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広滝水力電気株式会社(ひろたきすいりょくでんきかぶしきがいしゃ)は、明治後期に存在した日本の電力会社である。九州電力管内にかつて存在した事業者の一つ。

九州電気株式会社
(旧・広滝水力電気株式会社)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
佐賀県佐賀市唐人町
設立 1906年11月4日(広滝水力電気)
1910年9月5日(九州電気)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 中野致明(社長)
資本金 270万円(うち払込97万5000円)
株式数 旧株:8,000株(額面50円払込済み)
新株:4万6000株(12円50銭払込)
総資産 342万6067円
利益金 4万1612円
配当率 年率7.0%
決算期 6月末・12月末(年2回)

本社は佐賀県佐賀市1906年(明治39年)に設立され、筑後川水系の城原川水力発電所を建設して佐賀県内や福岡県筑後地方に電気を供給した。1910年(明治43年)に九州電気株式会社(きゅうしゅうでんき)へ改組するが、1912年(明治45年)に福岡市の博多電灯軌道(旧・博多電灯)と合併し、九州電灯鉄道となった。同社の後身で昭和期の大手電力会社東邦電力の前身の一つともいえる。

沿革編集

広滝水力電気設立編集

 
広滝水力電気の大株主となった福澤桃介

1891年(明治24年)に熊本電灯(後の熊本電気)が開業したことで始まった九州の電気事業は、その後熊本県以外にも長崎県大分県福岡県鹿児島県と各地に広がっていき、1903年(明治36年)までに九州では11の事業者が出現していた[2]。そのうち福岡市において1897年(明治30年)に開業した博多電灯(後の九州電灯鉄道)では、牟田万次郎という実業家が役員として参加していた[3]

牟田万次郎は旧鹿島藩出身の士族で、地元佐賀県で鹿島銀行頭取などを務めた後福岡に進出して博多電灯の役員に就任した[4]。牟田は実業家の野口遵の知遇を得たことで水力発電が有利であることを知り、電源を火力発電に依存していた博多電灯の経営陣に対し、佐賀県神埼郡脊振村(現・神埼市)を流れる筑後川水系の城原川にて水力発電を行いその電気を福岡へと高圧送電するという計画を持ちかけた[4]。しかし経営陣や株主からの賛同は得られなかったので、牟田は博多電灯の事業としてではなく個人で城原川の水利権を取得した。1903年6月のことである[4]

発電所からは福岡市のみならず佐賀市・福岡県久留米市にも送電が可能という立地条件に着目した牟田は、この3市に電気を供給する「三市水電会社」の設立を当局に申請した[4]。だが福岡市には先述の通りすでに博多電灯があり、久留米市でも地元有力者により久留米電灯の設立計画があったことから三市水電の設立は1905年(明治38年)7月に却下されてしまう[4]。このため牟田は佐賀県内への供給を行うよう計画を改めて「広滝水力電気」の設立を申請し、1906年(明治39年)9月にその認可を得た[4]

広滝水力電気の発起人には、牟田のほか、佐賀百六銀行頭取の中野致明、栄銀行頭取の伊丹弥太郎深川造船所を経営する深川文十ら佐賀の代表的な財界人が名を列ねた[4]。1906年11月4日、佐賀市内で創立総会が開かれ広滝水力電気株式会社が発足する[4]。資本金は30万円で、佐賀財界を代表して中野致明が社長に就任、実務担当の専務取締役には牟田万次郎が就いた[4]。他の地域に比べると起業が遅いものの、これが佐賀県で最初の電力会社である[5]

設立された広滝水力電気の大株主の中には、東京の実業家福澤桃介もいた。福澤の持株は総株数6,000株のうち1,500株[6]。元々この株は福岡の太田清蔵(当時博多電灯社長)が引き受けたものだが、太田の依頼で日露戦争後の株式投機で財を成した福澤に持ち込まれ福澤が払込みを行った[7]。福澤はこの頃より電気事業への投資を始めており、以後福岡の福博電気軌道愛知県豊橋電気名古屋電灯香川県四国水力電気など地方の電気事業を経営することになる[7]

