度会 行忠(わたらい ゆきただ、1236年嘉禎2年) - 1306年2月11日嘉元3年閏12月27日)は、鎌倉時代後期の伊勢国(現:三重県伊勢市)出身の神道家外宮祠官伊勢神宮禰宜

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)

概要 編集

家号西河原[1]、度会神道(伊勢神道)の黎明期を代表する人物[2]として名高く、正直清浄の徳や祈禱の重要性を説くなどして[3]、度会神道の基礎を築いた。

行忠は生涯、『伊勢二所太神宮神名秘書』などの他に『心御柱秘記』を著した。また、神道五部書である『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本記』『造伊勢二所太神宮宝基本記』『倭姫命世記』は、いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に行忠らの外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとされる。行忠による『大元神一秘書』の執筆の可能性も指摘される[4]

行忠の後、同じく神道家の度会家行が禰宜となり、伊勢神道を確立した。

生涯 編集

1236年(嘉禎2年)、伊勢国(現:三重県伊勢市)に伊勢神宮の外宮権禰宜であった父・度会行継の元に生まれ[1]、祖父・度会行能養嗣子となった[5]

1251年建長3年)から53年間、外宮の禰宜を務めた。

しかし、1282年弘安5年)に内宮の造営料木に口出しをしたため禰宜を免除され、京都に移り住んだ。京都で様々な教養を身に付け、時の関白であった公卿鷹司兼平の命令により1285年弘安8年)から1287年(弘安10年)にかけて神道五部書の所説を明らかにした著書『伊勢二所太神宮神名秘書』を著した。同書は亀山天皇に認められ、同年1287年に禰宜に復職した。

1293年正応6年[6])に『伊勢二所太神宮神名秘書』の略本を著した[5]

1298年(永仁6年)から1300年正安2年)にかけて度会氏家系を纏めた『古老口実伝』を著した。

1304年(嘉元2年)に一禰宜になったが、1305年(嘉元3年)に亡くなった。

脚注 編集

  1. ^ a b 万有百科大事典 1974, p. 635.
  2. ^ グランド現代百科事典 1983, p. 395.
  3. ^ 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社(原著2009-3-30)。ISBN 978-4-634-01302-5 
  4. ^ 高橋 美由紀 (1980). “伊勢神道の形成と度会行忠――『大元神一秘書』の成立をめぐって――”. 日本思想史学 (日本思想史学会) 12. http://ajih.jp/backnumber/pdf/12_02_03.pdf. 
  5. ^ a b 中西正幸. “度会行忠”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月10日閲覧。
  6. ^ または永仁元年とも。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集