延宝の飢饉
1674年から翌年にかけて発生した飢饉
延宝の飢饉(えんぽうのききん)と、江戸時代の延宝年間に発生した全国的な飢饉。
延宝2年(1674年)から延宝3年(1675年)にかけて、風水害により諸国では飢饉が発生[1][2]。特に飛騨では1675年に数万人が(飢饉で)死亡した[3]。「橘宗賢伝来年中日録」(福井県立図書館文書)によれば「延宝三年卯天下飢饉、別シテ越前人多死、堀穴埋死人、同八年申越前飢饉人多死、山奥石ケ谷・立屋小山谷・平岡、右三ケ処ニ堀穴埋死人由」とある[4]。飢饉は延宝9年春(1681年)-天和2年(1682年)にも発生し、江戸では米の価格が急騰したほか、北陸では餓死者2,500人を数え、畿内では疫病も蔓延した[5][6]。
脚注 編集
参考文献 編集
- 山本博文『見る・読む・調べる 江戸時代年表』小学館、2007年。ISBN 978-4-09-626606-9。