合併問題編集

 
福岡の実業家太田清蔵

広滝水力電気の設立登記は1906年11月6日に行われたが、この日、広滝水力電気と博多電灯の間で合併契約が締結された[4]。これは牟田万次郎が、先に不許可となった「三市水電」の計画のうち福岡市への送電を実現するために画策したものであった[4]。また博多電灯としても、発電力の拡充と日露戦争後の石炭価格上昇対策という観点から開業以来の火力発電以外にも水力発電を電源としたいという意向が当時の社長太田清蔵にあった[8]。25日、博多電灯において臨時株主総会が開かれ合併問題が討議されるが、株主の中から炭鉱業者の堀三太郎、元福岡日日新聞主筆の山口恒太郎ら「火力派」と呼ばれたグループから強い反対意見が出され、合併の承認は得られず後日調査の上結論を出すということとなった[8]

広滝発電所建設予定地の視察などの調査が行われた結果、博多電灯の株主の間では「火力派」の勢力が強まるに至り、水力発電を提唱する太田らを支持する声は小さくなっていった[8]。資金調達などの都合で博多電灯社内の結論を待てない広滝水力電気は、12月20日をもって合併仮契約は失効すると博多電灯に通告する[8]。そして結論はこの期日までに出ず合併は自然消滅となり、博多電灯社内では太田が社長を辞任、経営陣は「火力派」へと交代した[8]。博多電灯との合併という形をとった福岡進出が失敗した広滝水力電気では、「三市水電」のもう一つの目標であった久留米への進出を図ることになる[4]

広滝発電所建設編集

1907年(明治40年)7月、広滝水力電気は広滝発電所の建設に着手する[9]。所在地は佐賀県神埼郡脊振村大字広滝(現・神埼市脊振町広滝)で、城原川を使用する水力発電所である[10]。出力500キロワットの発電機を2台設置し、1908年(明治40年)10月に竣工させた[9]。総出力1,000キロワットの広滝発電所は、完成当時九州で最大規模の発電所であった[9]

発電所からは、佐賀神埼諸富の3か所に設置された変電所まで、送電電圧11キロボルトの高圧送電線を架設して送電する体制とされた[9]。3変電所のうち佐賀変電所が発電所の完成とともにまず竣工し、佐賀への送電が始まる[9]。次いで1908年11月に神埼変電所、12月には諸富変電所も完成している[9]。なお諸富発電所からは県境を越えた福岡県筑後地方大川へと配電された[11]

1909年(明治42年)、倍額増資を行い資本金を60万円とし、その資金などで福岡県の久留米への送電線を建設、同年6月に完成させた[9]。秋からは、同地の電気事業者久留米電灯(1907年6月開業)への電力供給を始め[12]、筑後地方への本格進出を果たした[9]。さらに翌1910年(明治43年)5月には、佐賀県唐津の唐津電灯を合併した[6]。同社の資本金は10万円で、合併に伴い広滝水力電気の資本金は70万円になっている[6]

1908年10月の開業当初、供給実績は電灯数8,247灯と小規模であったが、翌年には1万6388灯へ倍増し、1910年には2万2129灯に達した[9]。動力用電力の供給実績も開業以来順調に伸びて1910年に797馬力となった[9]。電力利用は谷口鉄工場・佐賀器械製造所・厚生舎(綿織物製造)・佐賀セメントなどが従来の蒸気機関に代えて電動機を導入し、そのさきがけとなった[5]。こうした供給の拡大は、供給区域の拡大以外にも低廉な電気料金に支えられていた[9]。広滝水力電気の電気料金は、終夜の10灯を例にとると月額80銭であり、博多電灯の1円40銭、長崎電灯の1円20銭など、周辺の火力発電による事業者と比べて明確に安価であった[9]。供給実績の伸長に伴って業績も上昇し、1909年上期に初めての配当を実施したのを皮切りに、1910年上期には配当率が年率10パーセントとなっている[9]

唐津電灯について編集

1910年5月に合併した唐津電灯というのは、合併前年、1909年7月に設立された唐津の電力会社である[9]。唐津銀行(現・佐賀銀行)の頭取大島小太郎ら同銀行役員を中心に発起され、1909年5月に当局より事業許可を得た[5]。その計画は、火力発電によって東松浦郡唐津町・満島村(現・唐津市)に供給するというものであった[5]。社長となった大島以外にも、専務となった草場猪之吉など役員はいずれも唐津銀行の役員を兼ねた[5]

