、廣恵寺址と呼ばれている観音堂の北の城山にあったとされている。正平15年(延文5年)美濃守護の土岐頼康仁木義長と東池田氏を攻めた際に広恵寺城主の遠山新藤太景信も従ったが正平16年(1361年)12月8日に京都で仁木義長と戦った際に土岐氏長山頼基に討たれた。(遠山家譜)。大永6年(1526年)に遠山昌利(一雲入道)が植苗木から高森山に館を移した。

伝説編集

遠山昌利が在城の時に、後醍醐天皇の皇子宗良親王が広恵寺城に身を寄せていると、近国の武士が蜂起して広恵寺城を囲み攻めて来た。味方は小勢で志気を失い、遠山一雲入道大いに嘆き社殿に向ひ一心に祈った。社殿から二筋の白羽の矢が出て敵の陣中に入り、見る間に忽ち天は墨を流したようにかき曇り、雷鳴と共に車軸を流すような大雨となった。敵兵は浮き足立ってきたと見えたので、「それ天王の加護なり。者共進め。」と下知し、短兵急をきって出たので、敵兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ、皇子は深く飛天王を崇敬し総社祇園午頭天王の八字を大書きし扁額を奉られた。」とのことである。

遺構編集

現在、城ケ根山の山麓には、石積み、礎石、古井戸、庭池、土塁や堀の跡の他に、廣恵寺址の観音堂、宝篋印塔五輪塔が残っている。かつては城主館や武家屋敷があり、植苗木は中世の恵那郡北部の中心地であった。

脚注編集

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  1. ^ 広恵寺城跡と周辺一帯”. 中津川市. 2012年9月19日閲覧。

外部リンク編集