建宮敬仁親王
明治天皇の子
敬仁親王(ゆきひとしんのう、1877年〈明治10年〉9月23日 - 1878年〈明治11年〉7月26日[1])は、日本の皇族。明治天皇の第2皇男子。母は、柳原愛子。大正天皇の同母兄、昭和天皇の伯父にあたる。
敬仁親王 | |
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続柄 | 明治天皇第2皇男子 |
全名 | 敬仁(ゆきひと) |
称号 | 建宮(たけのみや) |
身位 | 三品・親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1877年9月23日 |
死去 |
1878年7月26日(0歳没) |
埋葬 | 豊島岡墓地 |
父親 | 明治天皇 |
母親 | 柳原愛子 |
生涯
編集1877年(明治10年)9月23日、明治天皇と柳原愛子の第2皇男子(第4子)として誕生する。
異母兄・稚瑞照彦尊が死産であったことから、皇太子となるべき立場にあり、御名及び御称号からもそのことがうかがえるが、夭折した。同年9月29日、命名の太政官布告が出されている[2]。叙・三品。お印は不詳。1878年(明治11年)7月26日、脳水腫のため、薨去[3]。
夭折の翌1879年(明治12年)に誕生した同母弟・明宮嘉仁親王は成人を迎え、さらに1912年(明治45年/大正元年)には父・明治天皇が崩御したことに伴い、大正天皇として践祚し、皇統を継いだ。
住居として桃華殿を賜っている。後にこの建物は、1978年(昭和53年)に明治神宮社殿の東方に桃林荘として移築され、都選定歴史的建造物に指定されている。
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
子女無し | |||||||||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||