当時唐津には、唐津銀行と対立関係にある西海商業銀行という銀行があった。この西海商業銀行の役員である山村直太(頭取)や長谷川敬一郎らは、唐津銀行が火力発電による電気事業を計画すると、対抗して水力発電による電気事業、「七山水力電気」の設立を企画した[5]。火力派(唐津電灯)、水力派(七山水力電気)の両陣営は盛んに街頭演説や無料の演芸会を行い競って唐津町民に宣伝し、自陣営への取り込みを図った結果、やがて町内が火力派と水力派に二分されていった[5]。そのため町では市民が自派ではない知人や商店を避けて暮らすようになったという[5]。唐津町議会にも火力派・水力派の対立は波及し、電柱建設の許可をめぐり紛糾した[5]

唐津電灯は対立の中で町内の船宮にて火力発電所の建設に着手するが、最終的に同社が町内20か所に街灯を寄付し向こう3年間無料で点灯すると約束して町内の騒動は一応沈静化した[5]。そして1910年6月1日、唐津でも電灯の供給が始まった[5]。ただし火力派・水力派の軋轢は簡単には収まらず、町内のある料理屋では水力派の客が来店すると電灯を消してランプを用意したという[5]。なお火力派が開業した一方で水力派の七山水力電気は翌1912年に会社設立に至るが、資金不足で水力発電所の建設は実現しないまま1913年に広滝水力電気の後身である九州電灯鉄道に合併されている[13]

九州電気への改組編集

 
九州電気常務に就任した松永安左エ門
 
九州電気取締役兼支配人に就任した田中徳次郎

広滝水力電気では、供給の拡大に伴い広滝発電所だけでは供給力不足となる懸念が生じたことから波佐見鉱業(現・共立)から30万円で古湯発電所を買収することとなり[6]、1910年4月に買収契約を締結した[9]。この古湯発電所(買収後は川上川発電所と称する)は1902年(明治35年)10月の建設で[14]、佐賀県佐賀郡小関村大字小副川(現・佐賀市富士町大字小副川)に位置する、嘉瀬川上流の川上川を使用する水力発電所である[10]。11キロボルト送電線によって長崎県の波佐見鉱山まで送電していた[14]

買収契約締結後、発電所の立地する川上川についてその全流域について調査したところ、川上川ではさらなる電源開発が可能であると判明した[14]。しかしその開発には膨大な資金が必要であり、広滝水力電気の資金調達力では実現できないものと考えられた[9]。そこで経営陣は、福澤桃介を中心とする投資家グループの協力の下に新会社を設立し、これに広滝水力電気の事業・権利一切を引き継がせて新会社によって電源開発を遂行する、という方針を打ち出した[9]。新会社の発起人総代には松永安左エ門が就き、1910年8月に広滝水力電気との間に合併契約を締結[9]。同年9月5日に新会社「九州電気株式会社」の創立総会が開かれ、資本金200万円にて新会社の発足をみた[9]

新会社九州電気の役員は、広滝水力電気側から社長の中野致明、専務の伊丹弥太郎ら6人、福澤グループから取締役の福澤桃介・松永安左エ門・田中徳次郎ら6人と、両派同数で構成された[9]。新重役のうち松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、福澤とともに設立に参加した福博電気軌道(1909年設立)で専務になったことから1909年夏より福岡を本拠としていた[15]。九州電気においても1911年(明治44年)1月常務取締役に就任している[9]。この松永の推挙により、会社設立時より前三井銀行大阪支店長の田中徳次郎が取締役兼支配人となり会社実務を担当した[9]。田中も慶應義塾出身で松永の同窓生であった[16]

1910年12月、九州電気は広滝水力電気の合併を完了した[17]。合併後の資本金は270万円となっている[14]。同じく12月には波佐見鉱業からの川上川発電所買収も実行に移されている[14]

