広瀬勝比古

日本の海軍軍人

広瀬 勝比古(ひろせ かつひこ、1862年9月20日文久2年8月27日) - 1920年大正9年)10月20日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

広瀬勝比古

履歴 編集

岡藩士・裁判所長、広瀬重武の長男として豊後国(現在の大分県)で生まれる。1883年(明治16年)10月、海軍兵学校10期)を卒業し海軍少尉補となる。1886年(明治19年)4月、海軍少尉任官。

1889年(明治22年)8月、海軍大尉に昇進し「日進分隊長に就任。以後、「愛宕」「日進」の各航海長、「龍驤」分隊長、佐世保鎮守府長官伝令使、海軍大臣伝令使、海相秘書官西郷従道大臣)などを歴任。1893年(明治26年)6月、「浪速」砲術長に転じ日清戦争に出征。「高陞号事件」にも関わった。

1895年(明治28年)9月、軍令部第2局員兼副官となり、次いで、イギリス出張(「高砂」回航)となる。1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「高砂」砲術長に就任。呉鎮守府参謀を経て、1898年(明治31年)10月、海軍中佐に進級。同年12月、軍令部第1局員兼西郷従道元帥副官に就任し、以後、「笠置」「磐手」「三笠」の各副長、呉造兵廠検査科長を歴任。

1903年(明治36年)12月、「大島艦長となり日露戦争に出征。旅順攻略作戦に参加。1904年(明治37年)5月18日、「大島」は旅順沖で哨戒活動中、濃霧の中で砲艦「赤城」に衝突され沈没した。同月、「鳥海」艦長に移る。1905年(明治38年)1月、「秋津洲」艦長に就任し、同月、海軍大佐に昇進。日本海海戦に参戦した。同年6月、「浪速」艦長に異動。

1905年8月に横須賀鎮守府付となり、1906年(明治39年)3月に休職した。同年9月から海軍大学校で選科学生として学んだ。1907年(明治40年)10月、「富士」艦長に就任。「筑波」艦長を経て、1910年(明治43年)12月に待命。1911年(明治44年)4月、海軍少将に進級し、同年12月、予備役編入。1918年8月27日、後備役となる[1]

墓所は青山霊園にあるが、弟の広瀬武夫のものと同じ場所に並んでいる。

栄典 編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族 編集

脚注 編集

  1. ^ 『官報』第1822号、大正7年8月28日。
  2. ^ 『官報』第931号「叙任」1886年8月7日。
  3. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  4. ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
  5. ^ 『官報』第7821号「叙任及辞令」1909年7月21日。
  6. ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
  7. ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
  8. ^ 『官報』第5835号・付録、「叙任及辞令」1902年12月13日。
  9. ^ 『官報』第8044号「叙任及辞令」1910年4月19日。

参考資料 編集

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。