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延沢 満延(のべさわ みつのぶ) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将最上氏の家臣。出羽国野辺沢城主。延沢ではなく、野辺沢と表記する場合もある。

 
延沢満延
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文13年(1544年
死没 天正19年3月14日1591年5月7日
別名 信景、満信、野辺沢満延
官位 能登
主君 最上義光
氏族 延沢氏
父母 父:延沢満重
光昌

目次

経歴編集

延沢氏天童氏を盟主とする最上八楯の一員であり、領内には延沢銀山を抱えていた。

満延は武勇に優れ、天童氏らと共に山形城最上義光と長きにわたり争い、しばしば義光を破った。最上八楯を降すためには満延を抑えねばならないと考えた義光は、天正12年(1584年)満延の息子・又五郎に娘の松尾姫を娶わせて満延を引き抜いた[1]。この時、満延は降伏の条件として天童頼澄の助命を願い出た。こうして満延を失った最上八楯は崩壊し、天童城は陥落したが、頼澄はかねての義光との約束通りに見逃され、国分盛重を頼って落ちのびていった。同年、義光が谷地城主・白鳥長久を滅ぼすと、その旧領の一部を与えられている。

天正18年(1590年)11月、義光に従って上洛した際に病に倒れ、翌天正19年(1591年)3月14日、京都にて死去。享年48。

人物・逸話編集

  • 義光は満延が剛力であることを知ってその力を試そうとし、家中の力自慢の者7・8人を庭に集めて待ち伏せさせたが、満延は飛びかかった男どもを即座に振り払った。驚いた義光は逃げようとして太さ2尺ほどの桜の木にしがみついたが、満延はなおも義光を引っ張ったため、両者がもみ合ううちに桜の木は根から引き抜かれて、義光ごと倒れてしまったという。

脚注編集

  1. ^ 『史料綜覧』第10編之911 142頁

出典編集

  • 『最上義光記』