川上川発電所を買収した九州電気では、まず同発電所からの電力を受ける変電所を2か所に新設し、佐賀県西部の牛津武雄伊万里方面への配電を始めた[11]。次いで1911年12月には佐賀および唐津への送電線を新設している[11]。唐津送電線・同変電所の建設に伴い、同地の火力発電所(唐津発電所、出力120キロワット)は廃止となった[11]。またこれとは別に県東部の鳥栖にも同年8月変電所を設置し、広滝発電所からの送電を開始した[11]。業績について見ると、九州電気改組後も増収増益を重ね、改組で資本金が増加したため広滝水力電気時代より資本利益率・配当率ともに低下していたものの、1911年下期に配当率を年率7パーセントから9パーセントへと引き上げるなど順調に業績を伸ばした[9]

九州電灯鉄道成立編集

 
九州電灯鉄道社長に就任した伊丹弥太郎

1911年5月、九州電気は再び博多電灯と合併契約を締結した。今度は福博電気軌道を加えた3社で合併する、というものである[16]。合併は九州電気常務と福博電気軌道専務を兼ねる松永安左エ門が主導[16]。水力発電を電源とする九州電気と火力発電を電源とする博多電灯・福博電気軌道を合併すれば最も経済的に活動できるとの狙いからであったが[18]、九州電気・博多電灯の株主はこの合併に強く反対した[16]。当時の3社の業績を見ると、払込資本金は九州電気・福博電気軌道・博多電灯の順に多かったが、利益金はその反対で、したがって配当率も博多電灯12パーセント、福博電気軌道10パーセント、九州電気7パーセントという具合であった[16]。このことから博多電灯側は業績が見劣りする九州電気の合併に難色を示し、九州電気側は営業成績を基準とする不利な合併条件となることをおそれて合併に反対した[16]。また九州電気の本社転出をおそれた佐賀市議会も3社合併に反対する決議を行っている[16]

結果的に3社の合併は実現せず、さしあたり博多電灯・福博電気軌道の2社で合併することとなって1911年11月に博多電灯軌道が成立した[16]。博多電灯軌道の社長には博多電灯社長の山口恒太郎が続投し、松永が専務に入った[16]。博多電灯軌道成立後、同社の株価は会社の将来への期待から高騰したものの、反対に合併に参加しなかった九州電気の株価は下落していった[16]。このことから合併参加に反対していた九州電気の株主や一部役員も、博多電灯軌道と九州電気の合併に前向きになった[16]。博多電灯軌道としても電源拡充の必要性があるため両社の合併が推進されたが、今度は博多電灯軌道社内での路線対立が表面化し、合併賛成派の松永らと反対派の堀三太郎らが株式買占めによって主導権を争う事態になった[16]

博多電灯軌道では1912年(明治45年)4月の株主総会で紛糾の末に社長山口恒太郎の裁定で九州電気との合併方針が確認され、4月26日付で博多電灯軌道・九州電気の合併契約が締結されるに至った[16]。合併時の存続会社は博多電灯軌道で、同社は資本金を280万円から485万円に増資の上、九州電気の株主に対して1対0.8125(額面50円払込済み株式の場合)または1対0.75(25円払込株式の場合)の割合で新株を交付するという合併条件であった[16]

そして1912年6月29日、博多電灯軌道と九州電気の合併が成立、博多電灯鉄道側の社名変更により「九州電灯鉄道株式会社」が成立した[16]。合併に際し佐賀県在住の株主が合併後の本社を佐賀市に置くよう求めたが、同日の株主総会で九州電灯鉄道の本社は引き続き福岡市に置くと決まった[16]。総会では続いて役員選出をめぐって紛糾し、その結果筆頭株主の福澤桃介が社長就任を辞退、九州電気から佐賀の伊丹弥太郎が新社長に選出されている[16]。合併後、佐賀市には旧九州電気の供給区域を所管する佐賀支社(後の佐賀支店)が設置された[19]

年表編集

  • 1906年(明治39年)
    • 11月4日 - 広滝水力電気株式会社設立。
    • 11月6日 - 博多電灯との間に合併契約を締結。ただし合併は実現せず。
  • 1907年(明治40年)
    • 7月 - 広滝発電所着工。
  • 1908年(明治41年)
    • 10月 - 広滝発電所完成、送電開始。逓信省の資料によると10月1日事業開始[10]
  • 1910年(明治43年)
    • 5月 - 唐津電灯を合併。
    • 8月 - 九州電気発起人総代と広滝水力電気との間で合併契約が締結される。
    • 9月5日 - 九州電気株式会社設立。
    • 12月 - 九州電気が広滝水力電気を合併し、波佐見鉱業より川上川発電所を買収。
  • 1911年(明治44年)
    • 5月 - 博多電灯・福博電気軌道との間に合併契約を締結。ただし合併は実現せず。
    • 11月 - 博多電灯・福博電気軌道の2社のみで合併し博多電灯軌道が成立。
  • 1912年(明治45年)
    • 4月26日 - 博多電灯軌道との間に合併契約を締結。
    • 6月29日 - 博多電灯軌道と九州電気の合併が成立、九州電灯鉄道株式会社発足。

供給区域編集

1911年(明治44年)末時点における九州電気の供給区域は以下のとおり[10]

九州電気供給区域一覧(1911年末時点)
佐賀県
市部 佐賀市
佐賀郡 神野村・高木瀬村・加瀬村・久保田村・巨勢村・北川副村・東川副村・新北村(現・佐賀市)
神埼郡 神埼町(現・神埼市)、
蓮池村(現・佐賀市)、
三田川村(現・吉野ヶ里町
三養基郡 鳥栖町田代村基里村(現・鳥栖市
小城郡 牛津町・砥川村小城町(現・小城市
東松浦郡 唐津町・満島村・唐津村・鏡村浜崎村(現・唐津市
西松浦郡 伊万里町・牧島村・大坪村・二里村(現・伊万里市)、
有田町、有田村(現・有田町)
杵島郡 武雄町・中通村(現・武雄市
藤津郡 南鹿島村北鹿島村八本木村古枝村(現・鹿島市)、
塩田村・久間村(現・嬉野市
福岡県
三井郡 国分村・御井町・高良内村(現・久留米市
三潴郡 鳥飼村・三潴村・城島町・青木村(現・久留米市)、
大川町・三叉村(現・大川市
山門郡 柳河町・城内村・沖端村(現・柳川市

これらの地域はいずれも1951年(昭和26年)に発足した九州電力の管内にあたる。

発電所編集

広滝発電所編集

 
九州電力広滝第一発電所(旧・広滝発電所)

広滝水力電気が最初に建設した発電所は広滝発電所である。所在地は佐賀県神埼郡脊振村大字広滝(現・神埼市脊振町広滝)で、筑後川水系城原川を利用して発電した(水力発電所[10]。発電所の主要設備は以下の通り[20]

着工は1907年(明治40年)7月で、出力1,000キロワットの発電所として1908年(明治41年)10月より運転を開始した[9]。九州電灯鉄道成立後、周波数を下記の川上川発電所と同じ60ヘルツに統一することとなり、あわせて発電機1台(電業社製800馬力反動水車および芝浦製作所製625キロボルトアンペア三相交流発電機[21])を増設し1918年(大正7年)9月より出力1,500キロワットの発電所とされた[22][23]

その後は東邦電力日本発送電を経て1951年より九州電力に帰属し、同社広滝第一発電所(出力2,150キロワット、位置)となっている[23]

川上川発電所編集

九州電気の時代に広滝発電所とあわせて運転された発電所が川上川発電所である。所在地は佐賀県佐賀郡小関村小副川(現・佐賀市富士町大字小副川)で、川上川(嘉瀬川上流部)を利用した[10]。発電所の主要設備は以下の通り[20]

元は波佐見鉱業(現・共立)が運転していた「古湯発電所」で、1902年(明治35年)10月に建設され波佐見鉱山(長崎県)へ送電していた[14]。これを1910年(明治43年)12月に九州電気が買収した[14]。買収後の1911年(明治44年)12月に増設工事が竣工し発電所出力は1,050キロワットへ増強されたが、九州電灯鉄道成立後に川上川第一発電所が建設されるとその余剰水力での発電となり1918年以降出力は900キロワットに削減されている[22][23]

広滝発電所と同様に東邦電力、日本発送電を経て九州電力に継承されるが、1953年(昭和28年)12月に廃止され現存しない[23]

社長・中野致明編集

中野致明は(なかのむねあきら、1848-1917)は、旧佐賀藩家老の中野数馬の長男として肥前国佐賀城下赤松町(現・佐賀市赤松町)に生まれ、明治16年(1883)に旧藩主が関わる第百六国立銀行支配人となり、翌々年に取締役に昇任、鍋島家家扶であり百六銀行2代頭取として信望篤く、明治30年(1897)に佐賀商会議所創立時の発起人等を務め、翌年2代会頭に就任、明治40年(1907)に広滝水力電気社長に就任した[24][25][26]

厚生舎(1884年に鍋島直大が設立した士族女子授産のための佐賀産品生産施設)舎主のほか、佐賀セメント久留米電灯肥前漁業などの重役を務め、明治34年(1901)には佐賀馬車鉄道(のちの佐賀電気軌道)発起人となるなど、県内企業の育成を支援し、佐賀財界首脳として重要な役割を果した[24]。また明治45年(1912)九州電灯鉄道の成立時にも佐賀側の持株を取纏め、相談役の福沢桃介に働きかけて伊丹弥太郎を社長に推し、自身も初代取締役・監査役歴任した[24]。次男は佐賀美術協会の創設メンバーである洋画家の山口亮一[27]。中野は同協会の後援会会長となり、佐賀財界を挙げて支援した[27]

脚注編集

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  1. ^ 『株式年鑑』明治45年度、電灯24頁。NDLJP:803815/112
  2. ^ 『九州地方電気事業史』33-34頁他
  3. ^ 『九州地方電気事業史』38-42頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『九州地方電気事業史』78-80頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『佐賀銀行百年史』75-78頁
  6. ^ a b c d 『東邦電力史』59-61頁
  7. ^ a b 『桃介は斯くの如し』145-155頁
  8. ^ a b c d e 『九州地方電気事業史』95-97頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『九州地方電気事業史』80-83頁
  10. ^ a b c d e f 『電気事業要覧』明治44年66頁、NDLJP:974998/62
  11. ^ a b c d e 『九電鉄二十六年史』47-49頁
  12. ^ 『九州地方電気事業史』133-136頁
  13. ^ 『東邦電力史』64頁
  14. ^ a b c d e f g 『東邦電力史』61-62頁
  15. ^ 『私の履歴書』第21集、松永安左エ門4章
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『九州地方電気事業史』102-105頁
  17. ^ 『東邦電力史』606頁
  18. ^ 『東邦電力史』58-59頁
  19. ^ 『九電鉄二十六年史』56・113頁
  20. ^ a b 『電気事業要覧』大正元年186-187頁、NDLJP:974999/120
  21. ^ 『電気事業要覧』第12回256-257頁、NDLJP:975005/153
  22. ^ a b 『九電鉄二十六年史』116頁
  23. ^ a b c d 『九州地方電気事業史』772頁(発電所一覧)
  24. ^ a b c 大正期破綻銀行のリスク選好と"虚業家" : 佐賀貯蓄銀行と田中猪作をめぐるビジネス・モデルの虚構性小川 功, 跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 6, 115-131, 2008-03
  25. ^ 佐賀の洋画家山口亮一の父・中野致明が関わった佐賀明治期の財界展覧会パンフレット、山口亮一旧宅、2018年6月5日-6月17日
  26. ^ 中野 致明(読み)ナカノ チメイコトバンク
  27. ^ a b 山口亮一支援者の実像をパネル、写真などで振り返る佐賀新聞、2018/6/7

参考文献編集

  • 九州電力(編)『九州地方電気事業史』九州電力、2007年。
  • 佐賀銀行総合企画部(編)『佐賀銀行百年史』佐賀銀行、1982年。
  • 塩柄盛義(編)『九電鉄二十六年史』東邦電力、1923年。
  • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』各号
    • 『電気事業要覧』明治44年、逓信協会、1912年。
    • 『電気事業要覧』大正元年、逓信協会、1914年。
    • 『電気事業要覧』第12回、逓信協会、1920年。
  • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。
  • 橋本奇策(編)『株式年鑑』明治45年度、野村徳七商店調査部、1912年。
  • 福澤桃介『桃介は斯くの如し』星文館、1913年。
  • 日本経済新聞社(編)『私の履歴書』第21集、日本経済新聞社、1964年。

関連項目編集

  • 佐賀ガス(旧佐賀市営ガス) - 佐賀市のガス事業者